日常の予感

- 七瀬留美 -

 とんとんとん。
「…んあ?」
 肩を叩かれる感触で、オレは眠りの中から引きずり出された。
 顔を上げると、そこには七瀬がいた。
 前の席に座っているんだから当たり前か。
「前見て、前」
 七瀬がしきりに、黒板のほうを指先で指し示している。
「…前?」
 寝ぼけた目をこすりながら前を見ると、黒板に何人かの名前が羅列してある中に、
『七瀬留美 折原浩平』
と書かれていた。
「見たぞ」
 そう言い残して、机に突っ伏す。
 一瞬で、再び眠りの中に引きずり込まれた。
「ちょっとっ」
 七瀬の声が、頭の上から響く。
「うぅ、頼むから眠らせてくれ…」
「お願いだから見てよ…」
「見たって」
「見てないじゃないっ」
 かなり不毛な言い合いになっている気がするんだが…。
「そこまで言うのなら、分かった。起きる…」
「もともと、寝るための時間じゃないんだから…」
「で、これっていったい何する役なんだ?」
 ふああ、とあくびをしながら、目の前にいる七瀬に尋ねる。
 なにしろオレと同じ仕事をすることになっているわけだし、寝ていたオレよりは仕事の内容について知っているだろう。
「…さあ」
 七瀬は困った顔をして一言、そう答えた。
「…おいおい、なんだそりゃ。寝ていたオレはともかく、ちゃんと起きてた七瀬にも分からないっていうのはどういうことだ?」
「だって、本当に分からないのよ」
 七瀬が困惑の表情を浮かべた。
「折原、ホームルーム中ずっと寝てたの?」
「ああ、寝てた」
「学園祭でうちのクラスが何をするかっていう話は?」
「聞いていない」
 はぁ、と七瀬があきれ顔でため息をついた。
 黙ったまま、黒板を指さす。
 どういう経緯で決まったのかは分からないが、劇をやることになったらしい。ずらずらと、役名や裏方の係が記名されている。
「で、何でそれで分からないんだ?」
「問題はそこなんだけど…あれで、分かる?」
 七瀬が、黒板を指さした。
『けーじ役 七瀬留美 折原浩平』
 …なんで平仮名なんだ?
『総責任者なの →』
 スケッチブックを持った澪が立っていた。
 描かれている矢印は、当然のごとく自分を指している。
 …あいつか。
「漢字で書いておけっ」
『それじゃ面白くならないの』
「平仮名で書いても、別に面白くはないぞ」
『そんなことないの。いろいろな意味があるの』
 だいたい、なんで澪がここにいるんだ。
「具体的には何すればいいんだ?」
『それは、なった人が考えるの。頑張るの』
 頑張れっていわれても、なぁ。
『ちょっと忙しいからもう行くの』
 ぱたんとスケッチブックを閉じて、澪は教室を出ていこうとする。
「ま、待てって」
『待たないの』
 後ろ向きにスケッチブックを見せて、そのまま去っていく。
 …先読み?
「とりあえず、美術室に行くんだって」
 七瀬が、手元にある紙を見せてくれる。
 妙な感触の紙に、変な色のペンで指示が書いてある。
「…燃えてなくなったりしないだろうな」
「『読み終わったら水につけて欲しいの』、って書いてあるわよ」
 …まぁ、好きにしてくれ。



「けーじ、ねぇ」
 かぶいたり犯人を追っかけたりはさすがにしないと思っていたが。
「掲示かよ。しかも看板づくりだし、役じゃないし」
 美術室には、すでに材料がそろえられていた。
 なぜか下書きと色指定までしてある布と、適当に使えそうな細めの角材が置いてある。
 ぶつぶつ文句を言いながら、作業の手を進めた。
 一番作業をまじめにやりそうにないやつと、その監視役、という組み合わせだったらしい。
「七瀬、哀れだよな……」
「…そういうのは、聞こえないところで言ってよね」
 右のほうから、すかさず本人が反応してきた。
 いまのところは不平をもらすこともなく、七瀬はまじめに作業をこなしていた。
 さすがに、あまりまじめにやっていないオレよりも、はかどっているようだ。
「まじめにやらないと思われて、おまけにオレまで監視役につけさせられて…そこまで、信用がなかったなんて…」
「逆よっ、逆っ!」
 コンマ三秒くらいで、七瀬の訂正が入る。
「あ、そうなのか」
「…なのか、じゃないわよ。そうなの。日頃の行い考えれば分かるでしょ」
 よく分からなかったが、そのあたりは黙っておくことにした。
 黙って、手を動かす。
 角材を合わせて、金槌で釘を打ち付けていく。
 こんこん、こんこん、こんこん…。
 こんこん、どかっ。
「あ…」
 目測を誤って、勢いよく角材が床の上を滑った。
 ごんごんごん、ごんっ。
 まるでマンガのように連鎖反応を起こした角材が、立てかけてあった看板に当たって、七瀬のすぐそばに倒れる。
 訪れる、一瞬の静寂。
「死ぬわ、アホっっ」
「おー、いつもの七瀬に戻った」
 目の前にやってきて怒鳴る七瀬を、不意に抱きしめた。
 子供を褒めるときのように、頭に手を置いてゆっくりと撫でる。
 複雑な表情で、七瀬はされるままになってた。
「無理して乙女らしくしてるより、元気なままの七瀬のほうがオレは好きだけどな」
「折原…」
 七瀬が、かすかに頬を染めた。
 髪を撫でる手を動かすと、気持ち良さそうに、うるんだ瞳でオレを見る。
 そのまま、七瀬が、ゆっくりとまぶたを閉じた。
 頭の後ろに回した手にかすかに力を込めて、少しだけ七瀬を手前に引き寄せる。
 二人の距離が縮まっていった。
 七瀬の唇に、まさに触れようとしたその瞬間──
 ガララッ!
 けたたましい音をたてて、教室の戸が開かれた。
「…浩平ー、澪ちゃんが呼んでるよ…って、どうしたの?」
 額を抱えてうずくまったオレたちを見て、長森が心配そうに声をかける。
 音に驚いて、二人して相手の額に頭突きを入れるような形になってしまっていた。
 あまりの痛みに、声も出ない。
「な、なんでもない。ちょっと出し物の練習を七瀬とな」
「出し物…って、別に浩平たちが練習することってないよ」
「…あれ、そうだったっけ」
「大丈夫? なんか七瀬さん涙浮かべてるよ」
 言葉通り、頭を抱えている七瀬を見て、長森が心配そうに声をかける。
「大したことないから…」
 くすんと、鼻をすすりながら七瀬が声を返す。
 大したことがないわけはないと思うのだが、七瀬はそう言い切った。
 これも、乙女の誇りの一つというところなんだろうか。
 オレには不可解だが。
「長森、すぐ行くから、そう伝えておいてくれ」
「すぐって…どれくらい?」
「そうだな、七瀬が回復したらな」
「じゃ、本っ当にすぐだからね」
 そう言い残して、長森は戸を閉めて去っていった。
 ふたたび、美術室の中はオレたち二人だけになった。
 しんとした空気が、独特の空気を作り出す。
「…七瀬、どうする?」
「…え?」
 なにが、といった顔で、七瀬がオレのほうを見る。
「いや、さっきの続き」
 痛みが引かないのか、額をさすり続けている七瀬の手が止まる。
 ちょっと間があったあと、
「…やめとく」
と、小さな声で応えがあった。
「ま、そうだな。またにするか」
 言いながら、オレは七瀬の肩を抱き、引き寄せた。
 そのまま、えっという顔をしている七瀬の唇に、素早く唇を合わせる。
 不意打ちのキス。
 七瀬が可愛いのはこういうときだ。
 案の定、拒否するそぶりはなかった。そのまま身を預けるようにして、身じろぎもしなかった。
「ん…」
 鼻にかかった甘い声が、合わさった唇のすき間から漏れる。
 柔らかな唇を、軽くつつき合うように何度となく触れ合わせる。
 恥ずかしそうに、遠慮しながら七瀬もそれに応えてくれる。
 結果的には、長いキスになった。
 唇を放した瞬間に、二人して大きく息をする。
 すぐ目の前にある七瀬の顔を見つめながら、オレはそれが妙におかしくて笑い出した。
 七瀬も、それにつられるように笑い出す。
「…騙すなんて、ひどい」
 怒ったそぶりを、七瀬が見せる。
「悪い悪い、あんまり可愛かったんで、つい…な」
 オレの言葉で、七瀬が顔を真っ赤に染める。
「ね…もう一回、いいかな?」
「…へ? もう一回って…何が」
 オレが言い終わらないうちに、七瀬が抱きついていた。
 首を抱きかかえられたまま、否も応もなく、触れ合う唇。
 そっと舌が差し入れられてくる。
 長い時間がたった後、唇が、ゆっくりと離れた。
「折原との、キス…」
 唇に指先を当てて、後ろへ一歩あとずさる。
「奪われてばっかりじゃ、ずるいと思うから」
「ずるいとかそういう問題でもないと思うぞ」
「あたし…決めたんだ。後悔したくないから、甘えたいときには素直に甘えようって」
 ちょっと照れながら、七瀬が笑う。
 その表情が妙に可愛くて、どきりとした。
「あの、さ…七瀬」
「え…なに?」
 乙女の瞳が、オレを見る。
「続き…してもいいか?」
「…えっ?」
 一瞬思考が止まったように、七瀬が固まった。
「だから、キスじゃなくて、その続き…」
「で、でもいま澪ちゃんが呼んでたって、瑞佳が…」
「いいって、別に」
「よくないでしょっ」
 文句を言う七瀬を、抱きしめた。
 腕に力を込めると、七瀬もあきらめたのか、身体から力を抜く。
 首筋に、唇を寄せる。
 ぴくんと、七瀬がそれに反応した。
 気にせずに、舌先で肌に触れる。
 妙に、熱い。
 きゅっと、もう一度力を込めて、七瀬の身体を抱いた。
「あ…」
 熱い吐息が、七瀬の口から漏れる。
 胸に触れようとして、身体の位置を入れ替えた瞬間――。
 オレたちを見つめている視線と、目があった。
『現場を押さえたの』
 澪が、顔を真っ赤に染めながらオレたちを見ていた。
 その後ろから、長森が顔を出す。
「浩平…時と場所は選んだ方がいいと思うよ」
「分かった…」
 七瀬の腰に回していた、手を離した。
「続きはあとで、な」
 身体を離すときに、小声で呟く。
 少し、恥ずかしそうに顔を赤らめたまま。
「うん…」
 七瀬は、小さく頷いた。



 普通の恋人たちとして。
 普通に日々を重ねて。
 乙女の小さなこだわりに、無理もせずあわせていける。
 七瀬がいることで、少しずつ、オレは幸せになる。
 お互いに、お互いを想うことで。
 たがいに、優しくなっていける気がする。
 手を、触れあって。
 身体を、あわせて。
 妙な出会いをした、いまは彼女になった七瀬と。
 そして、みんなと。
 つながりは、切れることはない。
 もう、おそらくは、ずっと――。
〈終〉