指先の魔法

- 川名みさき -

 教室の机で、みさき先輩と向かい合っていた。
 柔らかな感触が、頬の上をすべっていく。
 先輩の指が、オレの存在を確かめるように、ゆっくりと動いていく。
 それは、少し遠慮するかのように、横顎のあたりで止まった。
「なんか、緊張するよ〜」
 手はそのままに、困ったような声がした。
「いや、あまり気にしなくていいぞ」
「そうはいかないよ、やっぱり」
 いつもよりも、少し遠慮がちな声。
「オレが言い出したことだからな」
 目の見えない先輩に、オレのことを少しでも多く知ってもらいたかった。
 顔に触れて欲しいと言い出したのは、オレだ。
「うん…ありがとう、浩平君」
 少しためらってから、確かめるようにゆっくりと指先が動いた。
 触れている箇所をずらしながら、力を込めてくる。
 ふにふにと、肌の上を先輩の指が動いていった。
 遠慮しているのか、慣れていないのか、おそるおそる触っている感じが伝わってきていた。
「マッサージしてるみたいで変な気分だよ…」
「気にするなって」
「…やっぱり少しだけ気になるよ〜」
「先輩に触られてても、全然嫌じゃないから」
 むしろ、先輩が妙に可愛くて、微笑ましく思えていたくらいだった。
「これまでに、こういうことしたことないのか?」
「…うん、ほとんどないよ」
「そうか。先輩だったら挨拶の代わりに触ったりしても自然だと思うけどな」
「知らない人にやってたら、変な人だよ〜」
「いや、コミュニケーションの一環としてだな…」
「それでもやっぱり変な人だよ〜」
「そうかもしれないな」
 情景を想像してみると、確かに普通ではない気がした。
「浩平君、もしかして私のことからかってる?」
「…いや、そんなことはないぞ」
「なんか妙な間があったよ…」
 いまひとつ納得していない顔だった。
「それで、どんな感じだった?」
「あまり、人の顔に触ってみたことないからよく分からないけど…」
 どうやら一般的な行為ではないらしかった。
「想像していたよりも、ちょっと…」
 ちょっと?
「…これは言わないでおくよ」
「ぐあっ…」
「冗談だよ」
 間髪を入れずにフォローが入る。
 楽しそうに、先輩が笑った。
「思っていた通りだったよ」
 どう思っていたのかには、先輩はあえて触れようとしなかった。
「どんな?」
「…それは言わないでおくよ」
「ものすごく気になるぞ」
「悪くは思ってないから、大丈夫だよ」
「そっか…ありがとう、先輩」
 指先に、上から手を重ねた。
 先輩の温もりが、確かに伝わってくるのが分かる。
「…どうしたの、浩平君?」
 怪訝そうに、先輩が訊ねる。
「いや、こうやって触れることでしか確かめることが出来ないのは、どんな感じなんだろうって思って」
 目をつぶってみる。
 闇の中で、まるでそこだけが現実であるかのように、暖かく思えた。
「…先輩がそばにいることしか分からないな」
 不意に、奇妙な恐怖が呼び起こされた。
 ゆっくりと、目を開ける。
 触れたままの指先だけでは、不安だった。
 …先輩は、優しい瞳でそこにいた。
「……」
 視覚のない世界。
 先輩にとっては日常の世界。
 それが、奇妙な現実感を伴ってオレの中に収まった。
「なぁ…先輩、こうやってずっと触れていたいって思わないのか」
「…ずっと触っていたら、浩平君が迷惑だと思うよ」
「いや、そういう意味じゃなくて…。そこに誰かがいるっていうの、声以外に確認できないわけだし」
 一瞬だけ、先輩が困ったような顔になった。
「だから、何か他にあればって思っただけだけど」
「…でも、声だけ聞こえれば十分だよ」
 いつもと変わらない口調で、先輩が微笑む。
「その人が、きちんと言葉を返してくれる人であればね」
 落ち着いた声で、先輩は続けた。
「相手のこと、触れたり、音で分かったりすることもあるけど、やっぱり声を聞くのが一番だと思うよ」
 でも、と先輩が言葉を句切った。
「…嬉しいよ。浩平君がそうやって言ってくれるのは」
 見えない瞳を、オレに向けて。
 先輩が、とっておきの笑顔を見せた。
「ごめんな、変なこと言い出して」
「突然だったから、ちょっと驚いたよ」
 気のせいか、あまり驚いていたようには見えなかった。
「今日はありがとう、浩平君」
「先輩…」
「浩平君のこと、前よりもずっと分かった気がするよ」
 心からの言葉なのは確かだった。
 照れくさくて、でも妙に嬉しく思える。
「…そろそろ、帰らないといけないんだよ」
 先輩が、立ち上がる。
 離れていこうとした指を、オレは咄嗟につかんでいた。
「あ…」
「あっ…」
 お互いに、驚いて指を離す。
「…えっと」
 先輩の指が、宙を泳いだ。
 …そして、オレの手を取る。
「どうしたの? 浩平君」
「…いや、何でもない」
 先輩と指先を重ね合わせながら。
 オレは、そのまま動かなかった。
 帰るはずの先輩も、それにつきあうように動かずにいた。
「……」
 言葉ではなく、触れた指先から伝わることがあった。
 二人ですごす時間が、奇妙に落ち着いて流れていく。
「そういえば、帰らないといけない用事があったんだよ…」
 しばらくして、思い出したように、先輩が呟く。
「そうだったな…」
 先輩が、今度はゆっくりと立ち上がった。
「帰ろ、浩平君」
 オレに向かって、先輩が手を差し出す。
 いたずらをする子供のように、先輩は楽しげに笑っていた。
〈終〉