第十六回お題 “寒”
 

「寒い街に、独りで」


Written by 尾張








 待ち合わせの時間になっても、彩が現れなかった。
 几帳面な彩の性格からいって、理由もなく遅れるとも思えない。
 携帯電話もPHSも持たない彩には、こういったときには連絡がつかなくなってしまう。
 だいたい待ち合わせの時は、俺が遅れても彩はずっと待っていてくれるので、連絡の必
要がないのだった。
 それでもあまりひどく遅れたときには、彩のほうから俺の携帯に電話をくれることが多い。
 いつも、心配そうな声で。
 ――俺は、ポケットから携帯電話を取り出して液晶を見た。念のために、着信履歴と…
…留守録もチェックしてみる。
 どちらにも、それらしき形跡はなかった。
「なにか、あったのかな」
 何らかの事情で遅れてるだけであればいいのだけれど。
 つい、不吉な想像をしてしまい、慌ててそれを頭から追い払う。
 久しぶりに彩に会えるんだと昂揚していた気持ちが、少しずつ不安へと変わりつつあった。
「急に、寒くなったよな……」
 ――駅前の広場。
 ネオンが灯って明るいとはいえ、昼間とは違う情景だった。
 白い息を吐きながら待つには、この場所は少し寂しく思える。
 俺が着いた頃、同じように人待ち顔で立っていた者たちも、少しずつ減り、もう数える
ほどしか残っていなかった。
 通り過ぎていく人の流れだけが、とぎれることなく続いている。
 ある人は楽しげに、ある人は退屈そうに、それぞれの目的地へ歩いていくのだろう。
 そんな中で、俺だけが立ち止まっているかのような錯覚を覚えた。
 まるで、置き去りにされた捨て猫のように――。
 不安で、ただぬくもりを求めて泣いているかのように。
「……あ」
 ふと、名前を呼ばれたような気がして顔をあげた。
 声は聞こえなかったが、遠目に、見覚えのある姿が見える。
 真っ直ぐに、こちらへと走り寄ってきていた。
 お気に入りのワンピースを着て。
 羽織ったストールの、端が揺れていた。
「…っ……」
 すぐに、彩は俺のもとへとたどり着く。
 可哀想なほどに息を切らしていた。
 よほど急いで来たんだろう。
 この寒空の中、汗がうっすらと額にまで浮かんでいる。
「……ご…………」
 苦しそうな息の中に、かすれそうな彩の声が聞こえた。
「…ごめんなさい…ごめんなさい……」
 彩が、ぽろぽろと涙を落としながら、頭を下げる。
 必要以上に思えるほど、一生懸命謝ってくれる。
「……彩」
 俺の言葉に、びくっと、うつむいた彩の身体が震えた。
 できるだけゆっくりと、その細い肩に触れる。
「いいから。別に怒ってないから、さ」
 肩に触れていた手を後ろに回して、きゅっと抱きしめてやる。
 ……人通りが多くて、ちょっと恥ずかしいけど。どうせ、そんなに珍しい光景でもない
だろう。
「来るのが遅れてたの、心配だっただけだから」
 耳元で、優しく、出来るだけ優しく、ささやいてあげた。
 ゆっくりと、頭をなでていくうちに……。
 かすかに震えていた彩の身体が、早鐘を打っていた心音が、徐々に落ち着いていくのが
分かる。
「一つだけ、怒るところがあるとすれば……」
 くしゃ、と。
 彩の髪を、少しだけ意図して崩してやった。
「これくらいのことで、彩のことを怒るようなやつだって、思われてたことかな」
 好きだから、不安になったり、心配したり、そういったことはあっても。
「俺のために、彩が傷ついたり、犠牲を払ったりしないように守ってやりたいって……そ
う、思ってるから」
 ……それは、勝手なわがままだけど。
「和樹さん……」
 彩は、少しうつむいて、俺の名を呼んだ。
 落ちた涙は、俺の服に小さなしみを作っている。
「ありがとうございます……」
 そう、彩は小さいけれども、はっきりと喋って。
 もう少しだけ、俺の腕の中で涙を落とした。
「涙、拭いて……」
 手にしたハンカチを、彩の頬に当てる。
 そして、ゆっくりと、並んで歩き出した。
「彩は…さ」
 俺は、彩の肩を抱いた。
 寒いんだろうか…少し震えているのが、手のひらからじかに伝わってくる。
「俺の勝手な思いこみかもしれないけど、なんか、冬が似合うって感じがする。まるで、
冬の妖精って感じだよ」
「和樹さん……」
 かすかに、彩が身を震わせた。
 寒いのだろうか。
「はは……でも、そんな妖精でも、寒いのかな」
 着ていたコートで彩の身体も包み込むようにして、冷たい風があたらないようにしてあ
げる。
「いそいで、暖かいところいかないと」
「あ……」
 少し照れながら、少し嬉しそうに、彩が微笑んだ。
 あまり、感情を表に出さない、彩の笑顔。
 それがすごく嬉しくて、俺は腕の中にある彩の身体を引き寄せた。
「……こうやって歩くの、恥ずかしい?」
 俺の問いに、彩はふるふると顔を振って応えてくれた。
 心なしか上気して見える頬が、切ないほどに綺麗だった。
 ぎゅっと、腕にさらに力を込める。
「……」
 無言のまま、彩は身体を寄せてくれる。
 吹き抜けていく冷たい風の中で、彩の身体のぬくもりだけが、確かなものとして感じら
れた。
 きゅっ、とコートのポケットのなかで、彩が俺の手を握った。
 薄い布越しに感じる小さな手のひらは、とても暖かで、とても柔らかかった。
「そういえば……どうして遅れたの?」
「あ、あの……」
 彩が、思い出したように立ち止まって、胸元に手を差し入れた。
 なにか、入ってるんだろうか。
 そういえば、そこだけ不自然にふくらんでいる気はしてたけど……。
「この子……」
 彩の手のひらに包まれて出てきたのは、お世辞にも綺麗とは言い難い、小さな子猫だった。
 彩のハンカチにくるまって、丸くなっている。
 人のぬくもりに安心しているのか、目を閉じたまま気持ちよさそうに眠っていた。
 彩は、いとおしげに、その子猫の頭をそっとなでた。
 子猫が、眠ったまま、気持ちよさそうに目を細める。
「来る途中で……拾ったのか?」
 コクンと、彩が頷く。
「そっか……それで、遅くなったんだ」
 そっと、子猫の身体に触れた。
 おそらくは、あやのために失われずにすんだ、そのぬくもりを確かめるように。
「食事でも行こうと思ってたんだけど……そいつ連れじゃ、さすがに入れないな」
「あ…」
 彩の顔が、少し曇った。
 申し訳なさそうに、目を伏せる。
「いいよ。……彩さえ良かったら、俺の部屋に来ないか?」
 こつんと、ひたいを彩のそれにあわせる。
「途中で、材料買って……彩がなにか作ってくれれば、俺はそれだけで嬉しいんだけどさ。
そいつのために必要なものも、あるだろうし」
 くーくーと呑気そうに寝ている子猫を指さして、俺は言葉を続ける。
「今日は……原稿のこととか忘れて、一緒にのんびりしたいなって、思ってただけだから」
 彩の長い黒髪に、指を梳き入れた。
 さらりと流れるように、指先から髪が落ちていく感触。
「彩と一緒にいられれば、それでいいよ」
「…はい……」
 目を伏せて、彩が頷いた。
「妙に気をつかわせちゃって、ごめん。必要以上に意識しなくていいからさ」
 リラックスして、と言いながら、肩をもんであげるふりをする。
 そのおどけた仕草がおかしかったのか、彩は涙の跡の残る顔で、小さく笑ってくれた。
「そうそう。……彩は、笑ってるほうが可愛いよ」
 元気づけるために、そう言ってあげる。本当は、悲しそうな顔も、困っている顔も、少
しだけ怒った顔も……全部、可愛いと思うけど。
 無意識のうちに、息を吐き、身体から力を抜いていた。
「彩と……いるとさ」
 もう一度、柔らかな髪に触れる。それは、はかなげに消え去ってしまいそうなほどに細
く、静かに流れていた。
「自分でも驚くくらい、細かな出来事すべてに、優しくなれる気がするんだ」
 彩の優しさに、触れていられるから。
「ありがと、彩……」
 強い風が、吹き抜けていく。
 だが、ぴったりと身を寄せ合った俺と彩の間には、その風すらも通らない。
 顔を寄せる。
「和樹……さ……ん」
 俺の名を呼ぶ声が、小さくなり、そして虚空へと消えていった。
 あわさった唇から、想いが。
 寄せ合った身体から、心が伝わってくる。
 切ないほどに、彩のことがいとしく思えた。
「大好きだよ……彩」
 息をのむ気配とともに、彩の指先が俺の服をつかんだ。
「わたしも……」
 その言葉の先は、発せられることなく。
 再び合わさった、二人の唇の中へと消える。
 彩の胸に抱かれている子猫が、少し窮屈そうに、
「みぃ」
 と、抗議の声を上げた。







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