お題 “楓ちゃん”
SideStory of Kizuato
 

「夜を重ねて」


Written by 尾張




 千鶴姉さんと耕一さんが対峙している。
 姉さんの口が、小さく動く。
 声は聞こえてこなかった。
 音のない世界。
 コマ落としのフィルムを見るように、千鶴姉さんの身体がゆっくりと動き出す。
 二人の間の空間が歪むほどに、緊張が高まっているのが分かる。
 駆け寄ろうとする意志に反して、私の身体は動かなかった。
 ただ展開する目の前の出来事を見ているだけの、ゆっくりとした時間の流れの中で。
 姉さんの手が耕一さんの身体に伸びて。
 一瞬ののち、それは耕一さんの身体を貫いた。
 ――耕一さんっ!
 叫びをあげたその声すらも、音にならず。
 ただ、目の前がぼやけていき。
 そして、その光景は冷たい闇の中に沈んだ。



「こういち…さん……」
「ん…どうしたの」
 耳元に響く低く優しい、耕一さんの声。
 ゆっくりとまぶたを開くと、私がいるのは、見覚えのある部屋の中だった。
 夜着を身にまとうこともなく、寝入ってしまったのだろうか。
 耕一さんと二人、裸のまま寝具の中で身体を寄せあっていた。
 身体を動かすと、ひんやりとした空気が流れ込んできて、肌に触れた。
 窓の外は、まだ暗い。
「…夢……?」
 見つめる、暖かい瞳。
 私のことを気遣ってくれているのが分かる。
 冷たく濡れた私の頬に、耕一さんの指が触れた。
「…ごめんなさい」
 耕一さんの胸に、頭を預ける。
 指先に、自分の指先を重ねた。
 とくんとくんと、落ち着いた心音が伝わってくる。
 いつも、こうしていると安心できる。
 私を癒してくれる、特別な人。
「…怖かった?」
 耕一さんは、私の頭を優しく撫でてくれていた。
「大丈夫です」
 頬の涙のあとも、乾きつつあった。
「耕一さんがいてくれますから」
「ん…」
 顔が近づき、唇が触れ合った。
 耕一さんの腕が、私の腰を絡め取る。
「きゃっ」
 次の瞬間には、抱きすくめられたまま、耕一さんの膝をまたぐような格好で座っていた。
 向かい合った耕一さんの瞳が、私を吸い込むような優しい光を放っていた。
「あっ…」
 身体を起こしたから、だろうか。
 寝る前に耕一さんが私の身体の中に残していったものが、少しだけ流れ出していた。
 合わさった足の上に、生暖かいしずくが伝わっていく。
 それが分かったのか、耕一さんが察したように私を見た。
「拭いてあげようか?」
「…恥ずかしいから…いいです……」
 そう言うと、少しだけ残念そうな顔をした。
 手を伸ばして、枕元に置いてあったティッシュを手にする。
 耕一さんの足に伝わった分を拭いてから、こぼれ出さないように気をつけながら、耕一さんに背を向けた。
 四つに折り畳んで、そっとあてがう。
 流れ出してくる液体を、少しずつ拭き取っていった。
「ん…これはこれでなかなか」
 肩ごしに覗き込んだ耕一さんが、耳もとでささやいた。
「…見ないでください」
 羞恥に、頬が熱くなるのが分かった。
「恥ずかしがることないのに」
 そう言いながら、恥ずかしがる私を見る耕一さんはいつも楽しそうだ。
「やっぱり、恥ずかしいです」
 何度となく繰り返されても、慣れないことだった。
 拭き終えると、手の中に、小さく丸まった柔らかな固まりが残る。
 耕一さんが、私を愛してくれたしるし。
 いつか耕一さんとの赤ちゃんが、私の中に宿るのだろうか。
 おなかをそっと押さえると、まるでその中に魂が眠っているように思えた。
 あるいは、本当に命が宿ったのかも知れない。
 恥ずかしいような、くすぐったい暖かさ。
 いつも、そのことを考えるたびに、私の心はそんな想いで満ちる。
「赤ちゃんができたら、責任取ってくださいね」
 くすくすと笑いながら、耕一さんに身体を預けた。
「なに馬鹿なこと言ってるんだか」
 耕一さんが、照れたようにそっぽを向く。
「ずっとそばにいるから」
 耕一さんの大きな手が、私の身体に触れる。
 触れている肌の暖かなぬくもりと、懐かしい匂いとが、私を包み込んでくれる。
「安心してお休み、楓」
「はい」
 頷いて、まぶたを閉じた。
 今度は柔らかな闇が、目の前に広がった。
 そして、耕一さんの指を握りしめて、小さく呟く。
 ――お休みなさい、あなた。







二次創作おきばへ   後書きへ   感想送信フォームへ