季節はいつも、さりげなく通り過ぎていく。
一日はこんなにも長く感じるのに、それを綴った季節はめまぐるしく移り変わ
ってしまう。
――――――――――――――――――『To Heart』冒頭一節より
以下それに準ず
――気がつけば春。
不安と期待を胸にする始まりの季節。
広がる青空、眩しい光、さわやかな風に舞う薄桃色の花びら。
私がその子と出会ったのは、そんな華やいだ季節でした――。
最初、私はその子のことが嫌いでした。
なにしろその子は何かと私のことをイジメたり、イタズラしたり、仲間外れに
したりしていましたから。自分は何も悪いことをしていないのに、どうしてそ
んなに酷いことをされなければならないのか、子供心に辛くて、悲しくて、何
度も泣いたことを憶えています。
でも……。
あるとき私は知ったのです。
その男の子が、本当はとても優しいんだということを。
ただ、とっても照れ屋さんなだけなんだということを。
それから私は、その子といつも一緒にいるようになりました。
そして、その優しい彼のことを好きになっていく自分に気づいたとき、私は嬉
しくてしょうがありませんでした。
これが恋なんだなって思うと、胸のあたりがキュンッと締め付けられるような
感じがして、その子の顔ばかり頭に浮かんできます。
そして、毎晩寝る前に、布団の中で一言、その子の名前を呟くのです。
いつかこの想いが届きますようにと続けられた、私のささやかなおまじない。
「…ひろゆきちゃん…」
……想いは…届きました……。
――気がつけば夏。
光輝くまばゆい季節。
照りつける太陽、くっきりと映る影、高く聞こえる蝉の声、はるか遠くに広が
る入道雲。
「浩之ちゃ〜ん」
私はいつも通り時間に、彼の家に向かって大きな声で呼び掛けました。
そうすると、ドタドタドタッと階段を下りてくる音が聞こえてきて、ガチャッ
とドアが開いて、やんちゃそうな男のコの顔が現れます。
言わずと知れた、藤田浩之ちゃんです。
「お、あかり。今日もめげずにやってきたな」
「えへへ、よろしくおねがいしまーす!」
「よしよし。ちゃんときた褒美に、今日もビシバシ鍛えてやるからな!」
「うんっ」
この夏休みの間、私はずっと浩之ちゃんに水泳の猛特訓を受けているのです。
浩之ちゃんは水泳限らず、自転車に乗るのも逆上がりができるようになるのも、
私たちの中で一番最初でした。浩之ちゃんは何でもできるんだなぁと、私たち
はその度に『尊敬の眼差し』を送っていたものです。
そして浩之ちゃんに教わって、その次にできるようになるのが雅史ちゃん。私
はいつもビリっけつです。
ですから私も、はやく泳げるようになりたくて、こうして毎日、浩之ちゃんの
きつ〜いお稽古をガンバって受けているのです。
「しっかしなー。てっきり一日で音を上げると思ってたのに。あかり、おまえ
けっこー根性あるじゃねーか」
……だって……。
「えへへ。少しは見直した?」
「ばーか。そういうことは、ちゃんと泳げるようになってから言え!」
ぺしっ
「あっ」
……………………………。
「んっんっ…ぷはっ!……んっんっ…ぷはっ!……」
「おらっ、あかりぃ! もうすこし、もうすこし!」
近所にある市営プールが、私と浩之ちゃんの特訓の場です。
まわりには他にも夏休みで遊びに来ている子供たちがいるのだけど、浩之ちゃ
んはいつもそういったコたちを蹴散らして、私の泳ぐスペースを作ってくれる
んです。
「ほらほら、足が沈んでんぞっ! もっと顔つけて。水ん中で息はいて、顔を
上げたら吸うんだよ! ほら、あかりぃ、ガンバレ! もーちょいだぞっ」
水の中でも浩之ちゃんの声だけは、しっかりと聞こえます。私はその声を頼り
に、必死になって手足を動かします。
そして、とうとう――
私の手は向こう側にいた浩之ちゃんの体に辿り着いたのです!
「! やった、やったよ!」
私が嬉しさのあまり、思いあまって浩之ちゃんの体に飛びつくと……。
「うおー! やったじゃねーかっ、あかりぃ!」
彼も私の幼い体をしっかりと抱きとめてくれました。
「うんっ。やったやった! 私、ちゃんと泳げるようになったよ!」
――これで、おっきなプールに行っても、浩之ちゃんと一緒に大きなすべり台
ですべったり、流れるプールに入ったりできるんだね!――
よくある遊園地のような巨大プールのそういった所は、子供たちにとってはと
ても魅力的であったけれども、危ないという理由で泳げない子供には入れてく
れませんでした。
私はいつも雅史ちゃんと二人でそこに遊びに行ってしまう彼についていけない
自分が、とても悲しくって悔しくってならなかったのです。
でも……もう、大丈夫。
これでまた一歩、彼に近づくことができたのだから……。
夏の太陽がサンサンと照りつけるプールの中、成功を収めた二人の子供は、い
つまでも無邪気に、互いの喜びをわかちあっていました。
――気がつけば秋。
茜色に染まる黄昏の季節。
鮮やかな紅葉、そよぐ涼しい風、踏んだ落ち葉の乾いた音、早い夕暮れ、空を
焦がす真っ赤な夕陽。
「ねえ、あかりぃ〜」
後ろから聞き慣れた大きな声がしました。
振り返ってみると、案の定、志保が大きく手を振りながらバタバタと走ってき
ます。
志保とは去年の春、入学式で知り合った私の新しいお友達です。本当は浩之ち
ゃんの方が早く知り合ったんだけど、あのときは……二人とも凄かったなぁ。
入学式が30分も中断しちゃったんだもん。『お前らがこの新入生の中で説教
を受ける最初の二人だ。これから3年間、せいぜい仲良くするんだぞ!』と、
先生が呆れ顔で叱っていたのが、今でも忘れられません。
「志保、廊下を走ったら危ないよ。この間教室から出てきた人と、ごっつんこ
しちゃったばかりじゃない」
「んも〜、あかりったら相変わらず良い子ちゃんなんだから〜ってノンキに言
ってる場合じゃないわよ! あかりっ! 最近ヒロの奴からムシされてるんだ
って!」
志保の言葉に私はビクッと体をこわばらせました。ど、どうして、その事を?
「そそっっ、そんなことないよ! ただ最近、浩之ちゃん、疲れているみたい
だから、あんまり、私と話す機会がないだけなのっ」
「ウソおっしゃい! この志保ちゃんの情報網を甘く見るんじゃないわよ」
「ホント、本当に、何でもないのっ」
言葉の上では否定しつつも、私の体は小刻みに震え、止まりそうもありません。
そんな私を、志保はじと〜っと目を細めて、穴があくほど見つめてきます。
「……あかり……あんたホンット、ウソつくの下手ね。そんな顔まっ青にさせ
て、脂汗ダラダラ垂らしてたら、一歳の子供だって気づくわよ」
「えっ、そっ、そんなこ…っ……」
「…! ち、ちょっと! あかり! 大丈夫なの!?」
思うように声が出ない。私の体は、徐々に大きく、ガクガクと震えてきました。
膝の関節に力が入らず、そのまま倒れ込むように、志保の肩に縋り付く……。
「あかり、あかり」
「あれ? な、なんか…へん…だな? か、らだ、が……」
胸の動機が凄い速さで打ち鳴らします。息が詰まるような感じがして、くるし
い……。
……なんど呼んでも、応えてくれない浩之ちゃん。声をかけてもすぐ後ろを向
いていってしまいます。最初のうちはただ機嫌が悪いだけなのかなぁ、と思っ
ていたのですが、もう一ヶ月、口ひとつ聞いてくれません。
私、なにか浩之ちゃんを怒らせるようなこと、しちゃったのかなぁ……。
でも、どんなに考えても、思い当たるようなことはありません。いつも通り、
今まで通りに、普通に浩之ちゃんに接していたはずだったんだけど……。
私は志保の体にもたれかかるようにして、何とか立っている状態でした。
志保はいきなりの私の変化に最初は戸惑うだけでしたが、次の瞬間、キッと表
情を引き締めると、私に鋭い声で言い放ちました。
「まっててあかり。今、あのバカをここに連れてくるから。そしてあんたの前
で土下座させてやるっ。……女の子を、こんな辛い目に遭わせておいて、へー
へーとしてるなんて許さない!」
「!!」
私はその言葉に心臓を直に掴まれたような錯覚をおこしました。
志保は今まで見たことがないくらい恐い顔で、駆け出していこうとしています。
私は死にものぐるいで、志保を止めようとしました。
「駄目! 志保、そんなことしちゃダメ!」
「あかりは黙ってて! 今日という今日は勘弁ならないわ! ヒロの奴を、コ
テンパンッにしてやる!!」
「おねがい、しほ。…やめて……」
私はポロポロと大きな涙をこぼしながら、志保の制服のハジをギュッと掴みま
した。
「浩之ちゃんのせいじゃないの。わたしが…きっと私が悪いんだから……」
浩之ちゃんは何の理由もなしに人に冷たくあたるような男のコじゃないもん。
「あ、あかり。あんた、なんでそんなになってまで、あいつのこと庇うのよ…」
「だって、だって…!」
涙が止まりません。それは志保に対してのものなのか、それとも浩之ちゃんの
態度に対してなのか……もう、わからなくなっていました。
「………」
「うっ、うっ…」
「……はぁぁ。…わかったわよ、あかり」
志保は一回、深いため息を吐いて、そう言ってくれました。
私は顔を上げて彼女の顔を見ます。
「わかった。この件に関しては、あたしは何も言わない。それでいいんでし
ょ?」
「……ううっ。ごめん、ゴメンね。志保……」
私は何度も何度も彼女に謝りました。
「いいわよ。そのかわり……」
「?」
「絶対、アイツのこと放すんじゃないわよ。そこまで思い詰めた恋…必ず成就
させなきゃダメだかんねっ!」
「…志保」
「あたしも、セーイッパイ応援してあげるから、ガンバンなさいよっ」
志保は片目でパチリとウインクして、私の額をこつんと突っついた。
「…志保……ありがとう……」
その日から、私たちは一番の親友どうしになりました。
そして――
私の人生の中で最大の危機が訪れたのも、ちょうどその日の夜のことでした。
「………………………」
え? ……お母さん、今なんて言ったの?
「………………………」
…うそ……嘘でしょ?
「……だからね、今度、お父さんがお仕事の都合で、転勤になって……」
…そ、そんな……。
…引っ越しするだなんて……。
…転校するだなんて……。
『……あかり……』
……浩之ちゃんに会えなくなるだなんて!?
そんなのゼッタイに嫌だっ!!
その時、私は自分が何をしゃべったのか、よく憶えていない…。
ただ、初めて、私は親の言うことに真っ向から刃向かった。
…たぶん、とても酷いことを言ってしまったんだろう。あんな悲しいお父さん
とお母さんの顔は、初めて見た。
私は最後まで引っ越しには反対し、……気付いたときには、泣きながら自分の
部屋に駆け込み、小さい頃、浩之ちゃんにもらった大切な『くま』を抱きなが
ら、布団の中にうずくまっていた…。
「………」
――もう、朝だった。
「……ひろゆきちゃん……」
「………」
その日、私はなんとか彼にあって、話を聞いてもらおうとした。
……でも、結局ダメだった。
彼はいつも通り、とにかく私に会うことを避け、会って声を掛けても、気付か
ない振りをしてすぐに行ってしまう。
…私にとっては、全然いつも通りじゃなかった……。
…最悪だった……。
夕刻――
私は家に帰って、そのまま自分の部屋のベッドに倒れ込んだ。
「………」
おそらく、家に行ったって、彼は会ってくれないだろう。
――もう、二度と会ってくれないの?
――もう、二度と会えなくなっちゃうかも知れないのに。
「………ぅ…」
……そんな、ひどすぎる……。
『……あかり……』
浩之ちゃんに会えなくなるなんて……。
『おっす、あかり』
浩之ちゃんの顔を見れなくなるなんて……。
『なにやってんだよ、あかり』
ひろゆきちゃんの声が、聞こえなくなるなんて……。
それに――
『……………』
いま浩之ちゃんとさよならしたら、私は一体どういう存在として、あのひとの
記憶に残るのだろう?
ただの幼なじみとして?
仲のよかった友達として?
ううん。
いまの状態じゃ、そんな風にすら思ってもらえないよね……。
……私の想いは、一体どこにいってしまうんだろう……。
糸の切れた凧のように、くるくると回って、大空のどこか果てまで行ってしま
うんだろうか……。
コンコン
その時、部屋の扉をノックする音がした。
「…はい」
「…あかり、ちょっといいかい?」
「……お父さん…」
部屋に入ってきた父は、こころなしか疲れているように感じた。…当たり前だ
よね。娘がついていかないだなんて言い出すんだもん。普通、悲しむよね。
「………」
「………」
夕暮れの紅い色が部屋の中を照らし出す。
私が物心ついたときから使ってきたこの部屋……この家ともお別れなんだ。思
い返してみなくても、たくさんの思い出が自然と浮かび上がってくるこの場所。
どれもこれも、みんな浩之ちゃんとの想い出……。
雛祭りのときのこと。
誕生日パーティーのときのこと。
お泊まり会のときのこと…。
みんなみんな、頭の中にあるのは、浩之ちゃんとのことばかり。
でも、それももう……。
「あかり…」
長い沈黙を破って、話しかけてきたのは父だった。
「………ごめんなさい。お父さん……。わたし…」
「ここに居たいかい?」
わがままばっかり言って……って、え?
「この家に……この街に、ずっと居たいのかい?」
微笑みながら訊いてくる父の言葉に、私は驚きながらも、こくん…と一つうな
ずいた。
「……………そうか…………なら、おまえはここに残りなさい」
「えっ、お、お父さん、それって……」
「向こうには、わたし一人で行くよ…」
その言葉に私はまたもや凍り付いた。
単身赴任? 私のせいで!?
「そんな!? お父さんっ、ダメだよ! それじゃ、お母さんと離ればなれに
なっちゃうじゃない!?」
「大丈夫。お母さんも賛成してくれたよ」
父はそう言って、もう一度、私に優しく微笑みかけると、ポンと肩に手を置い
て静かに言いました。
「いいかい、あかり。親って奴は、誰しも子供のことを想うものなんだよ。そ
の子が幸せになってくれるのならば、どんな苦労だって厭わないものなんだ」
「…おとうさん」
「だいじょーぶ! うまくいけば2,3年で帰ってこれると思うから。ま、そ
の間ちょっとばかり寂しいが、愛する妻と娘のためと思えば我慢できるさ」
「お父さん!」
私は父の胸に思いっ切り飛び込みました。久しぶりに感じるその胸の感触は、
私が憶えているのよりもずいぶんと小さいものでした。
「お父さん! ごめんなさい、ゴメンなさいっ。…私、毎日電話するから、休
みの日には、必ず、お父さんの所に行くからっ」
「はは、それじゃあ、こっちに残る意味がなくなっちゃうだろ?」
父はそうおかしそうに笑いながらも、私の体をぎゅうと抱き締めてくれました。
「……彼は幸せものだね…」
懐かしい匂いに包まれながら、私はその言葉が、全てを解決してくれる魔法の
鍵のように感じられました。
その夜――
ピンポンピンポンピンポーンッ
けたたましい呼び鈴の音が、家中に響きわたりました。
台所でお父さんのためにご馳走を用意していた私はびっくりして、慌てて玄関
へと走っていきました。
「はーい。どちら様…」
「あかりぃ!!」
「ひっ、浩之ちゃん!」
そこに立っていたのは、ぜぇはぁ、ぜぇはぁ、と肩で苦しそうに息をした浩之
ちゃんでした。そしていきなりの第一声が――
「あかりっ、おまえっ、引っ越すってっ、ホントかっ!?」
「え? え? そんな、どうして!?」
どうして浩之ちゃんがその事を!?
私が混乱していると、浩之ちゃんはかなりいらついたように、声を荒げて訊い
てきます。
「どうなんだっ! 本当に引っ越しちまうのかよっ!? なんでっ……」
そこで浩之ちゃんは、声を詰まらせ俯いてしまいました。はあ、はあ、と彼の
荒い息づかいだけがその口から漏れます。
………ひろゆきちゃん。
……心配して走ってきてくれたんだ。
……私のこと、少しは気にかけていてくれたんだ。
へへ、うれしい…。
やっぱり、ぶっきらぼうで、素っ気ないままだけど、ホントは、やっぱり、…
優しいよぉ。
私は溢れそうになる涙をこらえながら、精いっぱいの笑顔で応えました。
「…ううん。いかないよ。どこにも…いかない……」
「えっ」
浩之ちゃんは、ガバッと頭を起こします。
「…ほんとーなのか?」
「うんっ。私は、ずっと、浩之ちゃんの側にいるよ」
私がそう言うと、浩之ちゃんはホッと安心したように息を吐いた……と思った
ら、次の瞬間にはバッと顔を真っ赤にさせて、
「くぅっっっっそおぉぉーーーッ!! 志保のヤロォォォーーーッ!!
ガセネタ掴ましやがってェェェーーーッ!!」
と、凄まじい怒鳴り声を上げました。
「えっ!? あ、あのっ…」
浩之ちゃん…もしかして志保から?
志保に今日話したことは、あの時点ではちゃんと本当のことだったんだけど…。
でも、浩之ちゃんは全然聞く耳もたずで、志保に対する悪口雑言を言いまくっ
ています。
「あ、あのね。浩之ちゃん」
「ったく……あ? なんだ、あかり?」
呪いの言葉が一段落ついたところで、浩之ちゃんがきょとんとした目を送って
きました。
私はその、何十日ぶりかに見せる、いつも通りの浩之ちゃんの顔を見たとき、
なにか頭の中が真っ白になってしましました。
「……あのっ、あした………また、一緒に学校に行ってもいい?」
「あ? 別におまえの好きにすりゃいーじゃねーか」
なにを言ってんだかといった表情で応える彼。
いつも通りの、外見むっつり心さわやかの彼の表情です!
「うんっ。いく。必ず行くからねっ」
「ん? ああ、そーかよ。じゃあな、あかり」
「うんっ! ばいばい! 浩之ちゃんっ!」
私は浩之ちゃんの姿が見えなくなるまで、ぶんぶんと手を振り続けました。
明日からまた、浩之ちゃんと一緒の生活が始まる! そう思うと嬉しくて嬉し
くて、飛び上がらんばかりでした。
ああっ。はやく明日がこないかなーっ。
翌日――
「いーーかっ! もう二度と、こんりんざいっ、てめーの言うことなんか信用
しねーかんなっっ!!」
「なっ、なんですっってぇぇーー!! あたしがいつ、あんたにウソ教えたっ
てユーのよっ!?」
……………。
まさか志保のあの悪い癖の発端が私だったなんて、浩之ちゃん、今さら言って
も信じてくれないだろうな……。
――気がつけば冬。
雪の降り積む白い季節。
身の縮まる冷たい風、新雪に残す足あと、白い息、吐く息で温める手。
「……ん……」
髪に感触があるのに気づいて私は目を覚ました。
ゆっくりと瞼を開く。そうすると見えるのは彼の胸板。
「……浩之ちゃん?」
「わりぃ。起こしちまったか」
私は彼の胸に抱かれながら冬の寒さを忍んでいました。
外はどんなに寒くても、ここだけは決して変わらない私だけの場所……。
……暖かい……。
さわさわ
「………」
さわさわ
浩之ちゃんは私の髪の毛をいじいじしています。
私を優しく包み込んでくれている…その腕で。
ナゼかはよくわかりませんが、浩之ちゃんは私の髪をいじるのが好きです。
いつも寝るときには、私の肩に回したその腕で長くなった髪をすぅっと梳くよ
うに撫でてくれるんです。
私の髪、ずいぶん長くなりました。あの日――中学校の頃からしていたおさげ
をといた日から――ずっと伸ばしてきた髪。浩之ちゃんに訊かれたときには、
切るのがめんどくさいからって応えていたけど、ホントは理由があるんだよ。
『まあ、やっぱり。男なら誰しも長い髪に憧れるもんだしな』
私、少しでも浩之ちゃんの気に入る女の子になりたかったんだもの。たとえ来
栖川先輩のようにはなれなくったって、……女の子は……少しでも、好きな男
の子の理想に近づきたいんだよ。
私はきゅっと、その鈍感な裸の胸に身を寄せました。
浩之ちゃんの手はなおも優しく、髪をなで続けてくれます。
「あかり、チョット外、見てみろよ」
「え? うん」
私はちょっと上体を起こして、窓の外を覗いてみました。そこには……。
「あっ、雪だ! 浩之ちゃん、雪が降ってるよ!」
窓の向こうは、一面の銀世界でした。空から舞い降りた白い小人さんたちが、
地上を純白のパーティー会場に変えていっています。
「ねえねえ、浩之ちゃん。あとでいっしょに雪だるま作ろうよ!」
私は嬉しくなって、下で寝そべっている浩之ちゃんにそう提案したのですが、
彼は呆れたような嫌そうな顔をして、
「おまえなぁ。大学生にもなって、なにガキみたいなこといってんだよ。オレ
はヤダかんなっ」
にべもなく却下されてしまいました。
「え…、でもせっかくこんなに積もってるのに……」
「ああっ、もうっ」
「きゃっ…」
強い力で腕をひっぱられ、私は再び、彼の胸元へとおさまってしましました。
「ったく、いつまでもふとん口あけとくんじゃねーよ。さみーだろがっ! 外
に出るか、このままでいるか、どっちかにしろ!」
「………うん。ずっと…こうしてる……」
細いけど、引き締まった胸板に、ぴとっと頬をすりよせながら、私は小さい声
で呟きました。
すりすり、さわさわ
「ん…、なんだよ。人のからだ撫で回しやがって」
「……浩之ちゃんの胸、たくましい……」
私はうっとりとしながら、彼の体に身を擦り付けます。
「なに言ってんだよ。あかりの方こそ……」
ふにふに
……あ、こらぁ。
髪を触っていた手が微妙に下にずりおりてきたと思ったら、私の胸に……。
もう、いけない手なんだから……。
ぷにぷに
……浩之ちゃんだからいいけど……。
「……あかり、おまえ……ムネ…でかくなったよなぁ」
「え…そ、そうかな?」
「ああ、オレのおかげだからな。感謝しろよ」
「? どうして」
すると浩之ちゃんは、ニヤッと笑って
「それはダナ、オレがこうやって…」
「あん」
モミモミ
「毎日揉んでやってるからだろ?」
「ひ、ひろゆきちゃんっ」
そ、それはそうだけど……。
……でも、きっとそれだけじゃないはずだよ。
「……ん? なんだよ。不気味に笑いやがって」
「ふふふっ、べつにぃ」
このふたつの膨らみの中にはね、浩之ちゃんへの想いがいっぱい詰まってるん
だよ。20年間、ずっと温め続けてきた私の想い。それがどんどん育ってきて、
こんなに大きく膨らんだんだ。
だからみんな、浩之ちゃんのものだよ。
私の体も…心も……。みんな、浩之ちゃんの為だけの。
浩之ちゃんだけの、すぺしゃるおーだーひんなんだから。
大切にしてよね……。
ひろゆきちゃん。
「……? あかり、なんか言ったか?」
「ううん。なんにも……」
私はほうっと息を吐くと、今一度、恋人の胸に顔を埋めました。
――そして、また、春がやってきた。
「………」
私はそっと本を置いた。
「………」
たくさんの思い出が込まれたこの日記帳を読み返してみると、私の人生って、
本当に、浩之ちゃんを中心に回っていたんだなと思います。
幼いときに出会った、小さな男の子の優しい心。
その子に惹かれ、その子のことを好きになり、そしてその子を愛するようにな
った私の心。
ただ、浩之ちゃんと一緒にいたかったから……。
ずっと温め続けてきた、たった一つの想い。
……もし、浩之ちゃんと出会わなかったら、私って、いったいどういう人間に
なっていたんだろう?
……もし、浩之ちゃんが私に応えてくれなかったらどうなっていたんだろう?
それでもやっぱり、浩之ちゃんのことを好きで居続けたんだろうかな?
「……くすっ…」
そうだよね。
もう、そんなこと、考える必要なんてないんだよね。
だって――
「あかり」
ドアからお母さんが顔をのぞかしていました。
「お父さん……自分の部屋にいるからね」
「…うん。わかった…」
パタンと閉じられるドア。
…そう、この部屋とも今度こそお別れ。
「……さてと、自分自身の気持ちの整理も終わったし、そろそろいかないと…」
明日、わたしは、私の愛した男の子と結婚します。
タッタッ――パタン
この世で一番、大好きな人と――。
コンコン
「お父さん? …あかりですけど……」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「……………………」
う〜。き、緊張するなぁ。
水を打ったように静まり返った室内では、今や遅しと主役の登場を待っている。
ちなみに一応、オレも主役の一人ではあるのだが、やはり結婚式といえば純白
のウエディングドレスに身を包んだ花嫁と相場が決まっている。
オレはおそらく数分も立たないうちに見るであろう、そのかつての幼なじみの
姿を想像して、さらに胸の鼓動を高鳴らせた。
だぁ〜〜。これ以上カタくなっちまってどーすんだ! 落ち着け。おちつくん
だ!
すー、はー。
……うん、ちょっとはマシになったぜ。
……それにしても。今日、とうとう、オレたちは結ばれるんだよな……。
オレたちがつきあい始めてから、かれこれ9年の歳月が流れた。高校を卒業し
た後、一緒の大学に入って、就職して、なんだかんだやっている間にずいぶん
と月日がたってしまったもんだ。
お互い心底惚れ合っているんだし、実際いつ結婚してもよかったのだけれども、
…だからこそ、オレはあかりをちゃんと守っていけるだけの力を付けるまで、
待っていてもらった。
おかげで入社して3年間、がむしゃらにがんばった成果か、少しは重要な仕事
を任されるようになり、蓄えもできた。あかりも今年で26になってしまうし、
そろそろここいらが潮時かなと思い、今日に至ったわけである。
これであいつの『いつまであかりを待たせておくの!?』攻撃からも解放され
るってもんだぜ。
………おおっと。そろそろその花嫁のご登場のようだ。あかりのことだ。きっ
とオレ以上に緊張しちまっているに違いない。……まさか、バージンロードの
途中で、ズッコけるなんてことはしないだろーな? さすがにシャレにならね
ーぞ、今日は。
「………ゴクッ……」
親父さんと腕を組みながら歩いてくるあいつを見てると、なんかこっちの緊張
がさらに高まってくる。
――純白のウェディングドレス――
あかりの髪に、最も似合うやつを選んだ。
オレはあかりの親父さんからその場所を譲ってもらうと、まっすぐ――祭壇の
前へと進んでいった。
すぐ横を一緒に歩いているあかりの顔が、伏し目がちに下を向いている。ベー
ルをかぶっていることもあって、表情はほとんど読みとれない。
きんちょう…してんだよな、やっぱり。
いつもとは雰囲気の違うあかりに、オレは少々戸惑ってしまった。
それから誓いの言葉なども滞りなくすみ(あったら大変だ!)、ついに……
「では、誓いのキッスを」
この瞬間がやってきた。
やっぱりどうも、あかりの顔を見ないと落ちつかねーんだよな。
オレはそう思いながら、いそいそと白いベールを上げて……かたまった。
「…………」
中にいたのが別の女だったとかそういうオチじゃあない。
間違いなくオレの花嫁――神岸あかりだ。
ただ、驚くほど綺麗で、落ち着いた顔がそこにはあった。
……なんだろう。化粧をしているんだから、当たり前といえば当たり前だが、
いつものぽわ〜とした、見てるこっちまで温かくなる雰囲気ではなく、凛と、
一本芯の通った強い女性の印象をオレに与えた。
オレが思わず「おまえ、あかりか?」とバカみたいなことを呟きそうになった
ときだった。
――にこっ…とあかりが笑った。
目尻がつっと下がって、まるで花がほころんでいくかのような柔らかな笑み。
頬がバラ色に染まっていく…。
……やっぱり、あかりだ。
オレが一番よーく知っている、幼なじみで、恋人で、世界中の誰よりも大切な
あかりじゃねーか。
そして――
ゆっくりと顔を近づける。
――オレの妻だ。
誓いの接吻は、なぜかあの夕暮れの部屋での感触を思い起こさせた。
「……浩之ちゃん…」
式が終わり、出口へとバージンロードを戻っていくとき、あかりは今日、初め
て口を開いた。
「なんだ?」
組んだ腕を引いてエスコートしながらオレは訊く。
「………ありがとね……」
「なにが」
「私と、いつも一緒にいてくれて……」
「…………」
「これからも……またずっと一緒にいてくれる?」
……………バカだこの女。
普通、こーいう時には、浮気するなだとか子供がたくさん欲しいとかしっかり
稼いでこいとか、もっと欲深いお願いがいっぱいあるだろーがっ。
なんでいつも…そこに落ち着いちまうんだよ。
オレはあかりの願いだったら、何だって叶えてやるのに――
……ホント、安上がりな女だよ、おまえは。
「ばーか」
オレはあかりのおでこに自分の額をこつんとぶつけた。
「おまえ、さっきの言葉、聴いてなかったのかよ」
いったろ? 誓いますって。
「あっ、んぅ」
罰として、オレはそのままあかりの薄く朱をさした唇をふさいでやった。
そして、繋がったまま唇を動かし、もう一度、言う。
………ズット…イッショニナ……
パァッ
その時、外への扉が溢れる光とともに開いた。
「うわぁ」
あかりが思わず感嘆の声を漏らした。
桜。
オレたちの視界一面に、埋め尽くされるような程の桜の花が満開に咲いている。
この時期。この場所。おそらくオレたちに一番ふさわしいであろう結婚式。
「ヒュウー、ヒュウー、おふたりさ〜ん。おアツいねー!」
「ひろゆき〜、あかりちゃ〜ん。二人ともおめでとう!!」
ここには志保がいる。雅史がいる。みんな、仲間がいる!
春。――新しい始まりの季節。
オレたちは再び、この街から新たな一歩を踏み出していくんだ。
オレは隣に目をやる。わずかに涙を滲ませた新妻が、その光景に見入っていた。
「それじゃ、いこうか?」
「うんっ」
オレが声を掛けると、あかりは破顔し、満面の笑顔をオレへと向けた。
二人の心の中のアルバムにいつまでも残るであろう、その笑顔を――
【ENDING:新しい予感】