お題 “学園祭”
Sidestory of "WHITE ALBUM"
 

「昔話」


Written by NETTLE


 弥生は学生食堂のガラス戸を開けると外に出た。
 外は、落ち葉が寒風に合わせてアスファルトの上を舞っている。
 まだ時間が早いせいか学生の姿はほとんど見られない。数人が箒で落ち葉を掃いて
いるところしか見えない。
 彼女は小さく身震いをした。口からは白い息が漏れる。
 講堂の中に比べると格段に寒い。中には人も居たし風も入ってこない。
 それだけに外の風は冷たく感じる。
 空は曇っている。空を覆うように広がる雲は、寒々とした印象を与える。
 そう言えば、昨日も寒かったような気がした。
 空が澄んでいた分、身を切るような寒さではあったが、夕方だったのでそれを感じ
られなかったのかもしれない。
 手を口に当てながらそんなことを考える。
 そばの金木犀が、その小さな花を存在をアピールするように薫る。
 弥生はそれをぼんやりと眺めた。
 朝の時間に花を眺める。普段はそんな余裕など無い。時間に追われる生活。
 そう思いながら植え込みを眺める。
 金木犀の周りには山吹や椿と言った植物が植えられている。
 忙しい学生に少しでも和やかな時間を過ごして貰おうという配慮なのかもしれない。
 ぼんやりしていてもと思い、再び外歩いてみることにした。
 寒さに慣れたせいもある。先程よりはいくぶん暖かいが、時折吹く風は冷たい。
 あとしばらくすれば冬が訪れるだろう。
「今日は寒いですね」
 ぼんやりしている弥生に、女性が食堂で売っている紙コップの珈琲を差し出しながら
声をかけた。
 弥生の後輩で、考古学の研究生として大学に残った人物である。
 そして、弥生のかつての『恋人』でもある。
 彼女とは何度も夜を共に過ごしたことがある。そんな仲だ。
 今回も彼女の誘いでかつての母校に顔を出す気になった。そうでもなければ二度と
来なかったかもしれない。
「ええ、寒冷前線が近づいているそうです。」
 弥生が湯気をあげているカップを受け取りながら答える。
「何を眺めているんですか?」
 彼女もその傍らに来て植え込みをのぞき込む。
「金木犀です」
 弥生は珈琲をすすりながら答える。
 冷たい風の中で飲む珈琲は安物とわかっていながらも妙においしく感じる。
「うーん、いい薫りですね。一枝ほしいくらい」
 片手で枝を撫でながら英二は花を褒める。
「公共物ですからそう言うことはなさらない方がよいと思います」
 弥生が言うと、「そうですね」笑って返した。
「今日はどうなさるのですか?」
「……とりあえず、色々歩いてみます。何か面白いものが観れるかもしれませんから」
 彼女は「それがよいかもしれませんね」と笑うと挨拶をして立ち去った。


 ここ数ヶ月の由綺の日程は過密の一言に尽きた。
 レコーディングとTVの収録、ラジオのDJとしても仕事は山のようにあった。
 弥生は絞ってスケジュールを組んでいるのだが、大学の勉強や歌のレッスンや振り
付けの練習等のことまで考えると、由綺に自由になる時間はほとんど無かった。
 ところが、世の中というのは人の意志ではどうにもならないところが存在する。
 晩秋の日曜日。詰まっているはずの日程がぽっかりと空いてしまった。
 番組の収録もレコーディングも何もない一日。
 どうするか考えていたところに、後輩から文化祭への誘いの電話が来た。
 今までは仕事もあって行く気のしなかったのだが、今年は特にやることもないのだから、
そう考えて行ってみることにした。
 土曜日の夜に大学に着き、大学時代の教授や知人との食事に応じた。
 昔話に花が咲いたが、弥生にはさほど感慨深いものではなかった。
 食事を終えて空を見上げたときに、そこには星空が広がっていた。
 そろそろ冬が近い、そんな予感のさせる光景だった。

 さすがに学園祭だけあって、人の数は多い。
 子供を連れた家族や学生、近所の住民達などでメインストリートはごった返していた
 露店は食べ物屋がほとんどだが、中には妙なグッズやおもちゃを置いてある店もある。
 弥生はそれらの店を覗きながら歩いていった。
 自分が大学にいた頃と品揃えはさほど変わらない。
 たい焼きやお好み焼き、たこ焼きにクレープ……
 失敗品が格安まとめ売りされているが、成功品でも学生が作る物だからたいしては
うまくない。
 それでも買ってしまうのは雰囲気を楽しみたいからだろう。
 こんな時には羽目を外して楽しむべきだ。


「……?」
 弥生はそこでピタリと思考を止めた。
 自分にこんな時代があったのだろうか?
 こんな風に人と笑い合いながら過ごした時間が自分にもあったのだろうか?
 いや、こんな風に過ごした時間はあった気がする。
 だが、その時に自分も笑っていたのか?
 思い出せなかった。
 人と笑い合いながら過ごした時間を。
 そして、かつて『恋人』であった男の笑顔も。
 夜を共にした女性達の笑顔も。
「だから……由綺さんの笑顔が……」
 なんとなく、今まで自分が見失ってきたものが見えたような気がした。
 人に笑いかける。そんな簡単なことをもう思い出せない。
 それを取り戻すこともできない。
 無くしたものを取り戻そうとする事は、今の自分を捨てると言う事だ。
 自分の夢も、由綺も全てを失うと言う事。
 今まで過去を振り返らずに来たのは、振り返るのが怖かったからなのかもしれない。
 怖かったから、真っ直ぐに走ってこれた。
 脇を見ることもなく、ただ真っ直ぐに……
 今振り返ってしまったら、もう一度走りだせるのだろうか?
 自分の目標に向かって、全てを捨てることが出来るのだろうか?
 背筋がゾクリと寒気が走る。
 寒さのせいではない。
 言い様のない恐怖が彼女を包んだ。
 冷たく、暗い恐怖が彼女の心を溶かしてゆく。
 自信も、希望も、誇りも、全てを飲み込まれていくような感触だった。
 
 
「どうしたんですか?」
 突然、後ろから声がした。
 はっとして振り返るとそこには後輩が割烹着を着て立っていた。
 周りを見ると、大学のはずれの林のようだ。
「何か落としたんですか?」
 彼女は心配そうに顔をのぞき込む。
「いいえ……なんでもありません。
 それよりも何か御用ですか?」
 弥生はなんとか心の動揺を抑えるて尋ねた。
「篠塚先輩の姿が見えたんで来たんですよ。
 お暇なら一緒に店番手伝っていただけませんか?」
 彼女は笑いながら誘う。
 ……そう言えば昔からこんな風だった。
 強引に人を誘って、いつも笑っている娘だった。
 笑顔で誘われるので断りづらい、そんな印象を受けた覚えがある。
 そして、それが嫌でこの娘を捨てた。
 まとわりつかれるのが嫌で、追っかけてくるのが鬱陶しくて。
 それでも彼女は自分を慕ってくれた。
 そして今は、彼女の誘いが暖かく感じる。
 今はその優しさに甘えてしまいたい、抱きしめたい、そんなことを考えてしまう。
 ……なんて卑怯なんだ。自分から捨てておいて
 弥生は自分をなじった。
 なじって、自分を保たなければ、明日から走り始められない。
 自分の夢には、他人の犠牲もあるのだと言うこと。
 由綺をトップアイドルに仕立てると言う自分のエゴのために、犠牲になった人たちに
せめての報いのために。自分の歩いてきた道は犠牲によって成り立っているのだと……
 
「ごめんなさい。そろそろ帰らないと……
 明日の仕事の準備がありますから」
 そんな仕事はない。明日は午後からの出勤だ。
 だが、嘘をついてでも逃げなくては流されてしまう。
 今日は家に帰って寝てしまおう。それで全てを忘れてしまおう。
 そうすれば明日からまた走れるかもしれない。
「そうですか……
 じゃ、これでお別れですね」
 少し寂しそうな顔をして俯く。
「また来年誘ってください。
 日程に余裕があれば他の方々も連れてきますので」
 後輩は頷くと一礼して自分の店へと戻っていった。
 弥生も頭を下げると駐車場の方へ歩き始めた。
 傍らの木々には烏瓜がぶら下がっていた。
 じきに冬になる。
 また忙しくなるのだろう。
 ……その方がいい。何も考えなくてすむから。
 駐車場に入る前に、もう一度振り返った。
 学園祭の人混みが遠くに見える。
 来年もできたら来よう。
 それまでは、走り続けよう。
 たとえ何かが狂っているとしても、もう後戻りは出来ないのだから。

了


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