『流れ始めた時間の中で』 〜 To Heart 綾香 〜             



 ──ある、春の日。
 俺と綾香は、ヤックにいた。店内には、楽しそうな声が満ちている。
 できるだけ目立たないように隅の席を選んだのだが、綾香が一緒にいる以上、目立た
ないようにする──というのも無理な話かも知れない。
 綺麗な長い黒髪。整った顔だち。スタイルもいい。
 おとなし目の恰好をしているとはいえ、人目を引くだけの要素は十分に持っている。
 こいつと一夜を過ごしたということが、まだ少し信じられない気分だった。
「で、なんだって? 聞いておきたいことがあるっていってたろ」
「──じつは、朝起きてからも酔いが残ってたのか、あの朝のことはっきり覚えてない
のよね」
 綾香が、わずかに頬を染めて、話を切り出した。
 あの朝、というのは俺の家で飲んでいた日のことだろう。
「…それで、なんだけど。あたし、なんか恥ずかしいこと言わなかった?」
 今度は、はためにもはっきり分かるほど真っ赤になった綾香が、言葉を続ける。
「覚えてないのか?」
 言いながら、俺も記憶をたどっていた。
「ところどころ断片は覚えてるんだけど…その、浩之としちゃったこととか…」
 うつむいて、らしくないしぐさで、綾香は消え入りそうな声を出した。
「でも、あたしがなんて言ってたかとか、覚えてないのよ…ヘンなこと、言ったりしな
かった?」
 顔を上げた綾香が、恥ずかしそうに俺の目を見た。
「覚えてないのか…そうか…」
 少し残念だったが、それはそれで仕方がないような気もした。なにせ飲み慣れない──
綾香がどうかは分からないが──酒を飲んで大騒ぎした次の朝だ。
 正直なところ、俺も細かいところまで正確に覚えてはいなかった。
 少し、からかってやるか。
「実はな…」
 口を寄せて、綾香の耳もとでぼそぼそとささやいた。
「えっ? ホントに?」
 先ほどにも増して、綾香が顔を紅く染めた。
「…うそ」
 からかうような口調で、とぼけてみせる。
「ちょ、ちょっと。いじわるしないで、本当のこと教えてよ」
「どうしよっかなー」
「あーん、もう。性にあわないことはやめるっ」
 握りしめたこぶしをことのほか強調しながら、俺の首筋に手が伸びる。
「ひろゆき。素直に吐いたほうが身のためよぉ…」
 オーラ──というよりは殺気に近いものが、綾香の全身から立ちのぼっていた。
「わ、わかった。ホントのこと話すから…」
 話の内容が内容だけに、回りを気にしながら、俺は綾香の耳元に口を寄せた。
 ごにょごにょと、小さな声でささやく。
「──『ずっと、一緒にいてね。愛してる』って」
 それを聞いた途端、綾香の顔色が微妙に変化した。
「うそっ、そんなこと言ってないでしょ」
「…オレが本当のこと言っても、信じないんなら聞く意味がないじゃねーか」
「だって、だって、だって…」
 かああああっ。
 綾香が、耳まで真っ赤に染まった。
「…ごめんなさい。あたしってば、どうして素直になれないのかな」
「好きにしてくれ。本当のことは知ってるから、大丈夫だよ」
「…バカ」
 ぽふっと、綾香が頭を俺の胸にあずけてくる。
 服に触れた唇が、わずかに動いた。
「浩之のことなんか………き…なんだからね」
 その綾香の言葉は、よく聞き取れなかった。
「…なに? なんだって?」
 気になって、綾香にたずねる。
「──なんでもない。浩之には教えてあげないの」
「ちょ、ちょっと待て綾香。ずりーぞ、それ」
 俺が文句を言うと、綾香は席を立って、くるりと身を翻した。
 長い髪が、ふわりとと宙に舞う。その美しさに、思わず見惚れてしまった。
 その瞬間に、綾香が顔を寄せた。
 唇に、一瞬だけ柔らかい感触が押しつけられる。
「大好き、っていったの。…たぶんね」
 唇を離した綾香は、いつもの調子に戻っていた。
「…たぶんってのはなんなんだ」
「浩之の願望が入っているからね」
 綾香が、からかうような眼を俺に向ける。
「誰の願望だ、誰の」
「あら、こんな可愛い子に愛の告白をされたくないっていうの?」
 綾香の口から出る言葉に、身体が熱くなってくるのを感じてしまう。
 他の誰でもなく、綾香に言われるのには弱い。
「うーん…外見が可愛いのは確かなんだけど、中身がなぁ…」
 照れを隠すように、軽口を返した。
 綾香が、わかってるって顔をして、俺のほうを見る。
 照れ隠しっていうのがバレバレだ。
「そっか、浩之はおしとやかな娘のほうが好みなんだっけ。それじゃ、姉さんにまかせ
て、あたしは身を引くとしようかなー」
 寂しそうな顔をして、綾香が泣きくずれるまねをする。
 その表情の変化に、ふきだしそうになりながら、
「分かったよ、俺の負けだ。中身も可愛いぜ。…すねたふりをしているところなんて、
特に、な」
そういって、俺は綾香の肩を抱き寄せた。
「だから、一緒にいようぜ。ずっと、な」
「口説き文句としては、月並みだわね」
 やれやれといった感じで、綾香がため息をつく。
 一瞬の間のあと、二人、顔を見合わせて吹き出した。
「似合わないな」
「似合わないわね」
 しみじみと、同じようなセリフを口にする。
「出よか」
「そ、そうね」
 そういって立ち上がった綾香の、指先に軽く触れる。
 少し迷ってから、綾香は腕をからめてきた。
 上目づかいに、オレの顔を見つめてくる。
「こうしてても、いいかな?」
 少し照れの入った、甘えた声。
 オレだけに聞かせてくれる、綾香の言葉。
 ──オレたちの初めてのデートは、そんなふうに始まった。




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