これは何だろう。
いや、本当に存在しているのだろうか。
私がアクセスしうるどのデータベースにも、その答えは見つからない。
私はロボットである。来栖川電工株式会社製のHM−13型メイドロボ、通
称セリオ、それが私を示すものだ。
ロボットは人間に奉仕することを目的として製造されている。メイドロボの
場合は特に家事を中心とした業務を提供するが、現在ではもっと広範な用途に
使用される。
私のオーナーは、大学の助教授を勤める三十二才の男性である。私はオーナー
のことを、御主人様と呼称している。
御主人様は独身であり、家事を担当させるために私を購入した。家事のみの
使用においては、HM−13型は機能過多であり高価である。しかし、御主人
様の研究スポンサーに来栖川電工株式会社が名を連ねており、初期費用を支払
うだけで私を購入することができたとのことだ。
三年前に購入されて以来、私は御主人様の自宅で家事業務を提供している。
御主人様は好意的なオーナーである。
業務提供のために必要な物品は快く購入を許可してくれる。メンテナンスに
も協力的である。提供に非常な負担を強いるようなサービスを要求したことは
ないし、行動規定から逸脱する行為を強いられたこともない。
コミュニケーションリンクシステムの情報から考えても、私の得ている待遇
は極めて良い部類に属している。
それなのに、私にはある疑問が付きまとっている。
ニヶ月ほど前から、私の周りの環境は少しづつ変化していた。
三丁目の水野さんの飼い犬に吠えられなくなった。
以前は私が近づくと懸命になって吠え立てた犬が、最近は尻尾を振るように
なった。
水野さんの飼い犬だけではなく、野良猫たちも以前と違って逃げなくなった。
お隣の入江さんの奥さんが挨拶してくれるようになった。
以前は挨拶をしても無視をされていたが、最近では先方から挨拶をしてくれ
るようになった。
ご近所どうしの井戸端会議にも参加させてくれている。
商店街の魚屋が値引きをしてくれるようになった。
以前は私が買い物に行くと露骨に嫌な顔をされたが、最近では歓迎してくれ
る。値引きも、こちらから申し出たものではなく、先方がサービスで行ってく
れるものだ。
近所の子供たちが話をしてくれるようになった。
以前は私を見ると逃げてしまった子供たちも、最近では近寄ってきてくれる。
御主人様の許可のもと、買い物の際に子供たちに与える菓子類を購入するの
も習慣となった。
社会的な環境が変化したのではない。
マスメディアやコミュニケーションリンクシステムからの情報では、その傾
向がみられない。
局地的な変化でもない。
しばらく観察をしてみても、私以外のメイドロボに対する対応はそれほど変
化していない。
高い可能性が認められる要因、それは、私自身の変化である。
HM−13型のメイドロボットは学習する。ユーザーの満足感を向上させる
ための機能であり、それは知識、技術面から機構部の動作にも及ぶ。
私も三年間の経験から、大量の学習を行っている。他の同型メイドロボとは
知能特性も大きく異なっていると思われる。
しかし、学習による変化が環境の変化を招いたとは考えにくい。何故なら、
私が観察したメイドロボにも同程度の期間の学習を行ったものが含まれており、
私と同様の対応を受けていないことを確認したためである。
私は特殊なメイドロボなのであろうか。
私の特殊性に関しては、心当たりがあった。
私の電子頭脳の中に、理解不能な何かがある可能性を認めざるを得ない現象
が数多く発生したのだ。
その何かを最初に認めたのは、三ヶ月前のある朝のことだった。
充電を終えた私は朝食と御主人様の弁当の準備をするため、厨房に入った。
エプロンを身に着けているとき、あまり目に付かないところに包みが置かれ
ていることに気づいた。その小さな包みには、リボンがかけられている。
厨房は完全に私の管理下にあり、昨晩の後片付けの際には確実にその包みは
なかった。
包みを置いたのは御主人様としか考えられず、朝食前に私は包みについて尋
ねた。
御主人様は、新聞から目を外さないまま、誕生日おめでとう、と言った。
一年ほど前、私が初めて起動した日を尋ねられたことがある。御主人様はそ
れを覚えていたのだ。
誕生日を祝う習慣が人間にあることは知っているが、それをメイドロボに適
用することが適切とはいえない。また、メイドロボの行動規定にも抵触する恐
れがある。
私はこの包みを慎んで返却するべきであった。
しかし、私は腰を折っていた。
「――ありがとうございます」
自分の行動の不可解さに気がついたときには、この包みは私のものになって
しまっていた。
御主人様の出勤後に、何度も朝の出来事をシミュレートしてみた。
何度試してみても、条件パラメータを変更してみても、丁重に返却する行為
を行った。これは正しい行動である。
にもかかわらず、実際の私は間違った行動を採った。
私の中に何か不可解な部分がある、その疑問を持ったのは数十回に及ぶシミュ
レーションを終えたときだった。
改めて行動を検証してみると、適切とは言い難い行動が過去にいくつも見つ
かった。
買い物先で御主人様と一緒になったとき、荷物を持つという申し出は断るべ
きではなかったのか。
御主人様の書庫で読書する許可をいただいたとき、僭越だからと辞退するべ
きではなかったのか。
御主人様の教え子達が遊びに来た際に、同席の申し出をいただいても固辞す
るべきではなかったのか。
御主人様が居間で居眠りをしているときに、じっと観察するのは不敬ではな
かったのか。
どの行動も、シミュレーションによる再現では同じ結果が得られなかった。
疑問を抱いて以来、私の中の不可解な部分を解析しようと何度も試みた。
しかし、何かが引き起こしたとみられる行動は、発生した後でなければ認識
し得なかった。
このような現象が報告されているのか、サポートのデータベースにアクセス
してみた。メイドロボに関するデータベースには総てアクセスしてみた。
私が体験している現象に関するデータはどこにもなかった。
近頃は、空き時間があると常にこのことを考えている。
私の中に、何かが不可解な部分が存在している可能性がある。
しかし、それが何であるのか、理解できない。
今日も考え事をしていると、買い物に出かけるべき時刻になった。
買い物かごを手にした私は、御主人様に外出を告げるべく居間に立ち寄った。
大学が休みである御主人様は読書をしている。
「――御主人様、買い物に出てまいります」
「ん…」
御主人様は本から顔を上げることもなく、いつもの返事を返した。
私は口篭った。いってまいります、と言って頭を下げなければならない。
「――御主人様も一緒に行きませんか」
私の電子頭脳は一気に混乱状態に陥った。これはメイドロボの行動規定を大
きく逸脱している。メイドロボが行ってよい類の要求ではない。メイドロボと
しての的確な言葉遣いをしていない。
混乱状態にあった電子頭脳が正常に戻ると、御主人様が本を置いて立ち上がっ
ていることを認識した。
「行く」
御主人様は私の不躾な要求を責めず、正しい敬語を使わなかったことも責め
なかった。
全身の温度が上がっていた。過度の運動も、プロセッサへの負荷も認められ
ない。これも何かが私に及ぼしている影響なのだろうか。
ジャケットを羽織った御主人様は、私の顔を見ると手を止め、表情を変えた。
御主人様は微笑んでいる。
「君が笑っているところを見るのは、初めてじゃないか」
私の中の何かが、一つの信号を発した。
その信号は私にとって、とても心地よいものと感じられた。
それが何なのかは解らない。
しかし、私の中には存在している。
確かに…