夜のお供に

- 仁村真雪 -

 こんこん。
 こんこん。
 はっきりしたノックの音が響く。
 夜は、まだ明けようともしていなかった。
 いつも起きる時間よりも、まだかなり早い。
「……誰ですか?」
 扉に近づいて声をかけると、
「こうすけ〜」
 力が抜けそうな声で呼ばれた。
 廊下に出てみると、眠いんだか疲れているんだか、やけに目つきの悪くなった真雪さんが、壁により掛かるようにして立っている。
「ど、どうしたんですか?」
 心なしか、というか確実にやつれているように見えて、思わず声が高くなった。
「気がついたら、こんな時間」
 きゅううぅ〜、っと真雪さんのお腹から派手な音がする。
「徹夜ですか? ちゃんと栄養はとっておかないと、体に悪いですよ。……なにか、軽く作ります」
「悪いね。こう、なんつーか、食べるとぐっと力が沸いてくるようなもんをお願い」
「……まさか、作品の成否は食卓に出るものによって決まる、なんて言い出さないでしょうね」
「関係なくはない、だろ?」
 ふふんと、意味ありげな流し目。
「頼むよ耕介ー、いま煮詰まってて、もうそれくらいしか抜け道がさー」
「大丈夫ですよ真雪さんなら。これまでだって何度も、修羅場くぐって頑張ってきたじゃないですか。それに……」
 前に、真雪さんから聞いたセリフを思い返す。
「悩めば悩んだだけ、物語は深くなる。って、この間いってたでしょ」
「正確には、そうなる“ことも”ある、って言った」
 発言が後ろ向きだなぁ。
 この人にしては、珍しく弱気だな、
「しっかりしてくださいよ。読者の子たち、楽しみに待っていると思いますから」
「……励ますふりしてプレッシャーかけてるのはこの口か」
 正面から、むにゅーっとほおを引っ張られる。
 さすがに余裕がないのか、あまり容赦がない。
「ひたいんでふが」
「余計なことを言うやつが悪い」
「期待されてるのは確かでしょうし、真雪さんなら応えられると思ってますから」
「……ずるいぞ、耕介」
 ちょっと拗ねた目で、真雪さんがこちらを見る。
「大丈夫、できますって。……それに、協力、させてもらいますし」
 真雪さんの好物をいくつか思い浮かべつつ、キッチンのほうを指さした。
 たちまち、真雪さんが嬉しそうな顔になる。
「どうします? ここで待ってますか?」
「……部屋の中で、休んでていいかな」
 肩ごしに部屋をのぞき込むようにして、もたれかかってくる。
 寝てないからか煮詰まってるゆえの疲労なのか、かなりつらそうなのは確かだ。
「いいですよ。それじゃ、できたら持ってきますから、よかったら仮眠でもしてて下さい」
 よっこらしょ、と真雪さんの腰に腕を回して、抱き上げた。
「ちょっ、こら待て、耕介」
「待ちません」
 すたすたと歩いて、自分のベッドの上に真雪さんを静かに降ろす。
「じゃ、できるだけ早く作ってきますから、待ってて下さい。寝ていてもらってもいいですけど、起こしたら起きてくださいね」
「……ん。努力する」
 もし起きてくれなかったら、一人で全部食べよう。
 などと、やや悲壮な決意をしつつ、キッチンへと向かうことにした。
 部屋を出るときにちらりと見ると、真雪さんはすでに寝息を立てていた――。



「いやー、酒が飲みたくなる構成だったな、あれは」
 結構な量をたいらげて、真雪さんは満足げな声を出した。
 仕事中ということで、酒が飲めないことに関しては心底悔しがっているようだった。
「真雪さんが好きなものが、そのあたりに集まっているのでは……」
「う、否定できない……」
「酒飲みですね」
「それに関しては、否定する気もない」
 うーん、と真雪さんが伸びをした。
「サンキュ、かなり……楽になった。やっぱり煮詰まっちゃってると、どうもいい考えとか出てこなくってさ。あげく、つまんない話になったりするから」
 まいるんだよ、と肩をすくめてみせる。
「さーて、おいしいものも食べたし、その分くらいは働かないと」
「俺は何もできませんけど、頑張って下さい」
「……もう、十分してもらってるよ。あんがと、耕介」
 真雪さんは、顔を近づけてきて。
 一瞬、頬に暖かいものが触れる。
「今日はだめだけど、時間ができたらたっぷりサービスするからさ」
 ささやくような言葉が、脳を溶かしそうなほど優しく聞こえた。
「……期待しちゃいますよ?」
「いいよ、その期待は裏切らないから」
 さてと、と真雪さんが立ち上がる。
「いくつかいい案も浮かんだし、戻るよ。起こしてごめんな、耕介」
「読者の一人としても、期待していますから」
「そっちの期待も、裏切らずにすむと思うよ」
 部屋を出ていく真雪さんの顔は、いつも通りに戻っていた。




 結局、どちらの期待も裏切られず……。
 想像以上だったサービスに真雪さんの意外な一面を見れたり、いつにも増して評判のいい短編を一つ、読むことができたりした。
「いやー、あんときゃホント助かったよ。感謝してる」
 二人、並んで横になったまま、肌を寄せ合っていた。
 ゆっくりと、真雪さんはタバコの煙を吐き出す。
「なあ、耕介?」
 いつになく真剣な、真雪さんの声。
「ここの連中は、みんな気のいいヤツばっかりだよ。ま、たまには小うるさいヤツもいるけどな」
 そういう真雪さんの声は、とても楽しげで。
 たぶん薫のことを指すのだろう、その一瞬、からかうような、愛しむような、複雑な表情が浮かぶ。
「居心地がよくて、ずっとこのままでいられたらって思うだろ?」
「そうですね、楽しい時間は……ずっと、続いたらいいなって」
「ずっといろよ、耕介。ここで、あたしたちと一緒に、さ」
 優しい瞳で、俺のほうを見てくれていた。
「えーと、とりあえずそのつもりですけど?」
 真雪さんの意図するところが、よくつかめない。
 少し、間抜けな返事だったのかもしれない。
「……あー、なんていうかその、そういうことじゃなくてだな」
 困ったように照れたように、真雪さんが視線を宙にさまよわせる。
 しばしの沈黙。
「ああもう、なんかうまく言えないから、いい」
「なんかよく分からないですけど」
「朴念仁」
「なんでですか」
 なんか、管理人関係のことでもあるんだろうか。
「もしかして、なんか愛さんのほうから聞いてたりします?」
「なにを?」
「例えば、新しい管理人を入れる、とか」
「あー、それはないだろ。……何で、そんなこと思うんだ?」
「いまは薫とかみなみちゃんとかうまくやっていけてますけど、これから続けていくとして、やっぱり男が女子寮にいるのって嫌がる子とか出てくるんじゃないかなって」
「心配しなくても。耕介、オトコとして見られにくいタイプだから」
「……なんか、そうやって面と向かっていわれると、ちょっと」
「なに? やっぱりそう見られたいっての?」
「いや、そうじゃないですけど。どういう位置づけでいるのか、って思ったりはするかも」
「……うまいメシ作ってくれる、面倒なことやってくれる、酒につきあってくれる。あ、これはあたしか」
 ……真雪さんにとっての俺の存在って……いったい。
「さざなみ寮の連中から見たら……、頼りがいのある兄貴ってところかな。ま、あたしは頼りがいのないヤクザな姉って感じだから、ちょうどバランスとれてるんじゃないか?」
 くすくすと、真雪さんは笑い声をたてる。
「一番いいのは、あたしと耕介の仲をばらしちゃうことだろ。耕介が浮気したりしなければ、っていう前提つきだけど」
「しませんよ……」
 する気もないけど、したらどういう目に遭うのか、あまり考えたくもない。
「まあ、隠してるのも性に合わないし、機会があったときにでもそれとなく匂わしておくさ」
「俺もまあ、隠しておくつもりはないですし」
 身を寄せて、真雪さんの肌に触れる。
 唇を触れ合わせると、タバコの匂いがした。




 それから数日間は、特に何事もなく。
 そのこと自体を、真雪さんが忘れているのではないかと思うほどに。
 平和だった。
 夕食が終わった後、真雪さんが突然話を切り出す前までは。
「耕介のことで、ちょっと話があるんだけど」
 真雪さんは――いつになく真剣で。
 みんながそれを聞いて、真雪さんと俺とに、交互に視線を走らせる。
 俺も洗い物の手を止めて、真雪さんの次の言葉を待つ。
「その、だな。……あれはあたしんだから。手ぇ、出すなよ」
 聞いてるこっちが盛大にコケた。
 そのまんまじゃないですか、真雪さん。
「い、いつのまにー」
 ええーっ、と驚きの声を上げていたみなみちゃんが、聞き返す。
「二ヶ月くらい前、かな」
「なんだか、話がよく分からないのだ」
「はわわー、そ、そうだったんですか」
 よく分かっていない美緒と、なぜか赤くなっているみなみちゃんと。
「それならそれで、その、少しくらいは生活を改められたほうがよかではないかと」
「でも、そこが耕介くんの好きになったところと違うんか?」
 薄々気づいていたらしい二人と。
「おめでとうございますー」
「素敵な……ことです」
 知っていたのか知らなかったのか、愛さんと十六夜さんは笑顔で。
 ――全然“それとなく”ではなかったけれども。
 それはとても真雪さんらしくて、なんだかとても、嬉しかった。
 ざわめきの中で、真雪さんと視線があった。
 どちらからともなく、ゆっくり笑みがこぼれる。
 これから先。
 障害も、喜びも、たぶん数え切れないほどいろいろあると思う。
 でも、彼女となら、時に笑って、時に泣いて。
 たぶん、ずっと一緒に、並んで歩いていけそうな気がした――。
〈終〉