お題 ”夏休み”
Sidestory of "To Heart"
 

「一日だけの、夏休み」


Written by 尾張




「──夏休み、ですか?」
 セリオが、小首をかしげて問い直した。
「そうじゃ。夏休みじゃ」
 豪奢な椅子に腰掛けた、老人がそれに応える。
「ま、たまにはええじゃろ。毎日毎日あの綾香の世話をしておるのも疲れんか?」
 可愛さ半分、本気半分といった感じの口調で、老人が再び口を開いた。
 実際には、孫娘である綾香のことが可愛くて仕方がないのであるが、普段はなかなか
それを表に出すことはない。
 本人と、セリオを前にしたときは、本音がつい出てしまうのを隠そうともしなかったが。
「──ですが」
 セリオは、老人に対するときも憶せずに考えを述べる。
 どうやらそれが、老人のお気に入りになっている理由のひとつでもあるようだった。
「──ですが、綾香様の警護はどうなさるおつもりなのですか?」
 当然の疑問を、セリオが口にした。
 普段は、綾香の警護役にはセリオが就いている。
 大げさな従者がいることを嫌う綾香の意向で、である。
 セリオに休みを与えなければ良いのだが…孫娘の綾香と同じくらい、老人は血の繋がっ
ていない──当たり前だが──セリオのことが好きだった。
 色々な経験を、セリオにさせたかったのだ。
「…考えていないわけでもない」
 少し間があったのち、老人がゆっくりと口を開いた。
「その役だがな…マルチにやってもらおうかと思っておるのだ」
「──マルチさん、ですか?」
 ゆっくりと、老人の首が縦に振られる。
 少し、間があった。
「──その、あまり適任とは思えない人選なのですが」
 セリオが、聞きようによっては少し失礼な、正直な所感を述べた。
「大丈夫、きっとうまくやってくれるさ」
 老人が、そう言いはなった刹那、
『ガシャーン』
 扉の外で、何かが倒れる音がした。
「マルチさんっ、大丈夫ですか!?」
 小さく、屋敷付きのメイドが叫ぶ声が聞こえてくる。
「あうー、大丈夫ですー」
『ガラガシャーン』
 声とは裏腹に、先ほどよりも派手な音が上がる。
「きゃーっ、マルチさーんっ」
 メイドの悲鳴が、それにかぶさった。
「し、失敗しちゃいましたー」
 二人の頭の中に、同じ思いが浮かんで、消えた。
「──本当に、大丈夫だとお思いですか?」
「大丈夫ではない…かもしれんな」
 戦後の混乱期を渡り歩き、数々の修羅場をもくぐり抜けてきた老人の表情に、苦渋の
色が浮かんでいた。
 じっとりと、額に汗も浮かんでいる。
 だが、来栖川翁にとって、それはすでに決定事項だった。



「…というわけなんですー」
 マルチが、脳天気な声を上げた。
「それは、分かったわよ」
 落ち着いた声で、綾香が応えた。
 自室で、ラフな恰好でくつろいでいたところだ。
「…でも、どうしてセリオまで一緒に来てるわけ?」
 横に並んで立っている、セリオへと視線を走らせる。
 セリオは、いつもと同じように無表情のままたたずんでいた。
 まるで、子供に付き添う保母さんのような趣だった。
「──なにか、ご不満でしたでしょうか?」
 それまで黙って二人のやり取りを見ていた、セリオが口を開いた。
「──休みの間はなにをしても良いと、旦那様に言われておりますので」
「だからと言ってもねぇ」
 綾香が、あきれ顔でセリオを見た。
「なにも、普段と同じことをしてすごすこともないでしょうに」
 言いながら、口とは反対のことを綾香は考えてもいた。
 強くなりたいと、厳しい格闘技の鍛錬に励んでいた頃。
 たまに休みと決めた日に、気が付くと身体を動かしていたことがあった。
 結局好きなのだ、それが。
「──ご迷惑になるようでしたら、別のすごし方を考えますが?」
「でも、私はセリオさんと一緒のほうが楽しいですー」
 表情を曇らせたマルチが、うるうると瞳をうるませた。
「一緒じゃダメですか、綾香さん?」
 そのまま、綾香のことを見つめ続ける。
 綾香は、しばらく黙ったまま交互に二人を見つめていたが、ふう、とため息をつくと、
「…分かったわよ。好きにすればいいでしょ」
そう言って、立ち上がった。
「その代わり、警護なんて固いこと言いっこなしね」
 ウインクをして、壁に埋め込みになっているクローゼットを開ける。
「ええと、あの服は確かこの辺に…あ、あった」
 お気に入りの、淡い草色のシャツを取り出しながら、二人に顔を向けた。
「ヒマなんでしょ? 今日は一日、付き合ってもらうわよ」



「で?」
 間抜けな声が上がる。
「…そーいうわけだから」
 冷静な声が、それに応じた。
「どーいうわけなんだか」
 苦笑して、浩之が三人を見た。
 駅構内の、待ち合わせ場所である。。
 綾香はいつものように、とぼけた顔をして立っている。セリオはいつもの無表情、マ
ルチはといえば…きょろきょろと落ち着きがない。
「なぁ…マルチ、いったいどうしたんだ?」
 顔を寄せて、浩之が小声で綾香に尋ねる。
「警護だから、あたりの様子に気を配ってるみたいよ」
 同じような小声で、綾香がささやき返した。
「もしかして、お前んトコからずっとあの調子なのか?」
「…そ」
 あくまで真面目な顔で、綾香は答える。
 嫌がっている様子もない。
 むしろ、今の状況を楽しんでいるようだった。
「なあマルチ、そんなに気を張ってなくても大丈夫だって」
「ええっ?! でも、いつ暴漢が襲ってくるか分かりませんし、ビルの上から狙撃され
たり拳銃を乱射されたり…」
「ニューヨークの下町かっ!」
 ぴしっと、反射的に繰り出された浩之のツッコミでこぴんが、マルチの額にヒットする。
「あうっ」
 小さな悲鳴をあげると、マルチはくるくると回転しながら壁際まで行き、倒れた。
 しりもちをついたまま、しばらく身じろぎもしない。
 セリオが、無言のまま近づき、めくれかかっているスカートを直してやっていた。
「朝から気を張りっぱなしだったんで、疲れたんでしょ。それにしても…」
 きゅうといった感じでのびているマルチを横目で見ながら、二人のため息がシンクロした。
「先が思いやられるような」
「気がするわね…」



 更衣室を抜けると、視界が広がる作りになっている。
「うわぁ、すごいですねぇ」
 マルチが、物珍しそうにその景色を見ていた。
 まるで、遠足に来ている小学生のようだった。
 セリオも、ゆっくりと回りを見渡している。
 四人は、南国のビーチを模した砂浜がウリの、室内プールを訪れていた。
 二人とも、ここに来るのは初めてだった。
 綾香と浩之は、何度か訪れたことがある。
 それほど混みあいもせず、ゆったりとすごせる雰囲気を、綾香が気に入っていたから
だった。
「よっ」
 入り口の前で待っていた浩之が、姿を見せた三人に声をかける。
 マルチとセリオはワンピース、綾香はセパレートの水着だ。
 セリオは、ブラックのスポーティな水着を身につけていた。ぴったりと身体に貼りつ
いた生地が、胸のふくらみを押さえ付けるように強調している。
 マルチが着ているのは、小さなひまわりが数多くプリントされた、南国風の水着。
  子供っぽい体形をカバーするように、腰に同柄のパレオが巻き付けられていた。
 そして綾香は、海の色に似た水色。ブラの紐が背中の側で交差して繋がっているタイプ
で、短いスリットの入ったスカートが、下半身を微妙なラインで隠していた。
 三者三様、それぞれに色っぽく、また似合っている。
 しばらく、浩之はぼーっとそれを見つめてしまっていた。
「…なに見とれてるの?」
 綾香が、視線を十分に意識しながらくるりと身を翻す。
 ふわりと舞い上がったスカートの中に、足のラインが見え隠れした。
 よく考えればその下も水着なのではあるが、その姿は刺激的だった。
「うーん、いいねー」
「なに、おやじみたいなこと言ってるのよ」
 浩之の視線を追いながら、綾香が苦笑した。
「あんまり…見ないで下さいー」
 恥ずかしそうに、マルチがもじもじと身をくねらせる。
 目立たないようにと耳カバーを外したその姿は、ちょっと幼いながらも人目を引くには
十分な可愛らしさだった。
「──こういった格好をするのは、不思議な感じですね」
 マルチとは違い、耳カバーを付けたままのセリオは、すらりと伸びた足を隠そうとも
せずに綾香に付き従っていた。
 とびきりの美少女三人組と、それにくっついたおまけ一人を、通り過ぎる人々の目線が
追っていく。
「とりあえず、あっちに座れるところがあるから、行こうか」
 指差して、浩之は歩き出した。
「いいじゃない、両手に花で」
 横に並んだ綾香が、ひじで浩之の横腹をつつきながら冷やかす。
「…片手だけでも、持て余しぎみなんだけどな」
 ぼそっと、浩之がつぶやいた。
 無言のまま、綾香が踵ですねを軽く蹴り上げる。
「いっ…」
 声にならない悲鳴をあげながら、浩之は足を抱えたまま片足で跳ね回った。
「な、なにすんだよ」
 じんわりと涙を浮かべて、浩之は抗議の声を上げた。
「…失礼なこと言ってるから、よ」
 ぷいっと、そっぽを向く。
 ちょっとだけ、ジェラシーの混じったとげのある言葉。
 そんな姿が、浩之には可愛らしく感じられる。
 が、そんなことを思っている場合ではなかった。
「冗談だってば」
 いてて、と足を押さえながら、綾香の肩に手を乗せる。
「…知らない」
 ついっと、身をずらして綾香はその手を外した。
「悪かった、オレが悪かった」
 振り向きもせずに去っていく綾香を、浩之が慌てて追いかけていく。
「喧嘩してるんですか? あのお二人…」
「──あれはあれで、楽しんでいるようですから、気にしなくていいと思います」
「そうなんですかー、難しいものなんですね」
 マルチが、納得したような、していないような表情で頷いた。
「──あのお二人は、見ていると退屈しませんから」
 くすっと、めずらしくセリオが表情を変え、笑う。
「──それよりも、綾香さんを追いかけなくて良いのですか?」
「え? ああっ、そうでしたー。待って下さいー」
 自らの任務を思い出して、マルチは慌てて二人のあとを追いかけた。



「なに、慌ててるんだい?」
 一瞬、なにが起きたのか分からずに、マルチはきょろきょろと回りを見渡した。
 他に誰もいないのを確認すると、困ったように自分を指差して、
「わ、わたしですかっ?」
と聞き返す。
「他に、誰もいないだろ」
 苦笑しながら、相手がそれに応じた。
 大学生くらいの、人のよさそうな男性だった。
 黒髪の、日本人形のように可愛らしい彼女を連れている。
 アイスクリームを片手に、デートの最中といった感じだった。
「大事な人と、はぐれちゃったってトコ?」
 迷子の子供に対するように、優しげな微笑みを浮かべて問いかける。
 連れの女の子は、そんな彼氏を笑顔で見つめていた。
「ち、違いますー。綾香さんを探しているだけで…」
 マルチが、わたわたと手を振りながら、一生懸命説明する。
「友だち探してるの?」
「そうなんですー、綾香さんをお守りするっていう役目をいただいてるっていうのに、
いつの間にか見失なっちゃって…」
 しゅんとしながら、答える。
「でも、捜し物は得意ですから、大丈夫ですっ」
「…一緒に、探してあげようか?」
 いいよね、と連れの女の子に聞く。
 女の子は、こくんと頷くと、
「でも、耕一さん…たぶん、あそこの…」
と、反対側の水際を指差した。
 遠目に、じゃれあっている二人連れの姿が見える。
「あ、綾香さんっ」
 マルチにも、はっきりそれと見分けることが出来た。
「わたし、いかないと…」
 歩きかけ、思い出したように振り返って、二人にぺこりと頭を下げる。
「どうも、ありがとうございました」
 綾香たちを気にしながら、とてとてと走って去っていく。
 二人の視界から消えたあと、
『どぼーん』
 何かがプールに落ちたような音が、その先から聞こえてきた。
「さ、騒がしい子だな…」
 少し呆れたように、つぶやいた。
 女の子が、くすっと笑って、男の肩に身を寄せる。
「でも、一緒にいると楽しそうですね…」
「彼女にしたら、大変そうだけどね」
 そう言って、寄せられた肩を優しく抱きしめた。



「だいたい、あの時だって浩之が…」
「ばっ、馬鹿そんな昔のこと持ち出して」
 などと、まだ続いていた二人のやり取りはとんでもない方向へと発展していた。
 そこへ、唐突に、物陰からマルチがあらわれる。
 髪の毛から、水滴がしたたり落ちていた。
「はあっ、はあっ…ごほっごほっ」
 荒い息に、むせるように咳が混じる。
 ここにあらわれるまでに一体何があったのか…二人には知る由もなかったが。
 呆気にとられた二人が、ぽかんとした表情でマルチを見つめる。
 一息ついてから、マルチはぱっと表情を輝かせた。
「や、やっと追いつきましたー」
 嬉しそうな、申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「ごめんなさい…綾香さん、おそばから…離れて…」
 一瞬の間のあと…。
 ぷっと、それを見て綾香が吹き出した。
「ごめんごめん、忘れてたわ。そうだったわね」
 横に並んだ、浩之の脇腹を軽くつつく。
「ほら、浩之。喧嘩なんかしてる場合じゃないでしょ」
「…すまん」
 雰囲気に呑まれるように、浩之が謝った。
「でもさすがよねー、マルチが遠方から大勢を見定め、セリオが近くで危急に備える。
要人警護の基本、しっかり押さえているんだもの」
 綾香が、ウインクしながら、浩之に目で語りかける。
 一瞬のち、浩之も綾香の意図を察知した。
「…そ、そうだよな。いいコンビだぜ」
 すこし焦りながらも、とちらずに言い抜ける。
「はぁ…そう、ですか」
 目を丸くしながら、納得しきってない顔で、マルチが頷いた。
「──そうですよ」
 セリオが、姿を見せた。
「──それぞれに、役割というものがあるのですから」
 微妙なものの言い方である。
「ふえーん、やっぱり役立たずなんですー」
「でも、人には向き不向きっていうものが…」
「人じゃありません、メイドロボですー」
 うっと、言葉に詰まった浩之が、こほんと咳払いをする。
「それでも、やっぱり向いてる仕事っていうのがあると思うぞ」
「──例えば、お掃除とか」
 セリオが、フォローを入れた。
「大好きですっ」
 ぱっと顔を輝かせて、マルチが嬉しそうに答える。
「炊事とかな」
「お、お勉強中ですっ」
 マルチが、少し複雑な表情になる。
「あとは…そうね、格闘とか」
「…だ、ダメですぅ」
 たちまち、マルチの表情が曇った。
「でも、そんなこと関係ないわよ」
「──私は、マルチさんと一緒にいると、楽しいです」
 セリオの言葉に、浩之が頷く。
「マルチは、マルチでいればいいっていうことだよ」
 ぽんぽんと、浩之がマルチの頭を優しく叩いた。
「さ、んじゃ少し泳ごうか」
 少しの間があった。
「あのー、わたし、泳げないんですけど…」
 言いづらそうに、マルチが切り出す。
「な…なにっ?!」
「じゃ、特訓よね」
「──頑張ってください、マルチさん」
「ひーん、皆さん目が怖いですー」
 たじろぎながら、マルチが後ろに後ずさる。
 だが、そこには地面がなかった。
『どぼーん』
 一瞬あとに、派手な音を立てて、水しぶきが上がる。
「ふひゃーい、たひゅけてくだひゃーい」
 浮いたり沈んだりを繰り返しながら、ごぼごぼと水音を立てて手足をばたつかせる。
「──助けましょうか?」
「しばらく、放っておけば泳げるようになるんじゃないか?」
「溺れること、ないものねー」
 思わず、オニ教師と化す三人だった。



 結局、おぼれている──ように見えたマルチを傍観していたということで、監視員に
見つかって、三人は注意を受けた。
 溺れていた?本人のマルチが、
「わたしは溺れませんから大丈夫ですー」
などと言い出して、一緒に叱られたりもした。
 その、帰り道…。
「結局、泳げるようにはなりませんでした」
 マルチが、申し訳なさそうに切り出した。
 電車の中である。かたんことんと、小さな音が会話の間を繋ぐように鳴り続けていた。
「まあ、いいさ。結果よりも、どれだけ頑張ったか、だろ?」
「──そうですね。マルチさんは、頑張ったと思います」
 セリオが、同意の声をあげる。
「うぅ、ありがとうございますー」
 優しい言葉に感激した、マルチがぺこりと頭を下げた。
「これからも、一生懸命頑張りますっ」
 瞳に燃える決意をたぎらせながら、マルチはぐっとこぶしを握り込んだ。
「じゃ、とりあえず、料理の特訓な」
 冷静な、浩之の声が飛ぶ。
「うぅ、ありがとうございますー」
 同じ言葉でも、二度目のほうはちょっと涙声になってしまう、マルチだった。



 その夜。
 マルチとセリオに、割り振られた寝室の中で、
「むにゃむにゃ…セリオさん…」
 寝言をつぶやきながら、マルチが安らかな寝顔を浮かべていた。
 一生懸命やった、今日の仕事のことでも思い返しているのだろうか。
「──お休みなさい、マルチさん」
 セリオが、優しげな微笑みでそれを見つめていた。
 一日だけのセリオの夏休みが、終わる。
 そして、またいつもの日々が訪れようとしていた。


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