お題 “志保”
Sidestory of "To Heart"
 

「あの日、止まっていた時間」


Written by 尾張





 長い口づけになった。
 相手のことを愛おしく感じながら、あたしたちは唇を触れ合わせていた。
 どちらからともなく、舌を絡めあい、唇を吸った。
 それはまるで、無言の行。
 言葉では表せないものを、表し尽くすように、口づけを、飽きることなく続けていく。
 触れていた唇が離れたとき、二人の唇から、ふぅっと吐息が漏れた。
 目の前にあるのは、柔らかな微笑み。
 あたしは、幸せだった。
 今なら何だって許してしまいそうな、危険な予感を感じる。
 藤田浩之。
 不思議とノリのあう、男友達だった。中学の頃から、ずっと。
 いまは、あたしの恋人。大切な――。
 ぼうっとした頭の中で、ヒロの顔が下がっていき、唇が首筋に触れるのを感じた。
 次の瞬間、ぞくっとした震えとともに、身体の中からしびれが走り出す。
 手足の先まで、それはゆっくり伝わっていった。
 あたしを慈しむように、いたわるように、少しずつ動いていく。
 ――暖かな感触。
 いやらしく感じてしまう、ヒロの舌先。
 それが、遠慮がちに肌の上をなぞっていく。
 首筋から、鎖骨のあたりまで、何度も何度も。
 それが動くたびに、ぞくぞくと、何かが背筋を走り抜けていく。
 初めての経験だった。
 身体が浮いてしまうような感じ。
 自分の身体が、自分のものでなくなっていくような錯覚があった。
 その、ヒロの手が、服の上から胸に触れた。
 ビクッと、身体が震える。
 生まれてくる、身体の中からしびれるような感覚と――そして、恐れ。
 このまま酔っていたい自分を止める。
 波のように打ち寄せてくる感情に負けないように、頭の中で言葉を形作った。
「ダメ…、それ以上は…」
 やっとの思いで、声を絞り出す。
 ヒロの動きが、止まった。
 当惑したように。
「…志保」
 名前を呼ぶ声。
 あたしは、その声を聞いただけで浮き立ちそうになる心を、懸命に理性で押さえ込んでいった。
「…やめて、ヒロ」
 顔がまともに見られない。
 顔を背けて視線を避けたまま、下へと目を向ける。
 目に入るのは、少し乱れてしわになったシーツだけだった。
 きっと、今のあたしは醜い顔をしてる。
 そんな顔を見られたくはなかった。
「…分かったよ」
 拒絶された哀しみだろうか。
 ヒロの声が、かすかに震えていた。
「ごめん…」
 横を向いたまま、再度の拒絶。
 確信犯の、それは最後の砦だった。
「こっち…向いてくれよ」
 ヒロの指先が、頬に触れた。
 それを振り払うだけの心は、さすがに持っていない。
 指先に導かれて、あたしの顔が正面を向く。
 目の前に、ヒロの真剣な顔があった。
「志保が嫌だと思ってるなら、無理にしたりはしないから。…その代わり」
 ちょっと照れたように、ぶっきらぼうに言葉を続ける。
「いいって言ったら、すぐにでも抱くから覚悟しとけよ」
「…なにそれ」
 ぷっと、思わず吹き出してしまった。
 シリアスな、重かった空気がすうっと消える。
「言葉通り、だ」
 真面目な瞳が、あたしを見つめる。
「…うん」
 そのヒロの想いを受け止めるだけの力を、あたしは持っていなかった。




 後から思えばそれが、ヒロとした最初で最後の“恋人らしいコト”だった。
 それからは、色々と理由を付けて、そういったことからは距離を置くようにした。
 カラオケ行って、ゲーセン行って、くだらない口喧嘩まがいのやり取り。――まるで、
昔の関係に戻るかのように。
 そして、卒業。
 あたしは住み慣れた街を出て、一人暮らしをした。
 慣れない街、慣れない人々、それに溶け込もうと努力を続けながら。
 ヒロと離れても、自分の想いだけはずっと暖め続けてきたような気がする。
 そして、気がつくと四年が過ぎていた…。




「ヒロのこと、忘れたことなんかなかった」
 校舎を見つめる二人の間に落ちた沈黙に、そんな風にけりをつける。
 心地好い風が、あたしの髪を少しだけたなびかせた。
 あれから伸びた髪。
 それと同じくらいには、あたし自身も、あの頃よりは成長したと思う。
「続き、したいなってずっと思ってたの」
「…続き?」
 応える、ヒロの怪訝そうな声。
「一線を越えなかったのはあかりに対する義理だっていう話、したわよね」
「ああ」
「あの頃はやっぱり、あかりに対する負い目があったのよ。色々考えたんだけど」
 そう、つまらない意地かもしれないけど、やっぱりあたしにとってのヒロは、“あかりの
好きなヒロ”だったんだと思う。
 そして、あの頃はそれにしばられていたんだ。
「もうその義理も果たせたんじゃないか、って思ってるの。だから、続きをね」
 そう言って、ウインクする。
 おもむろに顔を寄せて、ヒロの耳もとでささやいた。
「いまから…しよ」
「なっ…」
 反射的に身体を離すヒロの首筋に、両手でぶら下がるように抱きついた。
「……ね?」
 あたしは、思いっきり甘えた声を出す。
「なに言ってんだ、お前は」
 返ってくるのは、あきれたような声。ちょっと怒られたような、懐かしい感じ。
「でも、ヒロにはもう許可もらってるんだけど」
「…へ?」
 言われた意味が分からないといった顔つきで、ヒロがあたしを見る。
 すこし意地悪に微笑んでから、ゆっくりと言葉を繋げた。
「四年前、言ったよね。『いいって言ったら、すぐにでも抱くから覚悟しとけよ』って」
 その時の、ヒロの顔ったらなかった。
 あたしは、本気でカメラを持ってないことを後悔したくらいだ。
「…ぷっ、くく…あはははっ……」
 それから笑いの発作を起こしたあたしを、ヒロは憮然とした表情で見つめていた。




 ――その、三十分後。
 あたしたちは、ホテルの部屋にいた。
「本当にいいんだな。後悔しても、知らねーぞ」
「あたしにとっては四年越しの約束よ、後悔したりするわけないじゃない。…そっちこそ、
後悔しない?」
 そういって、あたしは身体をあずけた。
 しっかりと、ヒロが抱きとめてくれる。
「バカ。するわけねーだろ」
 耳もとで、ヒロの優しい声がする。
 この世で一番、好きな声。
「…本当に?」
「ああ」
 どちらから誘うともなく、すぐに唇が触れ合った。
 遠慮がちに舌を触れあわせ、徐々に大胆に絡めていく。
 ヒロの服をつかんだ指先に、いつの間にか力がこもっていた。
 頭の中が、真っ白に染められていく。
 ヒロはあたしの頭を抱え込んだまま、髪に指を梳き込んでいた。
 しばらくして、ヒロの唇が離れる。
「前よりも、キスするのうまくなったわね」
「そうか?」
「うん。なんとなくだけど、分かる」
「覚えてるのか、あんな前のこと」
「好きな人との初めてのキス、忘れたりしたら女がすたるわよ」
 そういって、もう一度、唇を寄せた。
 あたしの指が、ヒロの身体に触れる。
 ヒロの指が、あたしの身体にかかる。
 あたしたちは、そうして少しずつお互いの服を取り去っていった。
 一枚脱げるたびに、脱がすたびに、顔を見合わせて照れ笑いを浮かべながら。
 脱ぎ捨てていったのは、互いに対してのこだわりだった。
 最後の最後でちょっとだけ躊躇して、でも、そのあと…。
 何も身につけていない姿で、あたしたちは抱き合った。
「なんか、成長してないよな、オレたち」
 ヒロの、あきれた声がする。
「いいんじゃない、こういうのも」
 触れ合わさった肌のぬくもりが嬉しかった。
 ヒロの腕が背中に回っている。
 くすぐったいようで、でも心地いい感触。
 胸に触れる、長い指先。
 首筋に当たる、熱い吐息。
 それらがゆっくりと、波がさらうようにあたしの理性を削っていく。
「――つっ」
 唐突に聞こえる、ヒロの痛みを訴える声。
 その声で、少しだけ我に返った。
 背中に回してた指先の力を、慌てて緩める。
 爪の痕、ついてしまっただろうか。
 首を伸ばして、見てあげたくなる。
 もちろん、この位置からヒロの背中など、見えはしないのだけれども。
「あっ、ごめん…」
 かすかに発したあたしの声が届いたのか、どうか。
「いや…、嬉しかったし」
 言葉だけを残して、うつむいたままのヒロの頭が、再び動き始める。
 怒ったそぶりもない。
「ありがと」
 口の中で、聞こえないほどに小さく、あたしはヒロにお礼を言った。
「跡…残るかな」
「残ったら、あたしの愛のしるしってことよね」
「人に見せる機会もないぜ、たぶん」
「いいのいいの、あたしとヒロだけ知っていれば」
 耳の下を柔らかくなぞる、ヒロの指。
 肌の上を滑っていく、ヒロの舌先。
 いま、ヒロに愛されてるんだっていう安心感、だろうか。
 身体中の、ヒロが触れる場所すべてから、身体の中に電流が流れたようにしびれていく。
「柔らかいな…お前の胸」
「気にいってもらえた?」
「…ちょっと感動した」
 そして、言葉も、なんでもない会話までが心を震わせた。
 足に触れていたヒロの手が、少しずつ上へと上がってくる。
「はっ…ぁ…」
 真っ白になった頭に、そんな声が届く。
 あたしじゃない誰かが発しているように、口から、勝手に声が漏れ出していた。
「志保…」
 あたしを呼ぶ声とともに、ヒロの唇が触れ合わさってきた。
 腕に抱きすくめられたままで、ヒロがあたしに触れる。
 自分でも、濡れてるのが分かっていた。
 ヒロの指が触れる前から。
 きっと、ヒロに抱かれるんだと思っただけで、心と身体が反応してしまったんだと思う。
 四年分の、想いがつのった分だから。
 ちょっとだけ、自分がいじらしく思えた。
「志保、これ…」
 あたしに触れたヒロが、少し嬉しそうに、驚いた声を上げた。
「そんな声上げないでよ。あたしだって…こんなになったの初めてなんだから」
 ヘンな風に思われるんじゃないかっていう不安が、弁解の言葉を放たせる。
 未知の体験に対する、恐怖。
 そして、喜び――。
 所有欲、っていうのとはちょっと違うか。でも、似たようなもの。
 色々な感情が渦巻いていた。
 これからは、あたしのヒロ、って呼べるのかな?
「いくぜ、志保」
「…うん」
 返事を確かめてから、ヒロがあたしの中に入ってくる。
 たぶん、四年間待っていたんだと思う。
 悪友でも、子供っぽい恋人でもなく、この瞬間から始まる関係を。
「…っ」
 思っていたほどには、その瞬間の痛みは少なかった。
 その代わりに、にぶい痛みがそこから沸き出すように襲ってくる。
「…んっ」
 少し、声を漏らしてしまった。
「大丈夫か?」
 あたしのことを気遣う、柔らかな声が聞こえた。
「大丈夫じゃない…けど、平気」
 ヒロのことをいとしいと思う気持ちが、心の中にじんわりと広がっていく。
 大きな手の指先が、あたしの指に絡まり、力強く握りしめてくれる。
 そんなささいなしぐさが、あたしに対するヒロの想いを表してくれているように思えた。
 身体の中が、熱い。
 ヒロが、あたしの奥まで入っているのを感じる。
 それが分かって、頬が熱くなった。
 恥ずかしさと、嬉しさ。
 しばらくの間、そのままヒロは動かなかった。
 優しく、あたしの髪を撫でてくれている。
 髪を撫でられていると、その幸せな気持ちの中で、身体の痛みが消えていくように感じた。
「少し…動くからな」
 気遣うようにあたしを見る瞳は、優しげな光をたたえている。
「うん…」
 本当に、それだけで安心できた。
 まだかなり痛かったけど、その痛みも誇らしいものに思うことができたから。
 そして、少しずつ、さっきまで感じていたのと同じ高まりが、身体の中に生まれてくる。
 痛みと引き換えに、背筋にしびれるような感覚が走っていく。
「…はあっ」
 ヒロが、熱い息を吐いた。
「どう…したの?」
 見たこともないような、苦しそうな顔をしてるのが分かる。
「いや…志保のなかが急に締め付けてくるから、その…」
「…そうなの?」
「で、あまり長くもちそうにない」
 心底情けなさげに話すヒロの顔を引き寄せて、軽く口づける。
「いいよヒロ…いつでも好きに」
「…志保…」
 あたしの中でヒロが果てた瞬間、強く抱きとめられながら、ヒロの存在だけを強く意識していた。
 直後に、身体にかかる重み。
 それさえもが、幸せに感じられる。
「ん…」
 夢中でつかんでいたヒロの手を握りしめたまま、眠りの中へと落ちていった。




 床に座り込んで、ベッドの端に背を預けていた。
 両手で支えたカップから、少しずつぬくもりが伝わってくる。
 湯気とともに、安っぽいコーヒーの香りが立ちのぼっていた。
 その雰囲気がいまの気分と妙にずれてて、思わず笑いが込み上げる。
 あぁ、朝なんだ――。
「なに笑ってるんだよ。不気味だな」
 頭上から声がして、ヒロが隣に座る。
「あ、起きてたんだ」
「…いま起きたとこ」
 何も身につけていない二人の、素肌が触れる。
 自然な流れで、ヒロの腕があたしの肩を抱いていた。
 そのまま、その空気を楽しむように、お互い無言のまま時が過ぎた。
 やがて、コーヒーの湯気が立ち上らなくなった頃。
 あたしは、カップを床に置いて、ヒロの腕に自分の手を重ねた。
 おそるおそる、口を開く。
「あの、さ。ヒロ?」
「…なんだ?」
「あたし、初めてだったっていうの…バレちゃったよね」
「まーな。それに、あんだけ派手に証拠が残ってりゃな」
 ヒロが、指先でベッドの上の一点を指さす。
 そこには、紅い染みがはっきりと浮かんでいた。
「いい加減な志保ちゃん情報よりは、百倍は確かだと思うぜ」
「うるさいわね。いまはちゃんと、取材して記事作ってるわよ」
「おっ、昔はいい加減だったのは認めてるんだな」
「うーっ」
 何か言い返してやろうとして、考え直して口をつぐんだ。
 ヒロといると、昔のあたしに戻ってしまう。
 ほぅ、とため息を一つついて、気を落ち着かせた。
「あーあ。でも、ヒロには内緒にしておきたかったんだけどなぁ」
「なにが?」
「初めての相手がヒロだってこと」
「気にすることないだろ、別に。志保は志保だしな」
「…どういう意味よ、それ」
「つまんねーこと気にするな、ってことだよ」
「つまんなくないわよ」
 あたしは、まだ何かが挟まっているような異物感がある下半身に手を当てた。
「まだちょっと、…痛いんだからね」
 ちょっと本気で、でもからかい半分の言葉を投げる。
「う…。すまん」
 それに反応して本気で頭を下げかけるヒロ。っとに、バカなんだから。
「いいわよ謝らなくても。誘ったのは、あたしなんだし」
 そんなやり取りのあとに訪れる、沈黙。
 ゆっくりと、あたしたちの間を時間が通り過ぎていった。
 寄せあった身体が、不思議なぬくもりに包まれている気がした。
 静かな朝。
 愛する人と二人――か。
「ヒロは、女の子抱くの初めてだった?」
 あたしの言葉に、ヒロが一瞬だけ困った顔をする。
 もちろん、あたしは見逃さなかった。
 その表情が、あたしの問いに対する明確な答えになっている。
「そんなわけないわよね。相手は…あかり?」
「…お見通しだな」
 ヒロが、苦笑する。
 イタズラが見つかったときのような、ばつの悪い表情。
「色々あったのさ。オレたちの間にも」
 つかず離れずを、繰り返してきたのだろうか。
 あかりをいとおしむようでいて、少しだけ突き放したような…それはそんな口調だった。
「いつまでも幼なじみじゃいられなかったってことさ。良い意味でも、悪い意味でも」
「じゃあ…さ」
 次の言葉の前に、心臓が鼓動を早める。
 こら、落ち着け、志保。
「あかりと、同じところに立てたって思っていいの?」
 今のヒロは、あたしのものだけじゃない。
 それは事実として、なんの抵抗もなく心の奥にすっと収まっていた。
「まぁ、そういうことかもな」
 嫉妬は感じない。
 これから先、あたしがどうするかは、あたし自身が決めることだ。
「じゃあ、今日が本当の始まり、かな」
「だから、とっくに勝ってた戦いだったんだぞ、本当は」
 ヒロが、あきれたように声を上げる。
 それをさえぎって、あたしは顔を上げた。
「いいじゃないの。こうしたかったのよ、あたしはね」
 あたしと、あかりと、ヒロ。
 きっといい関係になれる。
 そんな、予感がある。
 ――そう。
 止まっていた時間が、今日からまた動き出すのだから。







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