繁華街から少しはずれたところに映画館がある。小さくて古ぼけているが、
空いていて居心地がいい。
ある日、僕はここで彼女と出会った。
僕がここに入り浸るようになったのは、去年の秋からだ。
卒業に必要な単位の殆どを取ってしまったため、卒業研究が忙しくなる四年
の後期まで一年近くもの暇を持て余すことになった。進学することに決めてい
るので、就職活動も当分先の話だ。
バイトは相変わらず続けていたが、一日のほとんどをバイト先で過ごす気に
もなれない。
バイトで稼いだ金の一部を有意義に使えるところ、それがここだったのだと
思う。
そんなに熱心な映画好きでもないが、毎週三本づつ観続けても飽きないぐら
いにはぐらいには映画が好きだ。
この映画館はオーナーが趣味でやっているような三番館で、上映内容が毎週
替わる。上映する映画もそれなりに良いものを揃えており、これでよく潰れな
いものだと感心するほどだ。
プログラムは毎週土曜日に切り替わることになっており、僕は土曜日の朝か
ら観るのを習慣にしていた。
三本を立て続けに観た後、もぎりをやっているオーナーと映画の話をするの
はとても楽しかった。
あの日は月曜だった。
野暮用で週末を潰してしまった僕は、月曜の朝一番に映画館に行った。
土曜の朝も客は少ないのだが月曜は輪をかけて少なく、上映五分前だという
のに客は僕一人しかいない。
「貸し切りサービスとは嬉しいね」
自動販売機の不味いコーヒーを片手に、出入口のカウンターで暇そうにして
いるオーナーに話しかけた。
オーナーは眺めていた映画雑誌から顔を上げて答える。
「月曜の朝なんてこんなもんだ」
口髭を震わせながら、苦笑いをした。
「いつも常連が一人いるだけさ。そろそろ現れるんじゃないか」
そう言いながらオーナーは出入口を見た。
僕もつられて視線を向けると、映画のポスターが貼られた扉の向こうに人影
が見える。
僕以外の常連とはどんな人なんだろうと、微かな期待を持って扉を見つめる。
鈍い音をたてながら開く扉の向こうから現れたのが、彼女だった。
恥ずかしながら、僕は見とれていたのだと思う。
年のころは十七、八というところだろう。可愛いというよりも美しいという
表現の似合う端正な容姿をしている。
いらっしゃい、と声をかけるオーナーに軽く会釈をする彼女の姿勢には歪ん
だところがない。自動販売機で入場券を買う仕草も、オーナーに手渡す様子も、
流れるようで淀みがない。
優雅とは、彼女の為にある言葉なんだろう。
僕は、惚けたように立つ僕に会釈をして客席に向かう彼女の後ろ姿を見つめ
続けていた。オーナーから押し殺した笑い声が洩れ聞こえた。
上演開始のブザーで我にかえった僕は、慌てて客席に入った。
いつもなら客席の真ん中から少し後ろの席にすわるのだが、今日は彼女の三
列ほど後ろに座った。彼女は客席の端のほうに座っている。
座席から上半分を覗かせた彼女の頭には、大きくて銀色をした耳がついてい
る。僕がその意味を思い出したのは、一本目が始まって数分経ってからのこと
だった。
気づかなかった僕はどうにかしていたのだろう。
彼女はメイド用に作られたロボット、メイドロボだ。
「メイドロボでも映画を観るんだ」
相変わらず暇な様子のオーナーの横で、僕はため息を吐く。
彼女は三本の映画を観終わると、一休みすることもなく帰っていった。
「観ちゃいかんという法もないからな」
今日は僕が映画の話に付き合える状態ではないからか、オーナーは映画雑誌
を眺めたままだ。
改めて彼女のことを思い返すと、確かにあれはロボットの動きだったのだろ
う。全く迷うことも躊躇うこともない動きは、人間がするには完璧すぎるもの
だった。瞳や髪の色も染めたにしては違和感がなく、逆に不自然だ。
「映画好きのメイドロボか…」
彼女のことを思い出しながら僕がつぶやくと、オーナーが顔を上げた。
「ちょっと面白いだろ」
オーナーが言うには、彼女は小西さんという老婦人の所有するメイドロボな
のだそうだ。小西さんは随分前に旦那さんを亡くし、身寄りもなく一人で暮ら
しているらしい。
この小西さんは無類の映画好きで、毎週月曜日にはここに映画を観に来てい
た。半年ほど前にメイドロボットを購入してからは、一緒に来て一緒に映画を
観ていた。
それが、二ヶ月ほど前に小西さんが身体を壊し入院することになったらしい。
当然、メイドロボである彼女も映画館に姿を見せなくなるはずだったが、一
週おいただけで彼女一人が来るようになったそうだ。
「ま、詳しい話は知らないがな」
映画を数多く観たせいだろうか、オーナーは表情だけで意思を伝えるのが上
手い。今は片眉と唇の端を上げている。ちょっと悪戯好きな親父といったとこ
ろだ。
「知りたければ、あの子に聞いてみることだ」
そう言って話を締めると、また映画雑誌を眺め始めた。
オーナーの思惑通りというのが気に食わなかったが、僕が次に映画館を訪れ
たのは土曜ではなく月曜だった。
にやにや笑いを浮かべているオーナーを無視して、ロビーに置かれたソファ
に腰掛ける。彼女が姿を見せたのは上映開始のちょうど三分前で、僕が少し苛
つき始めた頃だった。
軽い会釈をよこす彼女を追いかけるように、今日も三列後ろに座った。
これまで技術的な興味以上のものを持っていなかったが、ここ一週間はメイ
ドロボに関する情報を集めまくっていた。
彼女は来栖川電工製でセリオという型名のメイドロボらしい。一年ほど前に
発売された高級機で、その高性能さからメイドとしてよりもむしろオフィスで
の使用が主になっているそうだ。
映画関連の番組とニュース以外はテレビを観ない僕だが、改めて意識をして
みるとセリオのコマーシャルは頻繁に流されていた。街中でもよく見かける同
じ来栖川製の可愛らしいメイドロボほどではないが、一週間だけでも数回セリ
オのコマーシャルを目にした。
微風に髪を揺らせながら遠くを見つめる湖畔の少女。そんなイメージの映像
は、僕をひとりテレビの前で赤面させた。
今日は彼女に声を掛けるつもりだった。
しかし、実際には真っ直ぐに出口へと向かう彼女の背中を見送っただけだ。
オーナーは笑い声を抑えようともしない。
「どうした、ナンパは苦手か」
笑い過ぎてあふれた涙を拭いながら、まだ笑っている。僕は憮然としながら
わざと乱暴にソファへ腰を下ろした。
「そんなんじゃないよ、ただ…」
ただ、彼女になんといって呼びかけたらいいのか、迷ったのだ。
散々にからかわれたあと、彼女に関するもう少し詳しい話をオーナーから聞
き出した。
小西さんは購入当初彼女のことを、セリオさん、と呼んでいたらしい。それ
がいつしか、セリちゃん、に変わり、入院する直前には、せっちゃん、になっ
ていたそうだ。
身寄りがないせいだろうか、小西さんは彼女を大変に可愛がっており、娘の
ようだと公言してはばからなかったという。
次の月曜、僕は三本目のスタッフロールが流れている途中でロビーに出た。
スタッフロールを最後まで見ることは製作者に対する礼儀だと思っているの
で心苦しかったが、心の準備には少し時間が必要だった。
僕が深呼吸の回数を二十三回まで数えたところで、彼女が現れた。
「セリオ!」
口に出してから、自分のミスに気づいた。いきなり呼び捨てにしている。
彼女が僕を見る。
「――なんでしょうか」
何の表情も浮かべておらず、咎める様子もない。
初めて聞く彼女の声を、綺麗だな、と思いながら、僕は続けた。
「もしよかったら、少し話をしたいんだけど、いいかな」
二週間前から何十回となく頭の中で繰り返していたおかげか、僕にしてはス
ムーズに話すことができた。
微かに首を傾け一拍おいてから彼女が答える。
「――長時間は遠慮させていただきたいのですが、よろしいでしょうか」
心の中でガッツポーズをとってから、彼女をロビーのソファに招く。
出入口近くのカウンターでは、オーナーが親指を立てた拳を僕の方に突き出
していた。
「コーヒーは…、いらないよね」
自分の間抜けさを痛感しながら、自動販売機のボタンを押す。
いざこの段になって気づいたのだが、僕は彼女に話し掛けることばかり考え
ていて、なにを話そうか考えていなかったのだ。
コーヒーでも奢って間を持たそうかと思って自動販売機の前に立ったはいい
が、メイドロボがコーヒーを飲むはずがない。
結局、自分の分のコーヒーだけを手にして、彼女の目の前に座った。
足をきちんと揃え目を伏せ気味にした彼女は、大きな銀色の耳さえなければ
深窓の令嬢といった雰囲気だ。くるぶしまで隠れる少し古風なスカートや柔ら
かい線で構成されたブラウスも、雰囲気を強調している。
なにを話せばいいんだろう。
手にしたコーヒーが冷め始めてから、やっと僕は話すべきことを思い付いた。
「セリオはさ、映画が好きなんだね」
そう、映画館に一人で通うぐらいだから彼女は映画好きに違いない。きっと
僕はそのことを尋ねたかったんだ。
しかし、返ってきたのは意外な返事だった。
「――いえ、好悪で評価したことはありません」
とっさには彼女の喋った意味が理解できなかった。
「え…、だって、毎週映画を観に来るぐらいだから、映画好きなんだろう」
彼女は小さく首を振る。
「――違います。私が映画を観るのは、奥様に命じられたからです」
大きなため息が漏れる。
カウンターに額をつけて冷たさを味わっていると、頭になにかが当たった。
顔を上げると、丸めた映画雑誌を手にしたオーナーがいた。
「なに沈んでんだ。振られたわけじゃないんだろ」
僕はもう一度顔を伏せてカウンターに額をつけた。
「ん…、そんなんじゃないんだ」
別にナンパとかそんなことを考えていたわけじゃない。そもそも、メイドロ
ボをナンパしたってどうなるわけでもない。
「たださ、メイドロボにも映画好きがいるんだ、って浮かれてたのが馬鹿だっ
たんだと思うとね」
オーナーが動く気配がして、隣の椅子が音を立てた。
「俺も誤解してたからな」
隣の椅子がギシギシと鳴る。椅子の足を半分浮かせてバランスを取りながら
身体を揺らすのは、オーナーの癖だ。
「でも、あの子は嫌いって言ったわけじゃないんだろ」
僕は勢いよく頭を上げた。隣のオーナーはお馴染みの片眉を上げた表情を見
せている。
「せっかく観に来るんだから、好きになって欲しいよな」
オーナーは親指を立てた拳を突き出した。
次の週から上映内容が少し変わった。三本立ては相変わらずだが、その構成
が変わったのだ。
これまでは、数ヶ月前の新作を一本と数年前の旧作を二本という構成だった。
それが、次の週からは三本とも年代を問わない名作ばかりになったのだ。
客の入りや費用のことを考えると心配になったが、オーナーは片目をつぶっ
て笑うだけだった。
僕はというと、月曜の朝一番にセリオと一緒に映画を観て、観終わってから
十五分だけ話をするのが習慣になった。
決して自分から話し掛けることはないし十五分以上は付き合ってくれないの
だが、僕との会話を嫌がっている様子はなかった。もちろん、メイドロボが嫌
がるはずもないのだが、よい方向に受け取っておくことにした。
僕は毎回、彼女にその日の映画の感想を求める。
面白かった、つまらなかった、だけでも構わないのだが、彼女の口から出る
のは構図がどうのとか照明がどうのとか、僕からすればどうでもいいような本
筋から離れた話だった。
小西さんが映画好きだけあって、彼女の映画に関する知識は豊富だった。た
だし、その知識はデータベースを検索している以上のものではない。
彼女にとって映画というのは、ただの映像に過ぎないようだ。
内容は把握しているし、細かいシーンも台詞も覚えている。しかし、そのス
トーリーがなにを意味しているかを理解していない。
愛情も恐怖も勇気も、語意としては把握している。人間の間に愛情が芽生え
ることも知っているし、人間が暗闇や未知のものを恐れることも知っている。
問題は、彼女にはそれが伝わらないことだ。
人間が自分の体験でなくても、愛情があふれる様子や恐ろしいものや冒険心
の達成を観たがるということが、彼女には理解の範囲外なのかもしれない。
元々、彼女はなにかを体験したいとか、新しいものを見たいという欲求を殆
ど持っていないようだ。
仕えるべき小西さんが入院しているために仕事が少ない彼女だが、ここに来
る以外は病室と家の往復ぐらいしかしていないとのことだ。
当初、僕は小西さんが彼女に映画を観させるのは、観てきた映画の話をさせ
るためだと思っていた。
しかし、彼女が映画を見終わった後に病室に行っても、小西さんは映画の話
を聞いたりしないらしい。
ただ世間話や昔話をして過ごすという。
なぜ小西さんは彼女に映画を観させるのだろう。
一緒に映画を観るようになって一ヶ月が過ぎたが、彼女は変わらなかった。
相変わらず記録映像を観たかのような感想しか聞けない。
最近では、僕は彼女と空席を一つ挟んで座るようになった。隣に座っても嫌
がるわけではないだろうが、どうにも彼女には寄せ付けない雰囲気がある。
人間のロボットの間の壁なんだろうか、そんな寂しいことが頭に浮かぶこと
もあった。
今日の一本目は、僕が大好きな作品だった。
町に一件の小さな映画館。その映画館の映写技師と少年との交流を描いた作
品だ。もう数え切れないぐらい観ている。
自分が大好きな作品だけに、あとで彼女から感想を聞きたくないと思った。
多分彼女は、いつものように技術論しかできないだろう。
しかし、僕の心配は杞憂に終わった。
何度観ても目頭が熱くなるラストシーンを数分後に控えたとき、客席の後方
にある扉が開いた。バタバタと大きな音を立てて人が走っている。
マナーの悪い客だと憤りを感じながら見ると、それはオーナーだった。僕と
彼女が座っているところまで走ってくる。
息を切らせたオーナーは数回大きな呼吸をすると、僕ではなく彼女に話し掛
けた。
「今連絡があって、小西さんの病状が急変して危篤状態になったそうだ。すぐ
に病院にいきなさい」
スピーカーからは音が流れているはずだったが、僕の耳にはなにも入らず、
世界から音が消えたかのように感じた。
彼女はうなずくと立ち上がった。スクリーンからの照り返しだけではよく見
えないが、いつものように表情を表さない顔をしているようだ。
「――わかりました」
彼女の声は平坦そのものだ。小西さんの危篤も、彼女にとっては一つの情報
に過ぎないのだろう。
オーナーと僕に頭を下げると、彼女は出口に向かって歩き出した。いつもよ
り少しだけ早足だが、正確無比の歩調だ。
しかし、椅子と椅子に挟まれた狭い通路から出るところで、彼女は椅子に足
を引っかけてよろけた。
そして、体勢を戻すとまた歩き出し、出口から出ていった。
今週も月曜の朝に来てしまったのは、僕がよほど間抜けだからなんだろう。
ソファに深く腰を下ろして惚けていると、オーナーが近づいてきた。
「なにを抜け殻になってるんだ、おい」
抜け殻ほど今の僕を表現するうまい単語はないだろう。まさに僕は抜け殻だっ
た。先週は気力が全く出ず、殆どをアパートで過ごしていた。
「いろんな意味で、気が抜けちゃってさ。結局、セリオは映画を好きにならな
かったし…」
眉をひそめていたオーナーの表情が変わる。
「俺はそうでもないと思うがな」
片眉と唇の端を上げたオーナーは、出入り口の方向に顎をしゃくった。
つられてそちらに視線を移すと、ちょうど彼女が入ってくるところだった。
慌てて立ち上がる僕の前まで歩いてきた彼女は、深々と頭を下げた。
「――ご心配をおかけしました。奥様は無事に危篤状態から脱され、快方に向
かっております」
呆気にとられた僕は、よかったね、とつぶやくことしかできなかった。
彼女の顔は相変わらず無表情だ。
「――意識を戻された奥様は、こうおっしゃいました。『まだ映画を観足りな
いようね、せっちゃん。もっと沢山観て勉強してきなさい』と」
ふたたび、彼女は僕に頭を下げる。
「――また、一緒に映画を観ていただけますか」
僕は人目もはばからず泣いてしまった。
素敵な映画のエンディングを観たような気になってしまい、感情の高ぶりを
止めることができなかったのだ。
オーナーも、もちろん彼女も笑わなかった。
小西さんは医者が驚くぐらい順調に回復しているそうだ。もうしばらくする
と自宅療養に移り、さらに回復すれば映画館にも来れるようになるらしい。
筋金入りの映画好きという小西さんと映画の話をするのは、とても楽しみだ。
そして今日も、僕と彼女は二人並んで映画を観る。