(Leaf Visual Novel Series vol.3) "To Heart" Another Side Story

呑気なしあわせ

Episode:綾香

Original Works "To Heart" Copyright 1997 Leaf/Aquaplus co. allrights reserved

written by 尾張




「んーっ」
 綾香が思いっきり伸びをした。
 ……結構伸びるな。
 背中を反らして腕を伸ばすと、綾香の身体が綺麗な曲線を描いた。
「ふわぁ」
 伸びきった身体で、大きなあくびをする。
 その吐息で、辺りに漂っていた湯気が吹き飛ばされていく。
 綾香とオレは、いまは湯船の中に浮かんでいた。
 当然のことだが、二人とも裸だ。
 適温の湯が、身体の心まで暖めてくれるように、心地いい。
 これが温泉旅行で秘境の宿に二人きり、とかなら何も問題ないんだが……。
「……なあ」
「なにかしら?」
 無邪気な笑顔で、綾香が応える。
 ……すっとぼけるつもりらしい。
「さすがにまずいんじゃないのか、これは」
 現在地、来栖川家の大浴場。
 いくら家人が出払っているとはいえ……あまり心臓によろしくない。
 そもそも、当たり前のことだが屋敷の中にまったく人がいないっていうわけじゃないん
だし。
「大丈夫だってば」
「でもなんか、さっきから妙な視線も感じる気がするし」
「――覗き!?」
 ざばあっと湯を派手に持ち上げながら、綾香が立ち上がって左右に視線を走らせた。
 まるで獲物を狙う猫科の猛獣のように、神経をあたりに張り巡らせていく。
 いや、それよりもまずは、自分の身体を隠すべきなんじゃないのだろうか。
 思いきり色々と見えていて、視線のやり場に困る。
「……もう少し、恥じらいとか持ったほうがいいとは言われないか?」
 動じるでもなく、ゆっくりと湯の中に身体を戻した綾香に、訊ねた。
「浩之以外には、全然」
「ひょっとして、からかわれてるか、オレ」
「んー、どうだろ」
 口元に少しだけ笑みが浮かんで、また元に戻る。
 なんかたくらんでるな、これは。
「正直に白状した方が身のためだが……」
「う、なんかイヤな目つき」
 戦闘態勢、というほどではないものの、綾香の四肢にも緊張が走るのが見て取れた。
 身体を丸めるようにして、湯の中に身を沈めている。
 オレは、正面から攻めるほど身の程知らずでもない。
 お湯の抵抗を身に受けながら、じわじわと近づいていく。
「なにたくらんでるのよ、浩之」
「……別に」
 いつのまにか、責められる立場が逆転していた。
 気にせず、ゆっくりと手を伸ばして綾香の頬に触れる。
「?」
 いつもより上気して赤みを増した肌に、手のひらをあてた。
 きゅっと、軽く力を込めると、綾香はくすぐったそうに、少し照れながら笑う。
「……ごまかそうとしてるでしょ」
「そっちこそ」
 抱き寄せて、くちびるに触れる。
 予想よりも熱い感触。
 そこにただ触れるだけの、口づけ。
「…ん……」
 綾香が、甘い息を吐いた。
 指先をすべらせて、首筋から濡れた髪を梳く。
「……さて。こっからは、さっきのお仕置き」
「きゃーっ」
 わき腹をつかんで、少し力を加えてやる。
 さすがにくすぐったいのか恥ずかしいのか、綾香は手をばたつかせて抵抗した。
「や、やめ……」
 反撃がこないうちに、後ろに回り込んで身体を引き寄せる。
 すべりやすい足もとも手伝って、案外簡単に、座り込むような格好で後ろから抱きしめ
ることが出来た。
「さーて」
「な、なによ……」
 綾香の肩にあごを乗せて、耳元に顔を寄せる。
 両腕は、腰のあたりをつかんだままだ。
「オレとしては、おてんばなお姫様には、もうちょっとおとなしくなってもらう必要があ
ると思うけど……。本人としてはどうかな、と」
「……あたしのこと?」
「まぁ、この場合はそうだな。おてんばというかじゃじゃ馬というか」
「失礼ね」
「オレの認識としては、そうでもない」
 片手だけで湯気に濡れた髪の毛をなでてやるのが、妙に気持ちいい。
 くせになりそうだった。
「うー」
 綾香も、怒ったものか甘えたものか、迷ったような複雑な表情でそれを受け入れている。
 しばらく続けてやっているうちに、綾香の身体からすっと力が抜けた。
「ふぅ」
 力を抜いた身体を、寄りかかるようにして預けてくる。
 もっとも、お湯で浮力が付いているから、さほど重いわけでもない。
「……なんか失礼なこと考えてたりしない?」
 抱きかかえている位置を少しずらしたオレに、綾香がそんなことを言う。
 ――鋭いな。
「いや、長いこと入っているせいなのか、体温上がってるのかなって」
 ごまかしでもなく、オレはそう答えた。
 密着した肌のぬくもりは、お湯の温かさとは違ってほのかに感じる程度だが、触れあっ
ているという感覚が嬉しく思えてくる。
「なーんか信用できないのよねー」
「いや、別に綾香がちょっと重いとか、そういうことは考えてないから」
 むぎゅー。
 間髪を入れずに、綾香の指がオレの頬を引っ張る。
「ひたひ……ひたたたた」
「失礼なこと考えてた罰」
 すぐに外れた指先は、オレの首筋に巻き付いてきた。
「あー、重くない。むしろ健康的」
「……フォローする気、なさそうね」
 別にいいけど、と拗ねたように言って、小さく息を吐く。
「まさか、気にしてるのか?」
「言われる相手によっては、気になるものでしょ」
「いや、別に重くはないと思うぜ、ホントの話」
 鍛えた身体らしく、ぱっと見よりは重い感じ、するけど。
 贅肉、ないし。
「……」
 無言のまま、足を踏まれた。
 ご丁寧にも、ぎゅうぎゅうと力を入れて踏み続けてくる。
「それ、結構痛い」
「知らない」
 頬をふくらました綾香の横顔を見ることになった。
 こちらには一瞥もくれず、ただオレを踏んでいる箇所にのみ力を込めているらしい。
「わ、悪かった。謝る」
「イヤ」
 とりつくしまもない。
 どうやらすっかりご機嫌斜めのようだ。
「おぉーい」
「……」
 ついに反応なし。
 無視を決め込むことにしたらしい。
 ……まいったな。
「よし、わかった。オレが綾香のこと重くないって思っているのを証明してやる」
「……」
 どうやって?って目が、オレを見る。
「うーん……そうだな、例えば」
「例えば?」
「ベッドに抱え上げて運ぶとき、重さでよろけたことないし」
 離さないで、って感じで抱きついてくるのには、倒れそうなくらいクラクラするけど。
「綾香が上になってる時、重いって思ったことないし」
 揺れる胸が重そうだと思ったことはあるけど。
「ほかには……」
「も、もういい」
 気づくと、綾香は身体を丸めて笑っていた。
「真面目な顔してヘンなこと言わないでよ、もう」
 ひとしきり笑ったあと、涙を溜めたままオレを見る。
 しょうがないわね、といった感じの顔になっていた。
「まじめに考えたんだけどな」
「……のぼせてるんじゃないでしょうね」
 ざばりと湯音を立てて、綾香がこっちに向き直った。
 濡れた手のひらを、オレの額に当ててくる。
 どうやら、体温をはかる気でもいるらしい。
 っていうか分からないだろ、この状態じゃ。
「よく分かんないわね」
「当たり前だ」
「湯あたりする前に上がりましょうか?」
「ま、ゆっくり暖まったしな」
 言って、立ち上がった。
 続いて、湯船から上がろうとした綾香が、目の前で不意によろける。
「えっ?」
 慌てて、崩れかかる肩をつかまえる。
「ごめん……のぼせたかも」
「急に立ち上がろうとしたからだろ。……持ち上げるぞ」
 力の抜けた綾香の身体を、背中と膝の下に腕を入れてゆっくりと抱き上げた。
「……訂正していいか」
「ん、なにが?」
 ぎゅっと、綾香がオレの腕をつかんだ。
 その指先にも、いまはあまり力がない。
「やっぱり、ちょっと重いかも」
「……もう」
 さすがに苦笑だけして、綾香はゆっくりと息を吐いた。



 少し冷えた空気が、長ブロでほてった肌に気持ちよかった。
 どうも、オレも少しのぼせたらしい。
「……ところで」
「ん、どしたの浩之」
 綾香は、すでに復活して着替えもすませていた。
 なぜか呑気に浴衣姿。
 まだ濡れた肌に、ところどころ薄手の布地がぴったりと張りついていて、妙になまめか
しい。
 オレも、綾香に付き合わされて浴衣姿だ。
「入るときにも思ったけど、なんでこの脱衣所、こんなに銭湯っぽいんだ?」
 回りには、なぜか無数のカゴ。
 柱の上方に取り付けられて、少しやかましい音を立てながらがんがん回る旧式の扇風機。
 微妙に旧式の体重計。
 隅のほうに鎮座している自動マッサージ機能付きのでかい椅子。
「あー、なんかお祖父様の趣味らしいわよ」
「……豪快な上にいい趣味だな」
 自宅の風呂場を銭湯風に改造したなんて話、聞いたことねーぞ。
 ていうかそもそも綾香んち以外、そんな大きな風呂がある家がないか。
 などと一人で合点しているオレを置いて、綾香は隅のほうへ歩いていく。
「ねえ、なんか飲む?」
 立ち止まったその先には、なぜか自動販売機。
 綾香のじいさん、こだわりすぎだ。
「……浩之、小銭持ってなかった?」
 しかもお金払うのか。
「あー、ちょっと待ってな」
 丸めてかごに放り込んである服から、財布を取り出す。
 綾香の差し出した手のひらの上に、小銭を乗せてやった。
 ちゃりんちゃりん、がこん。
 ほどなく、オレの前に飲み物の瓶が差し出される
 受け取って、深く考えもせずにセロファンをはがして、紙のふたを開けた。
 ひんやりとした瓶の感触が、くちびるに当たる。
「……なんでだ」
「え?」
「だから、なんでコーヒー牛乳だのフルーツ牛乳だのが転がっているんだ。しかもとびき
り冷えてて、瓶入りだし」
「あー、それね。そっちは、姉さんの趣味」
 ぶば。
 予想もしていない言葉に飲みかけのコーヒー牛乳を噴き出しそうになり、慌てて止めた
ら気管に入った。
 げほげほと、激しく咳き込みながら綾香の言葉を反芻する。
 ……意外だ。
「なにがあっても不思議じゃなさそうだけどな」
「姉さん、謎が多いからね……」
 人ごとみたいに言われても困る。
「なんか魔術に関係あるのか」
「ありそうには見えないけど」
「……お前の趣味とかは反映されてないんだろうな」
「向こうには銭湯なかったしねー」
 うそぶいてる姿が、なんか怪しい。
 浴衣は、こいつの趣味だな、こりゃ。
 ……まぁ、いいけど。
「しかし、久しぶりだなこんなもの飲むのも」
 ごきゅごきゅごきゅ…。
 ぷはーっ。
「……浩之、オヤジ臭いよ」
「ぐっ」
 ぼそっと言われると、さすがにちょっとこたえる。
 文句を言ってやろうと、振り返った。
 綾香の手には、フルーツ牛乳の瓶がある。
「……ちょっと待て」
「あら、なにかしら」
「人のこと言えるかっ、自分はそんなもん飲んでるくせに」
「ああ、これ? だって好きだし」
「フルーツ牛乳はよくてコーヒー牛乳はダメなのか?」
「どっちかっていうと、飲み方の問題だと思うんだけど」
 きゅっと音を立てて、綾香が紙で出来たふたを取った。
 見た目優雅な手つきで、それを口元に運ぶ。
 なんか妙な光景ではある。
「妙に上品なのが、この場に似合ってないように見える」
「そうかもね」
「……ところで」
 飲み終わった瓶を手近なところに置いて、綾香のほうに向き直った。
「今日は……その、やっぱり一緒に寝るのか?」
「う……、うん。そのつもり」
 あらためて確認すると、なんか妙に照れくさい。
 いくら、綾香の親公認の仲でも、だ。
「大丈夫よ、今日は家にいるのセリオくらいだし」
「よし、じゃあまず最初は、浴衣を着たまま……」
 ごす。
 綾香の肘が、綺麗にオレの横腹に決まった。



 ――後日。
 なかば無理矢理、プールに誘われたというか脅迫されたというか。
 気が付けばプールサイドで綾香の来るのを待っているオレ。
 ま、別に嫌いなわけじゃない……っていうかむしろ好きなんだから望むところではある。
「ごめんごめん、待たせちゃって」
 ぼーっと水面を眺めていると、背後から声がした。
「……あれ?」
 振り向くと、綾香が水着姿……じゃなかった。
「ん……なんか、恥ずかしくって」
 よほど怪訝な顔をしていたのか、オレが訊ねる前にそう口にする。
「なにが?」
「その……新しい水着」
 パーカーを着て出てきたワケを、ぼそりと呟く。
「恥ずかしいって……まさか、見せられないほど過激なデザインなのか?」
「ちっ、違うわよっ。……そうじゃなくて、なんかあらためて見せるの恥ずかしいってい
うか、その」
 妙に落ちつかなげに視線を落としたりする。
 分かるような、分からないような理屈だった。
「別に、全部見たこともあるし、それこそ今さら……がっ」
 足の上に、思いっきり綾香の踵が落ちてきた。
「なに恥ずかしいこと大声でしゃべる気なのよ」
「い、痛いって……」
 それに、太ももが見えるアングルがきわどすぎ。
 なんかこう、恥ずかしいっていう基準がよく分からなくなってきた気がする。
「しつけよ、しつけ。……ったく、そういうところは相変わらずないんだから」
 ぷう、と頬をふくらませたまま、足をどける。
 そんなぶんむくれた姿が、可愛く見えた。
 なんていうか、こう、ダメな感じかもしれない。
 オレはこいつに惚れてるんだな、って思うのはこんな時だ。
「……オレ、さ。綾香に出会えて良かったよ」
「え、なに。どうしたの?」
 唐突な俺の言葉に、目を丸くした綾香の顔。
 なんだか自分でもおかしくなって、笑いがこみあげてくる。
「いや、惚れてるなって思って」
 身体を寄せて、肩を抱いた。
 綾香も、オレの腰に腕をまわす。
「……ありがと」
 そっと、綾香が応えた。
 ぎゅうぎゅうと、身を寄せ合ってプールサイドを歩く。
 これから、たぶん、ずっと。
 こうやって過ごしていくんだろう。
 そう考えると、なんだか妙な気分になって。
 くすくすと、二人して同じように笑った。







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