その日は午後から薄暗い天気だった。
天気予報では、明日の明け方から雨が降ると言っていたような気がするが、どうやら数時間の差でハズレてしまう事になるようだ。
視界に広がる海は、本来なら清々しい青に満ちているはずなんだが、今は灰色に近い光沢の失われた青。
その風景と、打ち寄せる白く泡立った波が立てる音が、徐々に寂しげな雰囲気を醸し出しはじめている。
どんよりとした空の色が、観光客を今日は早々に引き上げさせたせいかもしれない。
人がいない風景という物は、そこが観光地であってすら、どこか寂しい物だ。
時々風が鼻先に運んで来る潮の香りと、その空気に混ざってきている雨の匂いが、じきに来るであろう夕立ちを予感させる。
傘を持って来ていなかった俺は、それでもこの場から早々に立ち去る気になっていなかった。
ある意味、この淋しげな風情はおあつらえ向きだったからだ。
――それまで、何気にも気にしていなかった関係が
じゃり、じゃり、と
俺が砂浜を歩くたびに、湿った砂が歯切れの悪い音を立てる。
たった2日前には、ここをこんな想いで歩くことになろうとは全く考えていなかった事に、自分ながら憐れみを感じてしまう。
砂浜の先に目をやると、200mほど先にわずかに突き出た岬のような岩場が、静かな波頭に洗われて白い泡を身にまとっているのが見える。
干潮の時には、あの岩場も物思いにふけるには絶好のロケーションなんだが、残念ながら今は満潮に近い。
じゃり、じゃり
俺は歩みを進める。
と、
“ぽつ”
体に当たる、冷たい水の雫。
“ぽつ、ぽつ”
それは瞬く間に勢いを増してきた。
“ぽつぽつぽつ…… ザー”
あっという間に本降りになった夕立ちの中で、俺は慌てもせず雨宿りが出来そうな場所を探した。
辺りを見回す。
砂浜にそれらしいところは無い。
砂浜を駆け上がり、コンクリートの防波堤の上に立つ。
すぐ下は道路。
挟んで向かいは民家だ。
民家で雨宿りというのはちょっと気が引ける。
とか言ってるうちに
“ザーーーー”
「うわわっ!」
滝のように降ってきやがった。
糞、ゆっくりと感傷にも浸らせてくれないのかよ。
民家の軒先でもこの際構わないかと思いかけたが、すぐ先に潰れた会社の倉庫が
あることを思い出した。
「っし、急ぐか!」
最近この手の独り言が多くなったな。
そう、自分で自分に突っ込みを入れつつ、俺は堤防を降り、廃倉庫へと向かって走り出した。
――無くしそうになってから、貴重だと気づくなんて
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「夕立ち」 |
a side story of "To Heart" |
tribute of SUGA SIKAO |
Written by CRUISER |
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それは昨日の夜の事。
「……俺達、つき合おうか」
何気に、精一杯何気に言ったつもりだった。
心臓はバクバク、頭に血が上って、なんか訳がわからなかった。
少なくとも、こんな風に交際を申し込むなんて、俺自身は初めての経験だったから。
中学、高校、そして大学に入っても、俺は女の子に告白めいた事は言ったことが無かった。
もちろん好きになった女の子はいたし、それなりに仲良くなった子もいた。
ただ、本当に“つき合いたい”と思った相手は、彼女が初めてだった。
俺達は短大のクラスメートなんだが、日ごろから仲のいい数名が集まって、この海水浴場近辺に遊びに来ていた。
男4人、女4人のグループ。
海岸からすぐ近くの高台にある、観光客向けのホテルを拠点として、つかの間の夏休みを満喫するかのように、滞在期間の3日間連日遊びまくった。
そんな仲間の中に、入学早々からよく話すようになったあいつがいたんだ。
あいつはとても気さくで明るく、よく喋るやつだった。
何事にもアグレッシブで、仲間内の行事を仕切ったりするのもお手の物、飲み会や今回のような旅行だって、ほぼ彼女が幹事を請け負っている。
そんなヤツだから、同性にも異性にも受けがよかったしいつも話題の中心にいた。
俺があいつと仲良くなったのは、会話でよく冗談をやりとりしてたからだと思う。
あいつはよく会話に“ニュース”と称して噂話を盛り込むのだが、噂だけに信憑性薄いポイントがよくあり、俺がそれにビシビシ突っ込みを入れるので、自然に漫才のようになっていくのだ。
それを周りが面白がって、もっと煽るものだから、お互い調子に乗って、本当に漫才を始めてしまう事もしばしば。
そういうノリが俺もあいつも気に入っていて、ほんとによくやっていた。
そんな事を繰り返していくうち、俺とあいつは、旧知の友人のような感覚になっていったんだと思う。
それがいつからだろうか、あいつの顔を見たり、視線を受ける度に、どくん、と心音が大きくなるようになったのは。
あいつは正直に言って可愛い部類に入る女の子だと思う。
ちょい薄めの色のショートヘアも活動的な性格に合ってたし、スタイルも上々。
よく冗談で“芸能界デビューする”と言ってたが、マジメにデビューしてもおかしくない外見をしていると思う。
だが、それだけじゃない。
あいつとよく話すようになって、しばらく経ってからわかった事がある。
時々なんだが、あいつは、ふっと淋しげな表情をする時があるんだ。
最初は全く気にしていなかったが、よくよく気にしてみると、みんなと騒いだり話してたりしている時に、ちょくちょくそんな淋しげな顔をするのだ。
その表情が、今までの明るいあいつの印象から想像できない物があって。
なんというか、憂いを帯びたその顔に、俺は心を掴まれてしまったのだ。
そして昨夜。
星が瞬く夜空の下、砂浜のバーベキュー施設を借り、俺達はささやかながらパーティを行った。
皆で大いに盛り上がった後、喋り疲れて皆の輪から少し離れた所で、俺は座って星を眺めてた。
俺の住む街では見られない満天の星空があまりに綺麗で、普段は心の奥に引っ込んでいる色々な感傷が、頭の中に浮かんでは消えていく。
そこへあいつがやってきた。
適度にアルコールが入って、とてもご機嫌な様子だった。
俺の隣に座ったあいつと、ひとしきりいつものように会話すると、あいつは夜空を見上げた。
しばらくの間があり、そして
(綺麗……)
あの憂いを帯びた顔で、そうつぶやいたのだ。
心臓が止まるかと思った。
なんでこんなに息苦しいのか。
あの顔、あの表情が俺をこんな風にしてしまう。
そして……
俺はそのセリフを吐いたのだった。
*
廃倉庫は鉄筋コンクリートの代物で、雨をしのげるひさしのような物がついている場所は限られていた。
事務室だったと思われる扉の前だけだ。
その軒先に俺は体を滑り込ませた。
「ふぃー、えらいめにあったぜ」
独り言を言いつつ、目線を上げる。
目の前には大粒の雨と、それが地面ではじけて作る水しぶき。
ザーという煩いぐらいの雨音。
強めに吹き通っていく涼しい風が、火照った体に心地いい。
俺は四季の中では夏が好きだ。
今降っている夕立ちさえ、とても“夏”らしいと思えばそれは楽しい。
心が外へ広がっていき、暑い太陽の下で好き勝手に駆け回れる季節。
夏独特の、空気中に含まれる“太陽”の因子みたいな物が、俺に活力を与えてくれるような気がするのだ。
だからかもしれない、昨夜あいつにあんな事言ったのも。
今思えば勢いだけだったようなあの告白も、憂いのある顔をさっと消して、きっと今までのようなノリで
「そうね、まぁ別にいいわよ」
と、言ってくれると思っていたから言えたのかもしれない。
……でも
そうはならなかった。
*
その時、あいつは立てた両膝の間に顔をうずめるようにして、
「つき合うって、どうする事?」
そんな事を聞いてきたのだった。
大学生になってもそんな事わからないのか… と一瞬思ったが、そうではなくて、もっと深い意味の問いかけだと気づき、返答を探していると、
「一緒に遊んだりする事?」
そう聞きなおしてきた。
「ああ、まぁそうだな」
うまい答えが見つからず、曖昧にうなずくしかなかった。
「カラオケ行ったり、お酒飲んだり、お喋りしたり、こうやって旅行したりする事?」
「…そうだな」
あいつは顔を上げ、正面の海を見つめ、
「だったら今と同じよね…」
そんな事を、何かを思い返すように呟いたのだった。
しばらくの間。
「………それだけじゃない」
俺は意を決して切り出した。
「…キスもするし、Hもする」
「………」
そんな事を口走った俺に、あいつは驚きもせず、怒るでもなく、黙っていた。
張り手ぐらいは甘んじて受けるつもりのセリフだった。
でもあいつは、ぷっと噴出して
「……バカじゃない、そんなことよく言うわね」
そんな風に軽く悪態をついて受け流してみせた。
ざー、という波の音がやけに大きく響く。
「…ごめん。嬉しいけど… あたし、無理」
“ごめん”
“無理”
頭の中でリフレインする二つの言葉。
「あたしは、今まで通りのがいいと思ってる…」
「…そう……」
繋ぐ言葉が見つからなかった。
再び二人の間を沈黙が支配する。
重い。
全身から力が抜けてしまったかのようだった。
「さて、戻るか」
生まれて初めての告白が玉砕に終わった俺は、思い切り普段どおりの調子を作り、あいつに声をかけた。
だがこれからも今までどおり、掛け合い漫才やどーでもいい内容の会話を続けていこう。
当然何でも今までどおりにはいかないだろうが、それを突き崩してしまったのは他ならぬ俺なのだから。
だからつらくとも、あいつとは普段どおりに接していかなくちゃならない。
そうして俺達は、皆と合流してホテルに戻ったのだった。
*
目の前の夕立ちは、一向に弱まる気配を見せなかった。
とりあえず皆には携帯で雨宿りしているからと、心配しないように伝えておいた。
ここからホテルまではそう遠くはないし、最悪また走っていけばいい。
なんにせよ、一人で感傷に浸りたかった俺としては、丁度いいとも思える雨だった。
あいつの言葉を反芻する。
『…ごめん。嬉しいけど… あたし、無理』
平たく言ってしまえば、“友達でいましょうね”って事なんだろうな。やっぱり。
まぁそれが、女が男を振る時の常套句だって事は俺でもわかる。
ただ、俺とあいつの場合は、本当に口やかましい友人としてやってきているから、きっとそれが一番あいつにとって望ましい形だったんだろうと思う。
そんな事は俺もわかっていた、わかっているつもりだった。
つかず離れずの微妙な距離。
バカ話したり、掛け合い漫才したり、気兼ねなく遊びに行ったりできる関係。
それはそれで楽しかった、それ以上を望まなければ。
…でも、あの憂いを帯びた淋しげな顔が、そんな俺の防御壁を簡単に打ち破っちまった。
だからこそ
何かを失う事がわかっていても
お互いの距離を縮めて
それ以上の関係に
なりたいと…思った
そして…
気兼ねの無い友人から、ただの友人になったわけだ。
パラパラパラと、雨を何かが弾く音がして、俺は我に帰った。
それが傘が立てる音だと気づいたのは、黄色いそれをさした誰かが、こっちへ向かってきたからだ。
それはあいつだった。
「長岡…」
あいつは手にもう一本傘をもっていた。
ちょっと緊張する。
あいつは俺の前で立ち止まると、差していない方の傘を差し出した。
「ほれ」
じっと俺を見つめている。
俺もしばらく固まっていた。
なんでこいつがここにいるのかわからない。
「ああ、さんきゅ」
そう言って傘を手に取る。
そのまま動かない俺。
「………」
何と声をかけるべきなのだろう。
「なんでここに?」
意を決して俺がそういうと、
「何いってんのよ、夕立ちで立ち往生してるって言うからわざわざ来てあげたんじゃない。ケータイで助け求めて泣いてたって聞いたわよ。まったく大学生にもなって恥ずかしくない?」
いつも通りの軽快な嫌味が、ポンポン飛び出してきた。
誰だよそんな事吹き込んだヤツは……
なんにせよ、こいつは普段通り。
昨夜の事は…まぁそんなに気にしてないみたいだ。
「あのなぁ、俺はそんな事一言も言ってないぞ。だいたいケータイで連絡したのだって、『しばらく近くの倉庫で雨宿りしてくから心配すんな』だったんだからな。それを泣いてたなんて、誰がそんなマネするか」
オレもつられていつもの調子で言い返す。
「何いってんのよ、こないだのカラオケ勝負であたしに負けたとき、悔しくて立ったまましばらく呆然としてたじゃない。あの時手がびみょーに震えてたの、あたしは見逃さなかったわよ」
「なっ、おまえ余計な事覚えてるな!」
そうそう、
こいつとは、こういうノリがいつも楽しかったんだ。
まるで昨夜の事など、何も無かったみたいだ。
「………」
お互いの間に、突然生まれる沈黙。
聞こえるのは今だ弱まる事の無い雨の音だけ。
考えてみれば、こいつが俺に気を利かせて、わざといつもどおりに振舞ってくれているような、そんな気がする。
そのまま雨の中、ぼーっと立たせておく訳にもいかないか。
「まあ、入れば」
軒下の空いたスペースへ促す。
「ん」
するりと体を滑り込ませて、傘を畳んだ。
ノースリーブの服が胸元を強調しているようで、ちょっとドキリとする。
「……あのさ」
そう言ってあいつは顔を上げた。
その視線の先には降り続ける雨。
「昨夜の事だけど…」
心音が一つ大きく鳴った。
「…ああ」
「し、正直言うと、つき合ってもいいかなって思ってたのよ。あんたと遊んでる時、割と楽しいし、なんでいうのか、ちょっと安心できるっていうか…」
その横顔が少し赤い。
「実際、あの時はそういう事言われそうな予感、してた。言われてびっくりしたけど、嬉しかったってのもホント」
「ば、ならなんであんな事…」
言ったんだ、という言葉が続けられなかった。
例の、淋しげな憂いを帯びた顔をこっちに向けられたから。
その顔で俺を見つめている。
とくん、と一つ、大きな音が胸から響いた。
「あんたさ、似すぎなんだ」
「…似すぎって、誰に?」
「………」
俺は自分の記憶を総動員して『俺に似ているヤツ』を探す。
少なくとも今回の旅行に一緒に来ているヤツらの中に、俺に似たのは一人もいない。
大学の知り合いにも…いないと思う。
いや、待て。
こいつは『俺に似ている』から『つき合えない』という事を言っているんだろう。
だったらそれは、
「…それって、俺の知らないヤツだよな」
コク、と無言で頷く。
「ゴメン、あたし、過去の事にするべきなのかどうか迷ってる、そういうオトコが一人いる…」
つまりは、
こいつの心の中には、俺に似た誰かが既に住み着いていて。
俺はその誰かに似ているから、こんなに近い間柄で。
「こんな気持ちでつき合ったら、あんたをすごく傷つけちゃうから、だから、無理…」
そのまま申し訳無さそうに、うつむく。
こいつのこんな表情を見たのは、知り合ってから初めてだ。
まるでそれは、おびえている子猫のような。
守ってやりたいけど、手を差し伸べると逃げられてしまいそうな。
そんな感覚。
「オッケイ、わかった。話してくれてサンキューな」
いつのまにか雨の勢いが小雨程度に弱くなってきていた。
遠くには、雲の切れ間からうっすらと差し込む光が見える。
じきにこの雨も止むだろう。
不思議な事に。
俺の心の中は、とても穏やかだった。
そのまま何も話す事は無く、
ただじっとして、雨にうたれている草の葉や、地面に跳ね返る水のしぶきが作る模様を眺めていた。
湿った風が時々雨粒を乗せて、俺の顔を撫でていく。
あまりいつもは感じない、時間がゆっくりと流れていく感覚。
ふいに
隣にいるあいつが、静かにメロディーを口ずさみ始めた。
それは、俺には
聞き覚えの無いメロディーだったけど。
春、桜の花が舞い散る風景の中、共に過ごしてきた人との思い出を語るような。
そんな歌だった。
もうすぐ日が落ちて、辺りは薄暗くなるだろう。
そうしたら俺達は住んでいる街に帰らなくてはならない。
明日になって、俺とこいつの関係がどうなるのかはわからないけど。
もしいつか、こいつと離れてしまう時が来たら。
俺は今日のこの夕立ちを思い出して、精一杯の空元気を作って
サンキューと言ってやろう。
歌が途切れたのを合図に、俺達はお互いに見つめあった。
再び見せる、俺の心を掴む、憂いに満ちた顔。
ほんとに綺麗だと、思う。
おまえ、いい女だよ。
その俺に似た男とやら、さぞかし朴念仁なんだろうな。
「なにニヤついてるのよ、気持ち悪い」
「……帰るぞ」
「ん」
俺は軒下から小雨の中に飛び出した。
体にあたる雫のような水が心地いい。
そうして俺達は、濡れたアスファルトを走った。
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