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しおん




「…で、まだ好きだって言ってないの?」
 向かいに座っている少女が、呆れて声を出した。
「だって…」
 しおんは、言いよどむ。
 その場面を考えただけで、顔が赤くなってくるほどなのだ。
 実際にその場になると、声も出せないほどに上がってしまい、気持ちを伝えるどころで
はなくなってしまうのだ。
「うぅ、やっぱりダメ…だと思う」
「ま、別にしおんの好きにすればいいと思うけどね」
 外見的には幼い感じが残るものの、少女のしぐさや言動は大人の女のようでもあった。
「別に、好きで言わないんじゃないんだけど…」
「ぐずぐずしてて他の子に取られちゃっても知らないよ。オーナー、人気あるんでしょ?」
 話し相手の、ぴしりと、要点を抑える言葉。
 そうなのだ。
 オーナーが素敵に見えるのは、どうやらしおんのひいき目ではないらしい。
 店にくる女の子たちが、あこがれの目でオーナーを見つめるのを見たこともある。
 でも。
 仕事中は平気なのに、いざその手のことを話し出そうとすると身体が震えて、うまく話
すことができないのだった。
 オーナーに、気付いてもらえないまま。
 そんなことが、何回繰り返されたことだろう。
「向こうも向こうで、ちょっとくらい気付いてくれても良さそうなのに」
「でも…私がはっきり意思表示できないから…」
「それにしたって、ねー」
 ずずずと、空になりかけているアイスティをすする音がむなしく響く。
「じゃあ、こうしましょう。次までに、しおんはきちんとオーナーに気持ちを伝えておく
こと。約束ね」
「次って…」
「次に私と会うまでよ。早ければ、三日後ね」
「えっ…ええぇっ!?」
「なに驚くのよ。それくらいの気持ちでいないと、何もしないでしょ」
「で、でもでもでも…」
「でも、じゃないの。やるの? やらないの?」
「あうぅ…」
 眉を寄せて、しばらく悩んだ後、しおんは顔を上げた。
「…やります」



 とはいえ、それまで無理だったものが急にできるわけもなく、次の日の朝も、その次に
話しかけられたときも、なんとなく切り出せないまま時は過ぎていった。
「うぅ…やっぱり意気地なしなのかなぁ、私」
 店からの帰り道。
 小声でつぶやいてみると、あらためて自分が情けなく思えてしまうしおんだった。
「もっとはっきりと態度に出せればいいんだけどなぁ」
 叶わぬ望みとは思いつつ、自分を変えることが出来ないかと思ってもみる。
「…決めたっ。今度オーナーに会った時には、絶対ぜーったい積極的になってみせるっ」
 心の中で、そう決意を固める。
「あれ? しおん…くん?」
 背後から声が聞こえた瞬間、しおんの心臓が跳ね上がった。
 聞き覚えのある、低めの優しい声。
「…オーナー?」
 どきどきした心臓を押さえつつ、しおんは振り返った。
 先ほどの決意を、声に出していなかったことを神に感謝しつつ。
 …そのあたりがダメなんだという気もしないでもなかったが。
「お疲れさま。だいぶあとに出たと思ったんだけど、追い付いちゃったね」
「私、ちょっとぼーっと歩いてましたから」
 恥ずかしさに耳まで赤く染めながら、しおんが小声で返す。
 普通に喋っている分には、問題ないんだけどな…。
「…オーナーのことも、全然気付きませんでしたし」
「あはは、悪かったかな。驚かすような真似して」
 しばらく、並んで歩いた。
 道が分かれている。
 立ち止まったしおんが、少し迷ったあと、真っ直ぐにオーナーを見つめた。
「あの…、明日の試合が終わったら、聞いてもらいたいことがあるんですけど…」
「いいけど。…いまじゃ、ダメってこと?」
「ごめんなさい」
「いいよいいよ。それじゃ、試合の後にね」
 しおんの様子に、なにかを感じているのかいないのか…。
 何も聞かないでいてくれるオーナーに、しおんは深く頭を下げた。
「それじゃ…、失礼します」
「うん、気をつけてね」
 もう一度軽く頭を下げて、しおんは顔を隠すようにしながら、オーナーから離れた。
 振り返らずに、家への道をたどる。
 …その顔は、真っ赤に染まっていた。



 対戦相手は、総合格闘技をあやつる年上の少女だった。
 入賞経験もあり、何度か、試合場で見かけたことがある。
 しおんよりも頭半分ほど背が高く、その分手足も長い。
 そして、それを生かす闘い方も知っている。
 嫌な相手だった。
 試合が始まるまでの時間にいろいろ考えてはみたものの、有効な対策は思いつかなかっ
た。
「…ふうっ」
 深く息を吸い込んで、雑念を払う。
 闘い方を考えるのは、試合場に上がるまでだ。
 …上がったら、あとは闘うだけ。
「それでは、はじめっ」
 レフェリーの言葉が、怒号と歓声で騒然とした中にはっきりと響き渡った。
 儀礼的に軽く頭をさげて、グローブをつけた拳を軽く合わせる。
 一瞬の後に、相手の身体が視界からかき消えた。
 無意識のうちに、体をさばく。
 それまでしおんの頭があった空間を、対戦相手の蹴り足が通り過ぎていた。
 訓練の成果なのだろう。頭で考えるよりも、身体が先に動いていた。
 目で見、五感で感じた瞬間に、反射的にそれに対応する動きを取るようになっている。
 しばらくの間、お互いに一進一退の攻防が続いた。
 観客からは、おそらく互角に見えただろう。
 だが、しおんには違いが分かっていた。
 相手の動きが、ほんのわずかに速い。
 そして、攻め込むためのスキがなかった。
 攻撃を仕掛けてくるときも、姿勢が崩れず、引き手も速い。
 手足が長い分、相手の間合いのほうが広いことも不利だった。
 無理な攻めは控え、カウンターねらいに終始しつつ、ガードを固めて、動きを待つ。
 フェイントをまじえつつ、足を使って相手の隙を引き出していく。
 その、何度目かの動きのあと。
 間合いを取るためにステップで身を引いた瞬間、相手のつま先が弧をえがいて動いた。
 しおんの目にすらかすむほどに速く、打点が高い。
「ぐっ」
 側頭部への打撃がくる。
 かろうじて腕でガードしたものの、衝撃がしおんの頭を揺らした。
 瞬間、世界のすべてがぼやけた。
 フィルターをかけたスローモーションの世界が、音もなく動き出していた。
 そのぼんやりとした視界のなかで、動くものがある。
 腕を伸ばし、掴んだ。
「はっ…」
 無意識のうちに…。
 掴んだものを巻き込むようにして、身体をひねった。
「…ぐっ」
 くぐもった声と、床にものが叩き付けられる大きな音とともに。
 しおんも含めて、試合場の全ての動きが止まった。
 わあっ。
 一瞬おくれて、歓声が辺りに響き渡る。
 状態を確認するために近づいたレフェリーが、大きく手を交差しながら立ち上がった。
「勝者、しおんっ」



 その、勝利を告げる声も、しおんの意識には届いていなかった。
 まだダメージの残っている頭を振って、立ち上がる。
 終わった…?
 いや、まだ…。
 思考が、うまくまとまらない。
 駆け寄ってくる、オーナーの姿が見えた。
 肩に、手が触れた。
 嬉しさのためか、思わず、涙が出そうになる。
 そうだ…。
 こんなにも、オーナーのことが好きなんだった。
 馬鹿だな、私…なに悩んでいたんだろう。
 そう考えた瞬間、しおんの頭の中に残っていたのは、オーナーに対する憧憬と、慈しみ
の想いだけだった。
「わっ、私っ、オーナーのこと、好き…ですっ」
 しおんの声は、マイクと拡声器を通じて、会場中に響いた。
 一瞬、会場の中がしんとした静けさに包み込まれる。
 控え室にも、中継の画面は映し出されていた。
「あーあ、言っちゃった」
 柔軟で身体をほぐしながら、少女は小声で呟く。
「しおんてば、放送が全国ネットだって分かってやってるんでしょうね…」
 画面が切り替わった。
 困ったような顔のしおんと…そして、その肩に手を回して優しく微笑むオーナーの姿。
 音声はうまく聞き取れなかったが、突き出されるマイクから察するに、質問攻めにあっ
ているんだろう。
「…いま、気付いたわね」
 画面で見てもはっきり分かるほどに、しおんの顔が赤く染まっていった。
「あ、倒れた」
 慌ててしおんを抱きかかえるオーナーと、それを追いかけるカメラ。
 そして、混乱に揺れる画面。
「先が思いやられるけど…。とりあえず、おめでとう」
 いまは映し出されていない二人に、祝福を送って。
 次の参加者を呼びに来た係員に、手を上げて応える。
「さてと…それじゃ、私も頑張らなきゃ」
 しおんと当たるためには、まず一つ勝たなくてはならない。
 とんとんと、履いている靴のつま先で床を叩く。
 試合前のコンセントレーションを高める、ちょっとした儀式。
『お待たせしました。次の試合は…』
 場内に流れるアナウンスが、遠くで響いている。
 そして、試合場への扉が、ゆっくりと開いた…。