前髪を濡らす雨の雫


柏木楓

主題『夏休み』
副題「夕立」「宿題」「花火」「アイスクリーム」「くらげ」


 出来れば誰にも気づかれたくなかった。すぐに戻って来るつもり。
 楓はサンダルを突っ掛けて、玄関の戸をそっと引いた。からからから……。いつもと変わらない、大きくもない、小さくもない、音。
 幼い頃からの習慣で。自分自身に囁くような、半ば音にもならない、小さな小さな、声。
「行って来ます……。ちょっと、そこまで」
 もちろん、誰にも聞こえなかったから、誰の言葉も返ってこない。だから、楓はほっとする。
 そうして、閉める時もまた。気持ち、ゆっくり、丁寧に……。
 からから、かたん。

 初夏の夕暮れ。
 玄関先で見上げた空は、太陽がカンカンに照りつけていた昼間とはうってかわって、なんとも怪しげな雲行きで。歩きだそうとした楓に、躊躇(ためら)いを覚えさせる。今にも泣き出しそうな空模様。
 ……でも、傘。傘立ては、たった今後ろ手に閉めたばかり、そのガラス戸の向こう側。
「………」
 結局、傘は諦める。どうせ、ほんの数百メートル先のこと。ちょっと行って、ちょっとした用事を手早く済ませて。ただ、それだけのこと。
 夕立、たとえ降り出したとしても。そう、ほんの少し濡れるだけだから、と。

 その角を曲がって。ゆるやかな坂道をのぼったところにあるのは電話ボックス。今の楓が目指すのはそれ。
 手にしっかりと握りしめているのは、彼女のお気に入りのテレホンカード。砂浜の夏の家、揺れる風鈴、転がるスイカ、波間に漂うくらげ。パステル調のかわいらしいイラスト。
 木のサンダルは、かたたんかたたんと音を鳴らす。駆けていく楓の心、占めているのはひとつの電話番号。請われれば即座にそらんじることの出来る、大切な番号。

「ふぁふぇ?」
 あれ?…と。 彼女はそう言ったに違いない。
 ちょっぴりお行儀悪く。そのおちょぼ口にアイスキャンディーを頬張りながら、どんよりとした曇り空ちらちら、家路を急ぐ少女。
 その視線の先、次の四つ角。家の方からいそいそと、そうしてすいっと右に曲がっていったのは、少女のすぐ上の姉であったように思えた。
「ふぉふぇーふぁふ?」
 …おねーちゃん? こんな時間からどこへ行くのか。不思議に思い、少女は首を傾げる。変わらずせわしなく棒付きアイスを嘗めながら、それでも少しだけ、その曲がり角の先を見定めておこうと。わずかに歩を早めた彼女のくせっ毛に。
 ………ぽつっ。
「…!」
 冷たい雨滴。髪にはじかれて、ぴっと跳ねる。ぱっと散る。
 ぽつっ………、ぽつっ……。ぽつっ…、ぽつっ…。ぽつ、ぽつ、ぽつ、ぽつ……。
「ひっふぇふぁい!」
 いけないっ! 慌てて駆け出す少女。ぴょこぴょこと跳ね、踊って、揺れて。
 四つ角を過ぎる時、少女がちらとそちらを見やれば。坂の上、本格的に降り始めた雨を避けるように、小柄な人影が電話ボックスへ飛び込むのが見えた。

 ぽつり、ぽつりと、空から雫。楓の髪を、楓の頬を、楓の白いワンピースを、ぱらぱらと濡らして落ちる。
 一度こぼれ始めると、その後は早かった。
 電話ボックスに飛び込んで、幾らも経たぬうちに。辺りの景色は雨に霞んで、ボックスの硝子のこちら側からは、それこそ何も見えなくなる。
 雨粒の染み込んだ肩や背中、ひやりと冷たい。髪も濡れてしまった。前髪からポタポタ、水滴が伝い落ちる。ハンカチをあてて水気を吸い取る。
 外では大粒の雨が、熱いアスファルトを、乾いた地面を、一様に激しく叩く。ザーッと、ノイズのようなその音が、楓の耳に途絶えることなく響く。

 数日ぶりの雨は、その街をすっぽりと、水煙の中に包み込んでいた。

 グレーの公衆端末機に、テレホンカードを飲み込ませて。
 …ぴっ、ぽっ。…ぴ、ぽ、ぱっ。…ぽ、ぴ、ぴ、ぴっ。
 はやる気持ちを抑えつけて、ゆっくりと、慎重に。間違えるなんてことのないように。
 受話器を耳に押し当てる。そして………。細い指先で「Start−Button」をPUSH。
 右の耳には、硝子の箱の外の、リアルな雨の足音、ざわめき。左の耳には、コードの先に広がる回線の海を旅する音。今だけは、より身近に思える、電気信号の雑音領域。
 じじじじじじ……。
 それは一瞬、ほんのわずかの間。そして、不意に。……ぷつっ。回線の接続。離れた二点を目に見えぬラインが繋ぐ。
 鳴り響くベルの音。
 りりりりーん、りりりりーん、りりりりーん………。楓はふっと息をもらす。
 こーる。遠い街へ、あの人の部屋へ。
 東の空は、あっち? それとも、こっち? 見上げても、今はただ、薄暗い雨の景色。
 ぼんやりと楓の考えていたこと。想い浮かべるあの人の、柏木耕一の暮らすその街は。今頃、晴れているのだろうか、と。
 とめどなく、続く雨音、今しばらくは降りやみそうにもない。

 がちゃ。
「…はいはーい、柏木ですよー。えっと、どちらさん?」
「あ……」
 明るく浮かれた耕一の声に、思わず気後れしてしまう楓。それでも、それだからか、耕一には判ったようだ。
「あ、楓ちゃんだろ? な?」
「……ええ、はい」
「いやー、タイミングいいなあ、ちょうど今バイトから戻ったところなんだ」
「そう…なんですか…」
「そうそう。……んで、えっと…………」
「………。」
「……あっ、どうかな、そっちは。みんな元気?」
「ふふふっ…、はい、みんな元気です」
 毎度のことながら、つい可笑しくて。そうして、ようやくちょっぴりリラックスして。楓は「耕一と電話をしている自分」に慣れる事が出来る。
 耕一はいつも、電話の相手が楓であると判った途端に、少しだけ、慌てた様子を見せるのだった。頭の中が真っ白になってしまう……のかどうかまでは、楓には判らないけれど。でも、それが何故なのか、おぼろげにではあるが理解している。悪い理由からではないのだ、と。
 話したいという気持ちが空回り、それはお互い様。真っ先に伝えるべき言葉の選択に戸惑い、一方は想いを沈黙の色に塗りつぶして。他方は焦りから、条件反射的に浮かんできてしまう優先順位の低い言葉、とりあえず口にしてしまう。
 始まりは、いつも、気まずくて。でも……。

 電話ボックスの傍らの電柱、頭上の街灯。
 じじじっ……ぱちっ……、ぱちぱちっ。
 大分古い型の電灯は、火花のようにぱちぱち、二度三度のまばたきを繰り返して。雨の日の夕暮れにあかりを灯した。

「そーだよなー、受験、来年だもんなぁ」
「…ええ、三年生ですから」
「となると、宿題とか山ほどありそーだね。頑張ってね、楓ちゃん」
「あ、いえ、それはあの…、高校生ですから。各自で自習しなさいって、この夏は殆ど……」
「えっと、そーゆーもんだったっけ? ははは、オレ、高校の頃のことなんか、すっかり忘れちまってるなあ」

「…それじゃ、こっちも受けるんだ、楓ちゃん」
「あ、はい。そのつもりです…」
「で、夏休み利用して、大学見学と……。んじゃあ、狭いし、なーんもないけど。オレんトコでよけりゃ何日でも泊まってくれて……って、そりゃやっぱりまじぃよな。年頃の女の子だもんな、バカだなオレ、ゴメンなー」
「………」
「いや、ほら、千鶴さんでも付き添いで来るんならアレだけどさ。…って、おいおい、それじゃもっと狭くなっちまうって」
「あの、私は……」
「楓ちゃんみたいな可愛い子がオレの部屋に居るの、がっこの連中に見つかったりしたら、なに言われるか判ったもんじゃねーよなー。大変だぜ、きっと。なんつーか、どいつもこいつも口の悪い奴らばかりでさ……」

 互いに顔の見えぬ、電話によるコミュニケーション。鈍感な耕一には、頬を赤くして俯いている楓の様子なんか、思い浮かびもしないのだろう。
 同じように。「バカなこと言っちまったぜ、ヘンに誤解されて嫌われたらイヤだぜ、オレは」と、せっかちに言葉を繋いでフォローしようとしている耕一の顔が真っ赤であることも、楓には見えない。

「……んじゃ、手頃なホテルとか探しとくし。…あ、それこそ千鶴さんに任せるのがベストなんだよな。うーん、なんか役に立ねーよなー、オレって」
「あ、そんな……そんなこと……ないです」
「ははっ、ありがとな、楓ちゃん」
「それであの…」
「ん?」
「…私、そちら………交通…機関……、その…、不慣れで………、ですから……だからその……、…………」
 もしも都合がつくのでしたら、大学見学、一緒についてきて欲しいです、と。頭の中で組み立てた言葉の配列、懸命に発音したつもりでも。楓のそれは音にならず、ことに後半は、ささやきですらない。
 気恥ずかしさに、楓は思わず俯いてしまう。
 ……けれど、でも。
 ことのはのきれはしからニュアンスが伝わったのか、耕一が巧く読みとったのか。
「喜んでお供させていただきますよ、楓姫」

 はっと面を上げて、嬉しそうにこくんこくんとうなずく楓。もちろん、耕一には見えず。
「……なーんてな。いやぁ、今のはちょっとばかり気障だったかな、あはは…」
 楓の反応がなかったので。あたふたと弱気、笑ってごまかす耕一だった。
「あ、いえ、そんな、耕一さん、私は……。だから、あの……、ありがとうございます」
「んー、いやいや、ぜーんぜん気にすることなんてないって。大学生なんて只でさえヒマばかりだし、その上に夏だからなあ。どこへだってついてってやるよ」
 そう言って。けれどすぐにまた、失言だったかもしれないと気を回す耕一。楓はただただ、嬉しいばかり、なのに。
「……あ、でも、どこへもついてくってのは別に、その、ヘンな意味とかじゃあないからな。誤解しないでくれよな」
「え、ええ…はい…」

 受話器を置いて。テレホンカードがカシャッと飛び出し、ピコピコと電子音、丸いランプが赤の明滅を繰り返す。
 硝子の箱の内側に、楓は軽くもたれかかって。嬉しそうに、ほふっとため息。

 ノック。
 楓の背にゴンゴンと振動が伝わる。ビクッと硝子から離れて、おそるおそる振り向くと。
「こら楓、何やってんだ、傘も持たないで。どーするつもりだったんだよ」
「あ………」
 薄暗闇の夕立に、傘さしてお迎え。ボックスの外に立っていたのは、姉の梓だった。この春に関西の大学へと進学した彼女は、二、三日前に、夏の長期休暇で帰郷していた。
「ほら。楓の傘」
「あの……ありがとう…」
「一生懸命走ったって、この距離じゃずぶぬれだよ。風邪ひいちまう」
「うん…」

「耕一に………、だろ?」
 黙って、項垂(うなだ)れてしまう楓。
「……必要ないからな。あたしに遠慮なんかすんのは」
 つまりは、そういう理由からだった。こっそりと抜け出してきたのは。
 楓は、耕一と梓の間で何があったのか、はっきりとは知らない。
 ただ。去年の秋口のとある晩、珍しく長々と電話をしていた後で。ポロポロと涙を零(こぼ)す梓を、楓は偶然、廊下の陰から見てしまっていたし。
 冬の休みも、それから春も、連休も。大して重要とも思われぬ理由を挙げて、耕一がこちらへ遊びに来なかったこと。そして、梓が、合格したにもかかわらず、第一志望であった東京の大学を辞めて、他の学校へ進学したこと。
 それは、のどに引っかかった魚の小骨のように。

 ざぁざぁ降りから、だんだんと。雨の勢いは落ち着き始めていた。
 姉妹は並んで、無言で、坂道を下っていった。

 玄関口で。
「……耕一のヤツは、しばらく、この家には来ないと思うよ」
「えっ…」
「あのバカ、ヘンに律儀だから。あたしの帰ってくる場所を自分が取っちまうわけにはいかないとか、そんなくだらない事、考えてるに違いないんだ。……ここは、アイツにとっても家みたいなもんなのに。…ほんとに、耕一のバカは」
「……」
「誤解がないように、楓には言っておくよ。あたしが耐えられなくて、心に閉まっておくべき事、ぽろっと言っちまっただけなんだ。…ただ、それだけのことを、耕一のヤツは負い目に感じてるんだよ。バカだから、ほんとに……」
 バカという言葉に、まるで正反対の想いがこめられているのが、楓には悲しく。そして羨ましくもある。
「……だから楓、待ってないで、とっとと行くんだよ、耕一んトコへ」
 畳んだ傘の水気を、しゃっしゃっと振って落として。
「なんだ、ちょうど止んだみたいだな。……んじゃ、お先に」
「梓姉さん……」

 どんよりと雲の広がる夜の闇。月は霞んで、朧気に。
 天空に浮かぶ満月の蒼白い光は遮られ、鋭い切っ先を砕かれ、輝きを欠片に飛散させて。
 雨に濡れた夜の街を、人知れず、キラキラと浮かび上がらせる。

...END



あとがき

 梓さんファンの人、ものを投げないで下さい(おやくそくなコトバ)。

 変なアイディアが浮かばなかったので、オーソドックスに「楓ちゃんと耕一の電話」なシチュエーションと決めてがしがし書き始めたら、こんなんなってしまいました。何というか、オチがないです。
 副お題は入っているようで入っていません。アイスクリームを使わなきゃいけないのに、アイスキャンディーで初音ちゃんに不明瞭な言葉を喋らせるという誘惑に抗しきれず、そっちにしちゃいましたし。
 花火も雨で使いようがないので……。

 相変わらず乱暴な文章ですが。お楽しみいただけたなら幸いです。

1998/08/12  ふうら