(Leaf Visual Novel Series vol.2) "痕" Another Side Story

for 「本日のお題」

『想い出〜それから』

Episode:柏木 初音

Original Works "痕"  Copyright (C) 1996/1997 Leaf/Aqua co. all rights reserved

written by 尾張


「…ちゃん、耕一お兄ちゃん」
 ぼーっとした頭の中に、初音ちゃんの可愛らしい声が聞こえた。
 軽く身体を揺すられている。
 夢を見ていたような気がしたが、それは初音ちゃんの声にまぎれて記憶の底へと落ち
ていってしまい、何を見たのかすら分からなくなっていた。
「お兄ちゃんってば、起きて」
 ちょっと困ったような、甘えた声が頭の中に染み込んでいく。
 好きな女の子に毎日こんな風に起こされたら…。誰もが一度は描く夢。それが今まさ
に現実になっている。
 寝ぼけた頭に響く初音ちゃんの声を聞きながら、幸せを感じていた。
「お兄ちゃん…」
 初音ちゃんが、ちょっとすねた声を出した。
 揺すられていた身体が止まる。
 ぺちぺち、ぺちぺち。
 一瞬遅れて、はさむようにして、両手でほっぺたを軽く叩く感触がきた。
 痛くはない。遠慮がちに、優しく叩かれる感じ。
 目をあけてなくても、せいいっぱい気を使いながら頬を叩いている初音ちゃんの姿が
ありありとまぶたの裏に浮かんで見えた。
「起きて、お兄ちゃん」
 ふたたび、初音ちゃんの声が聞こえる。
「…おはようのキスを初音ちゃんがしてくれたら起きる」
 ねぼけたふりをして、わざと意地悪なせりふで応える。ややあって、
 ちゅっ。
 初音ちゃんの柔らかい唇が、俺の唇に軽く触れた。すぐに唇が離れる。
 薄く目をあけると、初音ちゃんは俺の横で顔を真っ赤に染めて座っていた。
「…もう、耕一お兄ちゃんってば大きな子供みたいなんだから」
 目線を落としたまま、初音ちゃんがすねた声を出した。
「…でも、大好きだよ。お兄ちゃん」
 声を落として、耳もとでささやく。その可愛らしいせりふを聞いただけで、俺の身体
の中をぞくぞくとした快感が走っていった。
「昨日のこと、夢じゃないんだよな」
 洞窟での出来事を思い出しながら、俺は初音ちゃんに問いかけた。
「えっ?」
「あんまり現実ばなれしたことだから、夢の話かと思った」
 くすっと笑って、続ける。
「でも、夢じゃないんだ。初音ちゃんとのことも、昨日あったことも」
「うん…」
 初音ちゃんが、目線を落とした。
「わたし、昨日のこと、一生忘れられないと思う」
 昨日の出来事を思い出しているのか、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「耕一お兄ちゃんがわたしのこと『この世で一番愛している』っていってくれたとき、
わたしすごく嬉しかったんだ。でも、ちょっとだけ寂しかった」
「…どうして?」
「これで、もうお兄ちゃんに子供みたいに甘えることができなくなっちゃうのかな、
って思って」
 初音ちゃんが顔を上げた。きらきらと光るまなざしが、俺をとらえて離さない。
「でも、いいよね。これからもお兄ちゃんに甘えても」
「ああ…」
 嬉しかった。
 『お兄ちゃん』でありながら、初音ちゃんの『想い人』であれることが。
「初音ちゃんに頼りにされるの、嬉しいし。でも、子供としてだけじゃなくて夜にも甘
えて欲しいな、なんて」
「もう…耕一お兄ちゃんのいじわるぅ」
 俺のその言葉で昨日の行為を思い出したのか、初音ちゃんが顔を真っ赤に染めた。
「…お姉ちゃんたちにはないしょにしててね」
「なになに、朝っぱらからなんの話をしてるの?」
 いつの間にか部屋の入り口のところにやってきていた梓が、ウワサ好きな若奥さんっ
ていう感じで入ってきた。
 突然のことに、心臓が口から飛び出しそうになるくらいドキドキする。
 梓〜、いつからいたんだ、そこに。
「い、いやなんでも…」
「なんだよ、あやしーなー」
「なんでもないって」
 露骨に取り繕っているのがバレバレな感じを振りまきつつ、俺はむりやり誤魔化した。
「二人っきりで密談なんて…ひどいんだ」
「梓お姉ちゃん、そんなんじゃないってば」
 初音ちゃんが、いつもの笑顔でフォローをいれてくれる。
「どーかなー」
 梓も、ときどき鋭いところがある。ま、別に鋭くなくても勘ぐられそうな場面ではあ
るのだが。
 俺は、なんとか話をはぐらかそうと必死に話題をそらしにいった。
「それよりも、お前あのかおりちゃんとかいう子はどうなったんだ?」
「な、な、な、なんのことだよ?」
 その一言におもいっきり動揺する梓。一瞬で耳まで真っ赤になる。
「昨日は貞操の危機だとかなんだとか大騒ぎしてたのに、かおりちゃんが帰るころには
ぼーっとしちゃって。なんかあったんじゃないのか?」
「な、なにもないってば」
「そーかなー、あやしーなー?」
 いつの間にか形成逆転している、俺と梓。
「お兄ちゃん、梓お姉ちゃん困ってるよ。それくらいにしておこう? …呼びにきてく
れたっていうことは、朝食の用意、できたんだよね?」
「ああ」
「じゃ、行こうお兄ちゃん。早く食べに行かないと、ご飯さめちゃうよ」
「…ありがと、初音」
 梓が、初音ちゃんだけに聞こえるような小声で礼をいった。俺にもしっかり聞こえて
いたけど。
「それにしても初音、あんたなにかあったの?」
「どうして?」
「なんか…雰囲気が昨日と全然違うよ。一皮むけたっていうか…大人びて見える」
「そ、そうかな?」
 俺は、梓のカンの鋭さに改めて驚かされた。
 これはそう遠くないうちに気付かれるかな? 別に俺の心は決まっているし、気付か
れても困ることはないんだけど。
 いや、困るか。15歳の初音ちゃんに手を出したなんて知られたら、それこそどんな
目にあわされるか分からないな。
 俺は、その想像を頭から追い払った。考え続けるには、あまりにも恐ろしく、リアル
すぎる情景が浮かんできたからだった。
『…お姉ちゃんたちにはないしょにしててね』
 先ほどの初音ちゃんの言葉が頭をよぎる。
 …そうするよ初音ちゃん。俺はまだ死にたくない。
 俺は、二人に続いて食堂へと向かうために立ち上がった。



 朝食が終わった後、初音ちゃんに呼ばれた俺は、部屋にお邪魔することになった。
「私ね、耕一お兄ちゃんに、どうしても渡しておきたいものがあるの」
 俺が床に腰をおろすと、初音ちゃんが、まちかねたように話を切り出した。
「これ…」
「これは…」
 半透明の、牙のようなかたちの石。金属の装飾と、そこに通された紐。
「叔父ちゃんからもらった、お守り。わたしにとっては今でも、大切なお守りなの。
でも、お兄ちゃんに持っていてもらいたいんだ」
「これ…見るとつらいから?」
 洞窟でのことが思い出されてしまうからだろうか?
「あ…ううん、そういうことじゃないの。そうじゃなくて、わたしにはお兄ちゃん
がいてくれるから、もうお守りは必要ないの」
 初音ちゃんが、少し顔を赤らめた。
「だから、お兄ちゃんに持っていてもらいたいんだ。叔父ちゃんの形見の品。
…これには、叔父ちゃんの耕一お兄ちゃんへの想いがつまっているから」
「親父の?」
「そうだよ。」
 初音ちゃんが、俺の顔をじっと見つめた。
「叔父ちゃん、耕一お兄ちゃんのことをよく話してくれた。一番いろんな話を聞いてい
るのは楓お姉ちゃんだと思うけど、わたしにも色々話してくれたよ。耕一お兄ちゃんの
話をしているときの叔父ちゃんは、すごく楽しそうだったの」
 親父が生きていたときの情景を懐かしむように、ちょっぴり寂しそうに、初音ちゃん
は話してくれた。
「だからやっぱり、これはお兄ちゃんが持っているべきだと思うの」
「…わかったよ。初音ちゃんが貰ったものだけど、しばらくは俺が預かっておくよ」
 俺は、素直に受け取っておくことにした。
 初音ちゃんの手から渡されたそれは、温かった。その透き通るような光を見ている
うちに、親父の顔が浮かんできて、消えていった。
 親父は、笑っていた。



 初音ちゃんと想いを交わしあってから、ふたつの夏がすぎ、みっつめの夏が訪れた。
 三年前と比べると、初音ちゃんは見違えるくらいに女らしい体つきになっていた。
 身体の線がすべて丸みを帯び、胸のふくらみははっきりと分かるほどに大きくなっている。
 もっとも、同年齢の女の子と比べると多少子供っぽい体つきではあったけれども。
 あの頃と同じ童顔は変わっていない。髪形も、基本的には昔のままだ。ただし、後ろ
髪を長く伸ばすようになったので、少し大人っぽく見える。
 俺は大学を卒業し、鶴来屋に見習いで就職した。ひとつには、すぐには無理でもいず
れ千鶴さんの助けに少しでもなれば、と思ったからだし、もちろん隆山温泉に住んで
初音ちゃんと一緒にいる時間を長くしたかった、というのもあった。
 少しばかり遠慮もあってどこかにアパートでも借りようかどうしようか、と最初は
思っていたのだが、千鶴さんに相談すると
「うちにいらっしゃってください」
と一言でかたずけられてしまったので、千鶴さん、梓、そして初音ちゃんと一緒に、
あの広い屋敷に住んでいる。
「楓お姉ちゃん、結局この夏はこっちに戻ってこなかったね…」
 初音ちゃんの表情が曇った。3年前のあの夏、初音ちゃんのことを妹としてではなく
いとしい女性として見はじめてからというもの、楓ちゃんは俺と距離をおいた付き合い
しかしてくれなくなってしまった。
 大学が休みに入るたびに、初音ちゃんと一緒にすごすために隆山温泉に戻ってくる俺
にも、ほとんど口をきいてくれなかった。
 初音ちゃんに言わせると『楓お姉ちゃんは恥ずかしがりやだから』ということになる
のだが、俺には楓ちゃんがわざと俺を避けているようにも見えるのだった。
 そして、去年。楓ちゃんは東京の大学に合格し、柏木の家を出た。
 俺の住んでいるところからそう遠くもないところに住んでいるという話は聞いたのだ
が、会いにいくチャンスもなく、結局それ以来、俺は楓ちゃんと顔を合わせていない。
 千鶴さんは鶴来屋の会長として、忙しい生活を送っていた。実務面ではともかく、
会長職も板に付いてきたようで、朝早く出社して夜遅く帰るという繰り返しの生活を
送っていた。
 身体は大丈夫なのだろうか、と心配して聞いてみたこともあるのだが、いつもの微笑
みで『大丈夫ですよ、耕一さん』と返されただけだった。
 仕事だけではなく、千鶴さんのすべてを支えてあげられる男(ひと)が出てくればいい
のだけれども。俺は、千鶴さんの姿を見るたびに、そう思わずにはいられなかった。
 梓は相変わらず元気だった。高校を卒業して短大を出た後、地元の企業に就職。かお
りちゃんとの付き合いも続いているようだ。もちろん、友人としてだよ、とは本人の弁
だ。
 梓のことを考えると、胸がちくりと痛んだ。いま思えば、三年前のあの頃、初音ちゃんと
想いを交わす前、異性として一番俺が意識していたのは梓だった。
 『弟のような存在』として見ていたのは、それ以上の関係に踏み出すのが怖かったか
らなのだと思う。
 顔を突き合わすと照れが邪魔をして素直になれなかったけど、気の強いところも、
けれど傷付きやすく繊細な心を持っているところも、俺は好きだった。
 …俺は、頭を振って自分の中の思考を飛ばした。
 過ぎたことを考えても仕方がない。いま、俺には愛する初音ちゃんがいる。それだけ
で、十分だった。


 初音ちゃんの部屋に入ると、俺はいつものように床に腰をおろした。
 すでに見慣れた、居心地のいい部屋。初音ちゃんと話をするときは、この部屋にくる
ことが多かった。
「初音ちゃん、これ、受け取って欲しいんだ」
 俺は、こっそり用意してあったプレゼントを取り出した。
 落ち着いた色の、小箱。
「なあに、お兄ちゃん」
「いいから、あけてみて」
 ゆっくりと、初音ちゃんが小箱をあける。その顔が、驚きの色に染まった。
「…きれいな指輪。わたしに?」
「ああ」
 簡単な装飾が施されただけのシルバーリング。高価なものではなかったが、俺なりの
想いを込めて選んだものだった。
「婚約指輪…ってほどのものでもないけど、俺の初音ちゃんに対する気持ちだよ。これ
からも、ずっと一緒にいるっていう、証し」
「嬉しい…大事にするね」
「指を出して。はめてあげるよ」
 差し出された細い指に、ゆっくりとリングを通していく。
 目を細めて喜ぶ初音ちゃんを見ていた。恥ずかしそうにうつむいて、少し上気した横
顔がきれいだった。
 この笑顔を守ってやりたい。三年前と同じ思いを、俺は再び心に呼び起こしていた。
「ねえ、お兄ちゃん。今日は夜になってから久しぶりに花火、やりにいかない?」
「水門のところに?」
「そう。花火セットがいくつかあるんだ。千鶴お姉ちゃんが会社でもらったんだって。
線香花火もあるよ」
「よし、じゃ行こうか」
「わたし、ネズミ花火は苦手だから置いていくね」
 三年前のことを思い出したのか、初音ちゃんがそういって笑った。
「初音ちゃんが嫌がるのを見ると、ついいじめたくなっちゃうんだよな〜」
「も、もう、お兄ちゃん意地悪なんだから」
「あはは、大丈夫、もうしないよ」
 俺は笑って答える。
「本当に?」
「…たぶん」
「そんないじわるな耕一お兄ちゃんなんか、もう知らないっ」
 初音ちゃんが、形ばかりすねて見せた。そんなやりとりの中に、初音ちゃんとの絆を
感じることができる。
「ごめんごめん、本当にしないよ。…約束する」
 俺は、真顔で答えた。右手の小指を差し出して、初音ちゃんの指に絡める。
「指きり、するからね」
「…お兄ちゃんの指きり、あんまりあてにならないからなぁ」
 初音ちゃんは、そういいながらも嬉しそうだった。


 俺と初音ちゃんは、夕食をとった後、三年前と同じ水門のある場所に赴いた。
 千鶴さんと梓も誘ったのだが、千鶴さんには
「目を通しておかないといけない書類がありますから…二人で楽しんできてください」
とやんわりと断られてしまったし、梓は梓で
「お二人の邪魔をするなんてごめんだよ〜」
と露骨に嫌そうな――あいつなりに気を遣ってくれたんだろうが――顔をして断ってきた。
 結局、ふたりっきりの花火になった。


 パチパチパチ…。
 色とりどりの火花が、手に持った花火の先端から飛び出しては宙へと消えていく。
 独特の、火薬の焼ける匂いがあたりに立ちこめていた。
 白い煙が、火花で明るく照らされた小さな円の中でゆらゆらと揺らめき、暗やみの中
へと溶けていく。
 シュー…。
 勢いよく吹き出す火花が、小さな範囲の短い時間だけ、あたりを昼間のような明るい
世界に変える。
 光の円球は、やがて小さくなっていき、最後に揺らめく炎を残して、消えた。
 先端が焼けた紙筒に残った炎を、用意してあったバケツに入れて火を消す。
 ジュッという音とともに、あたりが再び闇に包まれた。
 俺と初音ちゃん以外には人の気配がない、静かな世界。
 かすかに聞こえる虫の鳴く声が、静寂の中で一定のリズムを刻んでいた。
「…また、残っちゃったね」
「…ああ」
 線香花火が、最後に数本だけ、取り残されていた。
「楽しみは後にとっておきたいっていうのもあるけど、どうしても地味目だから、最後
に残しちゃうんだよな」
 袋から二本とりだして、初音ちゃんに片方を渡す。
「お兄ちゃんと線香花火を一緒に見るの、これで二度目だね」
「打ち上げ花火を一緒に見にいったことはあったけど、ね」
 去年の夏の話を思い出しながら、俺たちは線香花火の小さな火花を見つめあった。
 パチパチ…パチ…パチ。
 火花は徐々に弱くなっていき、赤い玉はジジジジジ…という音をしばらくさせたのち、
しずかに落ちた。
 少し遅れて、初音ちゃんの持っていた線香花火も終わる。
 黙って、俺は袋から次の二本を取り出し、同じように初音ちゃんに渡した。
「やっぱり、きれいだね…」
「これは俺たちのためだけに燃えて、消えていくんだよな」
 どちらからともなく、俺たちは身を寄せあった。
 初音ちゃんの体温を感じながら、小さな火花を見つめ続ける。
「これで…最後だね」
「ああ」
 一本だけ残った線香花火を初音ちゃんに手渡して、火を付ける。その手に、自分の手
を重ねた。
 ジジジジジジ…。
 本当に小さな光になって、消えてしまっても、しばらくそのまま手を重ねあったまま、
俺たちはじっと動かなかった。


 後片づけを終えた後、少し水門のほうを散歩してから帰ろうということになった。
 昔の話をしながら、水門の上にやってきたとき、
「あっ」
 初音ちゃんが叫び声を上げた。
 足元が小さく崩れ、バランスを崩す。
 倒れそうになる先にあるのは、水門でせき止められた水の流れ。よろめいた初音ちゃんを、
かばうように俺は腕をつかみ、ついで身体ごと引き寄せた。
 無理な体勢から力をかけたせいで、初音ちゃんと入れ替わるように、俺の身体が宙を
泳いだ。視界がぐるりと回り、俺は頭から水面へと落ちていった。
 視界の端に、堤に手をついて呆然とこちらを見ている初音ちゃんの姿が映る。どうや
ら無事に助けられたようだ。その唇が何か言葉を形づくろうと開かれた瞬間、俺の身体は、
水の中へと没した。
 爆発するような奇妙な音。柔らかく叩き付けられるような身体への衝撃。
 ごぼごぼという耳を圧迫するような、くぐもった音だけが響く。
 一瞬、息が止まった。自分がどこにいるのか分からなくなって、軽い恐慌状態に陥る。
 …水の中だ。初音ちゃんをかばって落ちたんだ。
 気付くまでに、少し間があった。
 どくん、どくん、どくん、どくん。
 心臓が早鐘を打つように鳴り響く。
 理由もなく、恐怖を感じた。
 きらきらと光る水面。それにむかって必死に手を伸ばす俺。
 だが、身体はいうことをきかず、水面は近づいてはこなかった。足が、何かにからみ
とられたように動かない。
 徐々に息が苦しくなってくる。
 暗い闇の記憶。
 息が苦しい。
 冷たい水が、突き刺すように身体全体を包み込んでいる。
 精神の奥から沸き出してきたどす黒い感情が、俺に触れた。
 心臓をわしづかみにされるような感触とともに、全身に強いショックがきた。
 そして、俺の意識は、そこで途切れた。


 オレは水面から一息に飛び上がり、地面に降り立った。
 全身にまとわりついていた水が、しずくとなって落ちていく。
 虫の鳴き声が聞こえない。
 生き物すべてが何かを恐れるかのような静寂。
 そうだ、オレを恐れているのだ。自由を手にいれたオレを。
「グオオオオオォォォォォォォォォ」
 身体の奥底から歓喜の叫びが沸き出してきた。 
 すぐ近くに、微弱ながら、同族のしるしを発している者がいた。
 この身体の、前の持ち主がハツネとか呼んでいた娘だ。
「お兄ちゃんなの? まさか…」
 ハッと、息をのむ気配がした。何かを思い出したのか、瞳に哀しみの色が混ざる。
 すぐにハツネの表情が、驚きから怒りへと変化した。
「お願い、耕一お兄ちゃんを返して!」
 ハツネが叫んだ。
 きらりと、何か光るものがある。ハツネの指にはめられた金属の放つ光だった。
 ユビワ…?
 オレの記憶の中で、なにかがちくりした痛みをともなって呼び起こされる。
 なにか、失ってはいけないものを失いかけているような気がした。
「グゥ…」
 唸り声が、オレの口から漏れる。
 全身に獣の力がみなぎっていく。オレの中から痛みが消えていった。
 失ってはいけないものなど、ない。
 あるとすれば、それはオレ自身の命の炎だ。
 オレ自身が狩猟者として生きていく限り、オレはオレ自身の命を守っていかなければ
ならない。
 それだけだった。
 目の前にいるのは、美しい命の炎を持った生物だ。
 ぶおん。
 反射的に、オレの太い腕が、空を切り裂いてハツネに襲いかかった。
 命の炎を散らしたい。
 消えていく炎を見たかった。飛び散る紅い血を見たかった。
 腕は、わずかにハツネの身体をそれ、鋭い爪によってハツネの衣服を切り裂くにとど
まった。まだ十分に成長し切ってない、つつましげなふくらみがあらわになる。
 爪の軌跡にそって、浅くハツネの身体に赤い筋が刻まれていた。
 ハツネの命を奪う最後の瞬間に、オレの中でためらうものがあった。オレには分から
ない何かが、オレの身体を制御したのだ。
「お願い…わたしたちから何もかも奪っていかないで…」
 ハツネの姿が、オレの中にまたちくりとした痛みを生んだ。
 オレの前に肌をさらして、涙を流しているハツネ。
 過去に同じ姿を見たことがあった。
 泣いているハツネ。白い肌をさらして陵辱されている。呼んでいるのは人の名前。
 助けたい人の名前。はじめて男を受け入れ血を流す自分の痛みよりも、心を操られて
自分を犯している者の痛みを思いやる心。
 悲しみを癒す心。優しい心。思いやる心。痛みを分かち合う心。
 ハツネがいるハツネが笑うハツネが泣く…。
 ハツネちゃんが微笑むハツネちゃんがはにかむハツネちゃんが悲しむハツネちゃんが
驚く…。
 初音ちゃんが楽しそうに笑う初音ちゃんが幸せそうに微笑んでいる初音ちゃんが泣い
ている。
 もう泣かせたりしないって、約束したのに…。
『この子を守ってやれ。それくらい、お前にもできるだろう…』
 懐かしい声がどこからか聞こえてくるような気がした。
 そうなんだ。
 俺、守ってやるって約束したよね、初音ちゃん。
 もう泣かせたりしないって、誓ったはずなのに。
 ごめんよ、初音…。
 いとしい者への想いが身体の中に広がっていった。
 これまで身体を支配していた、心の中のどす黒い衝動が急速に収まっていく。
 細胞が形を変え、必要なくなった部分がパリパリと乾いた音を立てながら剥がれ落ち
ていった。
「耕一…お兄ちゃんっ」
 人の姿に戻った俺に、初音ちゃんが抱きついてきた。
「ごめん…心配かけちゃったね。胸の傷、大丈夫?」
「深くない傷だから…大丈夫だと思う」
 かすり傷、とは言えない傷ではあったけれども、出血はおさまっていた。
「それよりも、どうしよう」
「二人ともすごい格好になっちゃったね」
 初音ちゃんは前が完全にはだけている。俺にいたっては、着ていたものはすでに原形
をとどめてない、全裸だった。
「…家の前から人通りがなくなる時間まで待って、こっそり帰るしかないよな」
 二人で、顔を見合わせて笑いあった。
 とめどなく沸き出した安心感が、笑顔を作り出していた。乾いた涙が軌跡を作った頬が、
笑顔の中に吸い込まれていく。
 初音ちゃんの身体を抱き寄せた。
 優しく口づける。
 そのまま、唇を合わせたまましばらく抱き合っていた。
 とくん、とくん、とくん。
 お互いの鼓動が、身体の暖かさが、触れ合っている唇の感触が、心地好かった。
 ゆっくりと唇を離した。
 目の前に初音ちゃんの微笑みがあった。
 そのまま俺たちは、お互いを感じながら、夜が更けるまで静かに抱き合っていた。







あとがき:
…ダメかも。
すいませんありがちな話で(笑)。読んでいただいている方には分かるでしょうが、初音
ハッピーの後です。お約束ですが例の襲来はなかったことになっていたりします(笑)。
なんか書いているうちに、三年後のみんなを書いてみたい衝動に狩られてきてしまった
ので(…字、違うぞ)、またそのうち何か形にできれば、と思っています。
最近、読み手としての活動(人様の作品を読んで感想書いて)のほうで素晴らしい作品
に出会って、衝撃を受けまくってしまって、打ちのめされてます(嬉しいけど)。
私自身の書いたものも、そんな喜びを読んだ人に感じてもらえればなぁ、とは思うので
すが…なかなか、ですね。
まぁあれです。もし読んでちょっとでも気に入っていただけたなら、また次の作品など
も読んでみていただければ嬉しいです。


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