★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★
「ただいま〜」
がらがらがら。玄関に入ると、ただよってくるのはお味噌汁の香り。
耕一はふんわり、幸せな気分に包まれる。
(ああ、家に誰かがいるってのは、いいよなぁ…)
「おかえりなさ〜い」
廊下の向こうから、初音の声がする。
試験休みに無理矢理、自主休講をくっつけて。
虎の子の貯金を切り崩し、旅費に充て。
秋の色の日々深まっていくこの時期、耕一は柏木家にやってきていた。
…た たん たたーん♪ たたたた ったった ちゃっちゃっ♪ ちゃっちゃっ
♪
それは、台所から聞こえてくる。
小鳥の囀(さえず)るような、はみんぐ。
楽しい、明るいメロディにのせて、少女の浮き立つような気持ちが耕一にも伝
わってくる。
(梓は部活で遅くなるんだったよな。で、確か今日の食事は…)
楓もまた、少し遅くなるようなことを言っていた。
そして誰かさんは、その在不在に関わらず…で。
その日の夕食は、全て、残らず、初音の手料理となる予定だった。
(…やっぱり女の子だなぁ。献立考えてお料理作るの、そんなに嬉しいもんなの
かな)
自分が原因だとは思いもせずに。そんなことを考えている耕一は、間違いな
く、嬉しい。
梓の手伝いをまめにこなす初音の、料理の上達は著しく。つい先日も、青菜と
ゴマの和え物という、どちらかといえば地味で渋い一品料理に、舌鼓を打ったば
かりであった。
ほのかな甘みの中に、ぴりりと山椒(さんしょ)が効いていた。
…たたた、ったんたんっ、た、たたたたーん、たたた…♪
珠暖簾を、ざらざらと。
小さな肩、それから背中。忙しく立ち回る、少女の後ろ姿。
蝶結びの白いエプロン紐が揺れている。頭の跳ねも、ぴょこんと揺れる。
「ただいま、初音ちゃん」
「あっ…」
ガス台の前で、初音はくるっと、リズミカルに振り返る。
「おかえりなさ〜い!こーいちお兄ちゃんっ!」
…あっ!
思わず耕一は、一メートルほども飛び退く。壁を背にして身構える。
「にっ、にせものかッ? そうか、そうだなっ!」
「えっ?! な、なに!?」
初音の手にはおたまが…。
「そうはいくかぁ!うりゃっ!獣の力だっ!」
ぐおおおおおおっ!
「きゃーっ! なに? なになになに? どうしちゃったの、こーいちオニぃ
…」
「そーだよっ!わるかったなっ!…くうぉおおおおおんっ!」
柏木の屋敷の隅々にまで、びりびりと響き渡る。恐るべし野獣の咆哮。
哀れ、おたまを持った小柄な四女は、おののき、身を竦(すく)ませて、金縛
り状態に。ぴくりとも動けない。
同じ鬼の血を引きながらも。それは、姉たちのいずれとも性質の違うものなの
だろう。彼女たちならば、易々とこうはなるまい。かつ、何らかの対抗手段もあ
ったに違いないが。
選択肢はただ一つ。全くの無抵抗。目を閉じるさえ、できない。
「…はあッ、はあッ。…どうやら真の鬼ってヤツを…以下省略!」
リミッターの解除!真の鬼の覚醒!
「真の鬼!ぐわおおーうっ!」
叫びながら、耕一は初音に飛び掛かった。
ふと気が付けば。
台所の入り口、三者三様、それぞれのやり方で耕一を見つめる、女性たち。
「こ、耕一さんっ!いったい何を…!?」
その瞳に揺れるのは、驚き。
「くぉら、てめー、こーいちっ!初音を押し倒して、何してやがるーっ!」
その瞳には、煮えたぎる怒り。
「…」
どこまでも深く、冷たい失望。
「…えっ? はっ? あっ? あれっ? なんだっ?」
唐突に、きょろきょろ。
我に返る、あるいは、我に返ったフリをする、耕一。
…が、押し倒した初音の上に覆い被さるような体勢の、この状況の説明を、彼
はいったい何とするつもりであろうか?
「おにーちゃん…、またダリエリや、悲しい鬼たちに…。そんなの、そんなのっ
て…、わたし、イヤだっ!」
「あ、いや、ちょっと、その、初音ちゃん…」
泣きながら。琴音は胸の前で手を組んで。…そして、破滅の言葉を囁(ささ
や)く。
「お願い…、お願いヨーク!こーいちおにーちゃんを、昨日までの…」
びびっ!
びむびむびむびむびむっ!!
…ぷすぷす、ぷす。
合掌。
(おわり)
★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★ ★