水の匂い。
不思議な感じがした。
あの人の匂い。
優しい感じがする。
温かくて、お日様みたいにぽかぽかしていて、
とっても、いい匂い。
あの人のいない間、ずっと続いていた胸の痛みが
嘘のようにひいていく。
大好きな、大好きな、あのひと。
…でも、会えるのは一年に一度だけ。
つらい…とても辛い。
あなたに、逢いたい…です。
今日だけは。
だから、降らないで…。
今日だけは…。
七月七日――たなばた。
ザ―――ザ―――
あめ。
雨が降っています。
今朝はあんなに晴れていたのに、夕立のように突然降り出した細かい雨。
ザ―――ザ―――
私は河原の大きな木の下で雨宿り。
みんなとはぐれてしまいました。
この分じゃ、せっかくの七夕祭も中止でしょう。
初音、楽しみにしてたのに、可哀相…。
ザ―――ザ―――
私の方も浴衣が濡れてしまって、とってもがっかりです。
……せっかく、あのひとが来てくれたのに……。
……せっかく、あのひとが可愛いって言ってくれたのに……。
……これじゃ、もう可愛くない……。
ザ―――ザ―――
「………耕一さん……」
――くすん――くすん――
その時、どこからか人の泣く声が聞こえてきました。
哀しい、悲しい、どこかで聞いたことのあるような種類の泣き声。
誰?
私じゃありません。
とっても悲しくて、頬の上を雨水がつたわっているけど
私ではありません。
私はキョロキョロと辺りを見回しました。
その度に、ゆれる髪の毛から水滴が零れていきます。
…と、それはすぐ近く、私が雨をしのいでいる木の幹の後ろから
聞こえてくるのでした。
私は恐る恐る、木から顔を出して、後ろを覗き込みました。
「…くすん…くすん…」
そこにいたのは綺麗な女の人でした。
年は千鶴姉さんと同じくらいでしょうか。
長いひらひらした和服のようなものを羽織り、しくしくと服の袖で顔を覆いな
がら泣き伏しています。
「…あの、どうかしましたか?」
ちょっと恐かったけど、私は勇気を振り絞ってその人に声を掛けてみました。
「…くすん…くすん………あえないの…」
「え?」
「あのひとに…あえないの。雨がふっているから、あえないの…」
そう言って、女の人はなおも泣きつづけます。
どうやらこの人は、好きな人と会えなくて泣いているようです。
「去年も、おととしも、ずっとずっと会えなかったの。いつも雨が降ってしまっ
て………もう、何年も会っていない…」
気のせいか、女の人が泣くたびに、雨が強くなっていくように感じられます。
「…でも、また来年になれば逢えるじゃないですか」
私はその人に優しく語りかけました。
「うそよ! どうせまた来年も雨が降るんだわ!
…もういやなの。つらいの、さびしいの……」
女の人はいやいやするように首を横に振ります。
「…でも、また会えますよ。かならず…」
「ウソ! うそうそ、なんであなたにそんなことがわかるのよっ。
あなたに、わたしの苦しみなんか――」
「わかります」
私は女の人の言葉を遮って、きっぱりと言いました。
女の人は泣くのをやめて、呆けたように私の顔を見ました。
「…わかります。好きな人に会えない辛さも、ひとりでいる寂しさも、
遠く離れ離れになってしまって、でも――それでも、好きで好きでたまらない
心の苦しさも……みんな…」
そこで私はにっこりと微笑みました。
初音のようにうまくいったかどうかわからないけど、精一杯。
「でも、だからこそ、またきっと逢えますよ。
その人のことが好きなら、きっとまた……」
「………」
「………」
「……そうね…」
女の人も緩やかに微笑みました。
そして、草むらの中から立ち上がると、涙を拭いて言いました。
「ありがとう」
「頑張って下さい」
それから女の人はふわりと浮きあがると、
まるで霧の中にとけるように消えてしまいました。
・
・
・
・
・
「おーい、楓ちゃ〜ん!」
俺は傘を片手に、ようやく発見した彼女の元へと一目散に駆けていった。
楓ちゃんは河辺の小さな木の下で、何かを見つめるようにボーッと突っ立って
いた。
……たく、それにしてもみんなで七夕祭に来る途中で迷子になるだなんて、
楓ちゃんって意外とぬけてるところがあるんだな。
俺が近づくと、楓ちゃんはパシャパシャと跳ねる足音にでも気づいたのか、
くるりと振り返って「あ、耕一さん…」と安心したようにつぶやいた。
振り向いたその顔が、何だかとても綺麗で、俺はちょっとの間ぽ〜〜と
彼女に見とれてしまった。
「……耕一さん?」
楓ちゃんが小首を傾げた拍子にポタポタと、その黒い髪から雫が流れ落ちた。
ハッと我に返った俺は、その時になってようやく彼女がずぶ濡れであることに
気づいた。
「か、楓ちゃんこそ何やってんだよ! こんな所に立って、こんなに雨に濡れ
ちゃって!」
俺は慌ててポケットからハンカチを取り出すと、彼女の顔を流れるいくつもの
水滴を拭う。楓ちゃんは長い睫毛を伏せ、それに大人しく従っている。
「…………」
楓ちゃんの肌はまるで陶磁器のように白く透き通っていて、雨に濡れているせ
いか、ぴかぴかと光っているようにも見える。
それが着ている藍の浴衣と対照となって、とても綺麗だ。
俺は変な気持ちになりそうなのを抑えながら、彼女の頬、額、あご、首と拭い
ていき、襟の合わせ目から覗く胸元に手を伸ばしたところで慌てて引っ込めた。
「あ…あはははは。ご、ごめん…」
焦りながら謝る俺を、楓ちゃんは澄んだ綺麗な目で見つめた。
いつもなら頬を赤くして俯いてしまうだろうに、今の彼女の姿にはどこか大人
びた印象を与える。
「楓ちゃん、今日は……あっ…」
楓ちゃんは俺にゆっくり近づくと、ごく自然な感じで体をそっと寄せ、
俺に抱きついた。
俺の胸に頭を預けるように傾ける彼女。濡れた髪の間からのぞくうなじの白さ
とそのなめらかなラインに、俺の心臓はドキリとする。
「か、かえでちゃん…」
「……きっと来てくれると思って……待ってました」
「え?」
楓ちゃんはゆっくりと静かに顔を起き上がらせると、じっとあの黒く澄んだ瞳
で俺を見た。
「待ってたって……俺を?」
「…はい」
先ほどの嬉しそうな、安心したような笑顔で応える彼女。
『それでこんなずぶ濡れになっちゃ、しょうがないじゃないか!』と叱ろうと
したが、その笑顔の前に俺は何も言えなくなってしまった。
「…と、とにかくっ。はやく濡れた服を脱いで体を温めないと、風邪ひいちゃ
うぞ」
俺はなんとか代わりの言葉を吐き出したが、それが事体をより一層危うくする
意味を含んでいることに気づき、再び慌てた。
自分の心臓と、濡れた布一枚を通して伝わってくる楓ちゃんの心音とが、とく
んとくん高鳴ってくるのがわかる…。
と、とにかくどうにかこの場を誤魔化して、連れて帰らないと。
梓たちだって、楓ちゃんを探しにここらを歩き回ってんだぞっ!
「そ、そういえばさ。今年も雨だよね。たなばた」
俺はそんなどーみても誤魔化しているとしか思えない話題を切り出した。
「…はい。ここ何年かは、ずっとそうですね」
こくりとうなずく楓ちゃん。
「そうそう。これってさ、年に一回会えるっていっても雨が降ったらお流れで
しょ。辛くないのかね?」
「…つらいと、思います」
「そーだよなぁ。それでさ、もしそんなのが毎年続いたらさ、彦星も織り姫も
待ちくたびれちゃって、お互いのこと諦めたりはしないのかな?」
俺は冗談を踏まえた何気ないつもりで言ったのだが、楓ちゃんはその言葉に
ふるふると首を振った。
濡れたおかっぱ頭から、いくつもの雫が飛んでは消えた。
「…大丈夫ですよ」
「…え?」
楓ちゃんはまっすぐ俺の目を見つめて、はっきりとした声で言った。
「辛くても、苦しくても、何年も逢えない日々が続いても、
信じていれば――きっとまたあえるって信じていれば、
…ずっと待ちつづけていられるんです……」
見つめる彼女の瞳には、なんの迷いも不安も無かった。
「………楓ちゃん……」
「あっ…」
俺は彼女の細い体を折れしまうくらい強く抱き締めた。
「…ごめんな。いつも、いつも、待たせてばっかりで」
「…平気です」
楓ちゃんもぎゅぅ…と俺にしがみついた。
密着した体からジワリと水分が伝わってきたが、そんなことはもはや気になら
なかった。
「またしばらく、寂しい思いをさせちゃうけど、来年の春まで――二人が一緒
に暮らせる日まで、俺を信じて待っててほしい…」
「…はい…」
楓ちゃんの手をキュッと握る。
楓ちゃんも俺の手を握り返す。
二人の手はかたくかたく握り合わされた。
そして、ゆっくりと吸い寄せられる唇と唇――
と。
「…あっ」
楓ちゃんが何かに気づいたように声を上げた。
「…ほたる」
互いの顔の間を淡い小さな光が横切った。
「あ…、本当だ」
気がつくといつのまにか雨は止んでいた。
周りにはたくさんの蛍が、飛び交い、その僅かな命を燃やしている。
「…きれい」
「…そうだね」
「きっと水の匂いに引き寄せられてきたんだな」
「…みずの?」
「そ。ほ、ほ、ほーたるこいっ。こっちのみぃずはあーまいぞってね」
「…くすっ」
彼女は口元に手をあてて、可愛く笑った。
草原の中から空へと舞い上がる無数の灯。
楓ちゃんはそれを見上げて、ひとこと…。
「…お星様みたい…」
「…そうだね…」
俺も同じように空を見上げる。
「……よかったね……」
隣で楓ちゃんがポツリと何かを言った…が、
俺の耳にはそれは聞きとれなかった。
「え? なに? 楓ちゃん…?」
俺が聞き返すと、楓ちゃんは目を細めて微笑み、
「耕一さん」
と、俺の腕に『ぎゅっ』と抱き付いてきた。
「帰りましょうか」
「え…いいの?」
「はい。…邪魔しちゃ悪いですから」
「は?」
よく解らなかったが、いつもとは違う大胆な彼女の態度と、濡れたままにして
おくわけにはいかないという思いから、俺はおとなしく楓ちゃんに従った。
「楓ちゃん、なんか今日は明るいね」
「…はい。だって今日は――」
「ん?」
「たなばた…ですから」
一年に一度だけ、離れ離れの恋人たちが会うことのできる日――
蛍の彩る夜の空。
千切れた雲の隙間から、夏の第三角形が優しく二人を見つめている。
恋人たちの夜が、始まろうとしていた…。
―Fin―