お題 “バレンタインデー”
 

「空手女のバレンタイン」


Written by takataka






「せいっ」

 気合一閃。
 拳が空を切り、ぴたり、と止まる。
 正拳突き。すでに百本は越えた。しかし、その精悍な顔貌には一筋の汗も流れてはいな
い。
 坂下好恵。
 この学校の女子空手部を代表する、最強の空手家である。





 二月十二日。女子空手部はこの日もかわらず稽古に明け暮れていた。
 二月に入って一週間ほどしたところ、心なしか浮き足立ったような雰囲気が女子部員の
間に漂っていたが、好恵が格技室に一歩足を踏み入れれば、そんなたるんだ空気はたちど
ころに払拭される。

「押忍」
『押忍!!!!』

 十数人の声がひとつの『押忍』に集約される。

 (で、どうすんの?)
 (バカ、今そんな話しないでよ。坂下先輩がいるでしょ)
 (そうそう、殺されるわよ。間違いなく)
 (ひええ)
 (でもでも、坂下先輩って、チョコあげたりするのかな)
 (誰によ!?)
 (そりゃもちろん、カ・レ・シ)
 (ない)
 (それはない)
 (絶対ない)
 (カ・ノ・ジョって手は?)
 (それだ!)
 (承認)

 未熟な後輩部員たちは、声は合わせても千路に乱れる思いまでは集約できないようだ。

 後輩部員の正拳突きを見守りつつ、坂下の脳裏にはある別のことがよぎっていた。
 ひとたび道場に足を踏み入れた以上、空手以外のことは一切思考から追い出す。そのよ
うに心がけ、実行している彼女にとって珍しいことだった。
 このところ世間の雑音はひときわやかましくなっている。
 いわく、バレンタイン。
 いわく、恋人たちの甘い祭典。
 いわく、乙女のハートをときめかせ、とろけるチョコに思いを込めて、気になるアイツ
に恋のあま〜いメッセージを……。

 自分が?
 この自分が?
 世間の風潮に流されることもなく、空手一筋に生きてきたこの坂下好恵が、こともあろ
うにバレンタインなどと!? チョコレートなどと……?

 かあああああっっと血が上るのをおぼえ――

「板ぁ!!」

 びくりと雷に打たれたように、手近にいた部員の一人が格技室のすみに走って、板を構
え、足をしっかと踏ん張って、

「押忍! 板です!」
「たあっ」

 べきぃ。
 正拳一撃。
 一寸厚の杉板が見事真っ二つに割れた。

「……押忍」
「お、押忍!!」

 好恵の声のいつになく低く、地の底から響くような押忍の気合におびえたのか、頭のて
っぺんから変な声を出しつつ、そそくさと板を捨てに走る部員。
 好恵はすっ……と襟を治し、呼吸を整える。
 自分としたことが。

 だが、一度とりついた妄念はそう簡単に離れはしない。

 (ばかばかしい)
 (菓子屋のキャンペーンなど)
 (私には私の生き方がある)
 (第一、誰に渡そうと言うのだ)
 (そう、私の道の上には拳で結びついた強敵[とも]しかいない)
 (うむ)
 (うむう)
 (でも、そう考えるとちょっとさびしいかも……)
 (いや待て! 邪念を払え)
 (いや、でもつくってみるだけなら別に)
 (だが)
 (万が一と言うこともあるし)
 (しかし)
 (もしかすると、来年までに渡したい人とかできるかもしれないし)
 (でも……)
 (いまちょうどいろいろ品もあるし、材料とかも手に入りやすいだろうし)
 (そうは言っても……)
 (つくるだけなら)
 (うむむ……手作りというのも、考えようによっては一種の自己鍛錬……なのか?)
 (ちょっとだけだから。痛くしないから)
 (自分で自分をごまかそうとしてないか?)
 (いや)
 (だがしかし)

 ぱかっ。

「痛っ」

 あっ……と言わんばかりに、相手の少女が驚きの表情を浮かべる。この自分が坂下さん
に当てられるなんて、と。
 我に返り、ぶるっと首を振るう好恵。
 まだ五人目。
 やはり十人組み手の最中に邪念が混じっては危険だ。
 
「次!」

 次からは邪念を払って望んだ。
 ひたすら無心になろうとした。
 頭の中に黒や茶色の甘い妄想がよぎるたび、それを気合で振りはらわんと、いつにもま
して気を入れた拳を突き、蹴りを放った。
 それ以後相手をした部員にとっては災難だった。二人失神、三人保健室送り。





 夕暮れ時、帰る道々、思い出すのはやはりあのこと。

 バレンタイン。

 そのような行事をうらやましいなどと思ったことはない。今まで空手の道一筋に生き抜
いてきた自分にはもちろん告るような(告る、などという言葉を思い浮かべただけで好恵
の心中穏やかならぬものがあった)好きな男子など現れなかった。

 そう、男子は現れなかったのである。
 すなわち。
 女子に関しては、その限りではなかった。





 数年前。あれはまだ、来栖川綾香がエクストリームに転向する前の、同じ道場でともに
研鑚する間柄だった頃のことだ。

「坂下先輩っ」

 活発そうなショートヘアが、目の前でがばっと上下する。いちいち90度お辞儀しなく
ても、とは何度も言ったのだが、これが彼女のくせらしい。
 松原葵。
 まだ入門して日は浅いが、俊敏な身のこなしと、何よりも空手にかけるその一途さが将
来を期待させる有望株だ。
 門下生に上下の差をつけない好恵だったが、葵のことは特に気にかけていた。

「あのう……ほんとはこういうの、違うって言うのは思うんですけど、私……別にいま好
きな男の子とかいないしっ、その、坂下先輩にはほんとにいつもお世話になって、良くし
てもらってますし……」

 もじもじと両手の指をつき合わせながら、葵はその名に反し、真っ赤になって視線を泳
がせた。

「これ、そういう気持ちですので、どうぞっ!」

 びゃっ、と正拳突きのようにまっすぐ差し出される小さな包み。
 それは違う、とは思った。
 そう口に出して言おうとも思った。
 そもそも道場にチョコ持込みとはあまり感心しない、渡すにしても外で……などと先輩
らしくたしなめようとも思った。
 だが。
 しかし。

「…………………………」

 うれしかった。
 不覚にも、うれしかったのである。

「……あ、ありが、とう」

 ぎこちない礼の言葉に『にこっ』と微笑むと、葵はぺこりっ、と勢いよく頭を下げて逃
げるみたいにして走り去っていく。
 呼び止めようとは思わなかった。
 葵も恥ずかしいのだろう。
 なんとなれば、自分だって――聞こえそうな鼓動が恥ずかしかった。
 どうして、私らしくもない――。
 今日が終わっても明日が過ぎても、このことは終生忘れまい……そのように好恵が決意
した矢先、

「あ、綾香さん! あの、コレ……」

 かっくん。
 軽くこけた。
 全配か。
 やや心配になりながら、葵が綾香に同じようにチョコを手渡すさまを見届ける。
 その手の中にある包みは……。
 
 ほっ。
 
 なぜだか安心した。
 そこにあるのは、色もかたちも先ほど好恵の受け取ったものと同じ。おそらく同じ店で
まとめ買いしたのであろう。目はしのよく届く、気配り上手の葵ならではであった。
 見ると、道場の先輩に次から次へと同じチョコを手渡している。いちいち顔を赤らめな
がら。
 かるく微笑んだ。いかにも葵らしい、そんな光景であった。
 だが、

「…………!!」

 ふんふーん、などと神聖な道場で軽薄にも鼻歌くちづさみつつ、綾香が葵から受け取っ
た包みをかばんにしまうその刹那、見えてしまった。
 好恵のものにも、いや、ほかの誰あてのものにもなかった、ハート型のシール。
 あろうことか箔押し文字で

『LOVE』

 などと。

「…………くっ」

 泣けた。
 その夜、不覚にも泣けた。
 帰国した綾香がこの道場にやってきたとき――空手一筋に生きてきた自分が、初めて女
子の門下生に敗れたとき――すらも、これほど悔しくはなかったように思う。
 空手の道以外の人生の局面で、それは坂下好恵がはじめて味わった敗北であった。





「一度は、一敗地にまみれたこの身……」

 拳を握りしめる。
 ならば、自分がすべきことはその汚名をそそぐのみ。
 今度は、こちらからうって出る。
 そう、攻撃は最大の防御なり。贈られるより、贈る側に回るべし。
 覚悟、完了。

 くるり、といま来た道を戻り行く。その先にあるのは、駅前商店街。
 バレンタイン商戦に浮かれるそこは――彼女の次なる戦場であった。





 20×30センチほどの、分厚なチョコの板。
 まずは、これを刃物で削るのだと言う。
 刃物? ふ、と鼻で笑う。刃物など臆病者の使うものだ。自分にはこの鍛え上げた拳が
ある。
 そう、倦まずたゆまず鍛錬してきた。今日この日のため……なわけではないが、とにか
く、甘ったるい菓子の塊など、この一撃で十分。
 大き目のボウルの上に、橋を渡すようにチョコをおき。
 こつん。
 確かめるように一度軽く拳をぶつけ――
 すう、と呼気を肺腑に導きいれ――

「せいっ!!」

 ぱかーーーーーーん。

「ふ」

 割れた。
 チョコレート板は杉板とは違い、木目にそって割れるということが無い。しかし、力任
せに打ち抜いてしまってはせいぜい二つか三つのかけらになるだけ。
 どうするか。
 拳が当たったその瞬間、同じくらいの勢いでするどく引く。板の面には押し割る力では
なく、純粋にインパクトの衝撃波のみが伝わり、チョコを細片になるまで粉砕するはず。
 見込みは当たった。
 包丁で削りだす必要もないほど、こなごなに割れた。
 このまま湯煎にかけることも可能なほどに。

 まずは、勝利であった。
 完全なる一撃であった。
 ただ一点、割れたチョコのかけらが台所中に飛び散ってしまったことを除いては。

「…………」

 背中を丸めてチョコのかけらをひとつひとつ拾う姿は、できるなら記憶にとどめておき
たくないほどにわびしさを感じさせた。もしいま台所に侵入するものあらば、それが親で
も容赦なき一撃を食らわせたことであろう。



 拾い集めたチョコの破片をボウルに集め、埃が入っているといけないので軽く息など吹
きかける。水洗いするのも何か違う気がするし、これから加熱することだし、目に見えな
い程度のほこりならば毒になることも無いであろう。そう判断すると、おもむろに熱湯を
張った鍋にボウルを浸した。
 ボウルに直接接した面からチョコが徐々に溶け出すのを眺めて、好恵はそこはかとない
感慨をおぼえた。

 台所。
 鍋。
 鼻腔をくすぐる甘い香り。
 おのが身を包む、ふりふりえぷろん(母親のを内緒で拝借)。

 まるでこれは――。
 そう、まるでこれは、年頃の女の子のようだ。
 いや、一応年頃の女の子なんだけど、と自己ツッコミ。
 だが、それにしても。
 この感慨はなんだ。
 バレンタインをひかえてのチョコ製造。どこもおかしいところは無い。試合を前にいっ
そうの鍛錬に励むは、空手の道とて同じこと。

 それにしても、溶ける速度の遅さにじりじりとする。
 遅い! 遅すぎる!
 いや、あせりは禁物。巌流島の決闘の故事にもあるように、ここ一番と言うときの気持
ちのあせりこそ最大の強敵なのだ。
 しかし、この間延びした空気を持たせるためには――。

 鼻歌か?
 鼻歌なのか?
 この自分が、台所に立って、チョコレートなど溶解させるのみならず、果ては鼻歌まで――。
『るるるるる〜ん、る〜るりら〜、るるるるる〜り〜らぁ〜♪』
 などとやらかすのか?
 はたまた、
『ら〜んら〜んら〜、るるるるるるるるりらー♪』
 か?

 いや。
 いやいや。
 いやいやいやいやいやいや、いや。
 自分を説き伏せるかのようにぶんぶんと首を振る好恵。
 別に鼻歌などなくてもチョコを溶かすに不自由しないはず。
 やめよう。

 そろそろ半分方溶けてきたチョコを、軽くかき回し……。

「る〜る〜るるっる〜る〜、ひとつにか〜け〜るぅ〜♪……」

 はっ!
 なぜに銭形平次!?





 坂下好恵は、不器用だった。
 不器用な女だと、自分ではそう思い込んでいた。
 だから、少しの失敗もなく手作りチョコが仕上がったときには、自分で自分に少し驚い
た。
 落ち着いて考えてみれば、不器用では強くはなれない。こまかな技の応酬や、コンビネ
ーションの組み立て、とっさの判断での攻め手の変更など、空手にはそれなりの器用さが
要求される。
 それを生活分野に振り向ければ、自分はさほど不器用と言うわけでもないのだ。
 好恵は新しい自分を発見したような気がした。

 ――私、空手以外にもできること、あるんだな。

 少しうれしくなった。





「葵」
「あ、好恵さん!」

 サンドバッグの振れを止めて、首にかけたタオルで汗をぬぐいながら葵は好恵の少し手
前で歩みを止めた。
 自然に開いてしまう距離。
 まだすこし、わだかまりがあるのだろうか。

「ほら」

 好恵は、手の中の包みをぽいっと投げ渡す。

「これ……」
「道場ん時のお礼」

 葵をそっと上目遣いで見て。

「……覚えてる?」

 ぱっと葵の顔が輝いた。

「はい!」

 それはたしかにあのとき、90度のお辞儀をしながらチョコレートを配って回ったとき
の葵と同じ笑顔だった。
 だから、それ以上詮索はしなかった。葵は間違いなく覚えている。

「ど、どうかな」

 ぽりぽり、と頬を掻いてみたりして。
 自分らしくないとは思う。でも、今日だけなら、まあ。

「わぁ……おいしい!」
「ほんと?」
「はい! すっごくおいしいですよ!」

 久しぶりに葵の顔を正面から見た気がする。
 避けていたんだろうか。いや、そんなことはない。
 好恵は空手部で、葵はこっちの同好会で忙しかったから。
 ただ、会おうと思えば会えたのに、今まではそうしなかった。

「私……ずっと気になってたんです。あの試合のとき以来、もしかしたら好恵さんに嫌わ
れちゃったのかなって……。でも、そんなことなかったんですね! 好恵さん、ホントに
ありがとうございます!」

 ぺこりっ、ときっちりとしたお辞儀。
 好恵は鼻の奥がつん、とするのを感じた。顔面をまともに殴られたときと似た感じ。
 ただ、痛くはない。
 どこか甘いような、安心したような、そんな感じだった。

「葵」

 そっと手を取る。まっすぐな目が、好恵にはまぶしく感じられた。

「進む道は違ってしまったけど、私は……」

 きゅっと、そこに真剣な色が宿る。
 強い意思、戦う心。
 いい目だ。
 素直に、そう思えた。

「私は……」

「はろはろぉ〜。ねえ葵、今日は浩之こっちに来て……」

 軽いノリで現れると同時に、はた、と固まる吊り目長髪巨乳属性。
 見てしまった。
 手を取り合う好恵と葵。
 目と目で通じ合う、俗に言うキックオフ状態。
 傍らには食べかけのチョコレート。
 状況証拠だけで有罪確定。控訴、上告、抗告いずれも却下。
 全身に冷や汗をかきつつ、来栖川綾香はじりじりとあとずさった。

「え、あ、あぁ……ああ、そうなんだ! ご、ゴメン! マジでゴメン! いや、そんな
こととは知らなかったもんだから! ジャマねわたし! じゃ、じゃあまた!
 さ〜てと、浩之どこかな〜っと」

 あからさまに視線をそらして、後ろで手を組み、あさってのほうを向きながらわたし何
も見ませんでしたとばかりに鳴らない口笛をかすらせつつ綾香フェードアウト。

「あぁ、綾香さん! 違うんですこれは!」
「綾香! 待ておいちょっと、綾香ああああああああ!」





 おしまい。




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