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 チヅという少女は勉強が嫌いである。彼女の一日の予定表の中では、授業時間は大抵、
読書タイムに割り振られている。それでも成績優秀であるのは、読んでいるもののせいだ
ろう。現代国語の授業中である今現在は、デカルトとウィトゲンシュタインをチャンポン
で読んでいた。
 ちなみに、彼女の最近のマイブームは『すごいよ!! マサルさん』である。「いっちょ
留年してみるか」と言って、家族に泣きながら説得されたのが昨日のことである。本当に
やりかねないと、家族にすら思われていたから。
 放課後になって、教室に生徒の姿もまばらになる頃、チヅは開いていたノートを閉じた。
つき合いで同じように宿題をやっていた楓は、その気配に顔を上げ、同じようにノートを
閉じる。
 「家庭に仕事(勉強)は持ち込まない」がチヅのモットーであり、それは確実に実行さ
れている。家に持ち帰らなくてもできてしまうからこそのモットーでもあるのだが。
「楓、いいの?」
「うん」
 半分もできてはいないが、もともとチヅのようなモットーがある訳ではないし、それ以
前に暇なチヅを横に置いて落ち着いて宿題をやれる筈はなく、そしてそれはチヅ本人も判っ
ていることで、その言葉自体、挨拶のようなものである。
「さー今日はなにして遊ぶかね」
「チヅの好きでいいよ」
「じゃあ柏木邸へゴー!」
「え?」
 意外な答えが返ってきて、めずらしく楓が驚いた顔を見せる。それに答えるようにチヅ
が理由を列べた。
「降山を陰で支配する柏木一族の住む白亜の城を!」「白くない」「そびえ立つ楼閣を!」
「平屋」「見てみたいのよー!!」
 突っ込みを無視するチヅに、一応念を押しておく。
「古い日本家屋しか見せられないけど、いい?」
「ほんとは美人四姉妹が見たいだけだからオッケー」
「梓姉さん東京だから、三人しかいない」
「あんた美人ってとこは否定しないわね」
「否定すると独り言で、謙遜が鼻につくだとか嫌味だとか言うから。聞こえるように。あ
きるまで」
「楓、わたしという人間を誤解してる……」
「してないと思う」
「楓にとってわたしってただの嫌な女なんだね」
「誤解してないから」
「楓に嫌われたら、わたし生きていられない……」
「チヅが優しいの知ってるから」
「…………」
「チヅが私のこと考えて言葉や態度を選んでることを知ってるから」
「…………」
「誤解、してないから」
 チヅは、楓をひしと抱きしめる。
「わたしが男だったら今すぐにでもプロポーズするのに」
「されても困る」
 楓の耳元で、楓の顔が見えない、自分の表情を見られない状況で、チヅは小さくつぶや
く。
「わたし、楓が思うほど優しい人間じゃないよ、きっと」
「チヅは自分が思っているより優しい人間だと思う、きっと」
 少し、チヅの楓を抱く力が強くなって、しばらくして、チヅは腕をほどいた。
 いつも通りの笑顔で。
「じゃあいこっか」
「うん」




 楓は高校へ徒歩で通学している。忘れ物を取りに帰れる程ではないが、近いといってい
い距離だった。だがチヅを、友達を呼んだことはなかった。
 楓はプライベートを、すすんで人に見せようとはしなかった。
 周りの人間も両親を、次いで親代わりの叔父を失ったことを知っているから、自分なり
に納得できる理由を見つけて、そのことを疑問に思うこともなかった。
 だから、楓の行動の裏にあるものに誰も気づかなかった。
 柏木邸に近づくにつれ、人通りが途切れがちになる。冷気に生き物も口をつぐむ冬、本
当に静かな場所だった。道路の脇には一週間程前に降った雪の名残が薄黒く汚れながらも
消えずに残っている。
 急に立ち止まり、振り返った楓に倣って、チヅも振り返る。
「楓お姉ちゃーん!」
 スーパーの袋を両手で持って、初音が走ってくる。楓は顔の辺りまで手をあげて応えた。
「初音ちゃん?」
「うん」
「いっこしただっけ?」
「うん」
「見えないね」
「初音に言ったら駄目」
「オーケー、ボス」
 心肺機能をこき使って姉とその友人の前に辿り着いた時には、初音は言葉を喋れるよう
な状態ではなくなっている。
 家の外で姉に逢えたということが、それだけ嬉しいのだ。それだけで嬉しいのだ。毎日
合わせる顔なのに。そもそもここは偶然に逢ったと言うのがはばかられるような場所だ。
倉の屋根が遠くに見えている。
 そんなことに心の底から喜びを表せる初音がいとおしく、そして羨ましかった。
 息を整えている妹を待つ。チヅも心得たもので楓と同じようにじっと待っている。この
待っている時間をないものとしているらしかった。そういう変な空気には慣れきっている
二人と対照的に、初音ははやく口を開こうと、何度か大きく深呼吸する。
 初音の状態を見て、そろそろかなと思って、楓が口を開いた。
「スタート」
「かわいいーっ! わたしも欲しいーっ!!」
 チヅが問答無用で初音を抱きしめる。
「えっ? えっ?」
 何だか判っていない初音。
「楓ずるいーっ、今まで独り占めしてー」
「二人姉がいるけど」
「可愛い妹見せびらかして、そのうえ美人のお姉さんが二人もいること自慢してるーっ。
どうせわたしには変な兄貴しかいないわよー」
「チヅのお兄さん、私、いい人だと思う」
「じゃあ交換して」
「…………」
「…………」
「…………」
「千鶴姉さんに訊いてみる」
「楓お姉ちゃんっ?!」
 楓はすがるように自分を見る初音から目を逸らす。
「ごめんね初音」
「大丈夫よ、うちの子になってもお姉さん達と逢うのは止めないから──でもほどほどに
してね」
「うぅ……」
 楓のこのノリ──というかチヅのノリ──に初めてふれた初音は、どう反応していいか
判らなくて、少し涙ぐむ。妹の表情を読んで、楓はそろそろかなと思う。
「チヅ、終わり」
「いやっ! 妹欲しいっ!」
「夜中に起き出して柱かじったりするよ」「しないよー」
「してもいいっ」
「トイレのしつけできてないよ」「犬じゃないよー」
「ちゃんと自分で世話するっ」
「生きた餌しか食べないよ」「カエルじゃないよー」
「……ちょっとついていけないわ。両生類ネタってあんたら……」
 チヅに呆れられたことにちょっとショックの楓。遠回しに、「あんたら姉妹、変」と言
われたことなど聞き流して、腕の力が緩んだ新しい姉から逃れて、元の姉の背中に隠れる
ようにする初音。
「初音、クラスメイトの桧チヅ」
「はじめまして、妹の初音です」
 少し前までもらわれていかれそうだったにもかかわらず、ちゃんと挨拶ができるところ
はさすがに初音だった。
「はじめまして──って気がしないかな? いつもおいしいお弁当おすそ分けしてもらっ
てるから」
「え、そうなんですか? 恥ずかしいな、まだ料理うまくできないから……」
「充分おいしいけど。そりゃお姉さんのお弁当とくらべるとまだレパートリーが少ないか
なって感じはするけど、あのお姉さんは特別だからね」
「梓お姉ちゃんのお弁当も知ってるんですか?」
「自慢じゃないけど、楓からお弁当たかって二年半だから。だから判るのよ、お姉さんの
と初音ちゃんのお弁当の違い。初音ちゃん、とにかく一生懸命つくってるって感じがする
よね、おいしいものをつくろうって。でもお姉さんはよく噛まないとおいしくないものと
かいれてたね。楓たべるの速いから、もっとゆっくり噛んでたべなさいってメッセージ。
両方ともとっても優しいお弁当なの。ただ初音ちゃんは楓を甘やかしすぎなだけ」
 柏木家のお弁当の変遷を見事に分析してみせたチヅに、初音はびっくりして言葉を失う。
「チヅ、実は頭いいの。頭を使う方向性を間違えているけど」
「それ、褒めてるの?」
 楓は応えなかった。褒めてないから。
 初音がフォロー。
「楓お姉ちゃんのお友達でとっても頭のいい人がいるって、チヅさんのことだったんです
ね」
「使い方間違えているけど」
 初音のフォロー、台無し。
 何かぶつぶつとつぶやきながらたそがれるチヅ。
 楓は初音を促して歩き出す。
 楓のセーラー服の上着をむんずとつかむチヅ。
「待てい」
「用?」
「あんたそういうこと整った顔でゆーな。冗談が説得力持つから」
「立ち話してると寒いから」
「じゃあそう言え」
 並んで歩き出す。
「あ、非常食」
「え?」
「チヅ、犬って言って」
「…………」
「…………」
「…………」
「あ、冗談だから」
「──うん」
「はやく慣れないと。もらわれていくんだから」
「…………」
「…………」
「…………」
「冗談っていってよぅ」
 楓の腕にすがりつく初音。目を逸らす楓。
 ちいさく、つぶやく。
「ごめんね、初音」
「いじわるはやめてよぅ」
「ききわけて」
「やめてよぅ」
 泣きそうな顔の初音に視線を戻して、楓は妹のぴょんと跳ねた髪の毛の辺りを優しく撫
でる。
「やめてよぅ」
 先程と同じ言葉を、くすぐったそうに、今度は安心しきった笑顔で初音は口にする。
「んー、ほんとに妹ほしーわ」
 その時のチヅの、偽らない気持ちだった。




「おー、ここが楓様の秘密の花園ー」
「変な表現しないで」
 家について、初音は台所へ、楓とチヅは直接楓の私室へ向かった。
「なんかふつー」
「普通じゃ駄目?」
「ベッドに屋根がないー」
「……そこまで期待されてたとは思わなかった」
「廊下歩いてた時にはさすがって思ったけど、その廊下の先になんで普通の部屋? なん
で畳二十畳くらいの和室じゃないの? わたしのこと庶民だと思ってバカにしてるでしょ
う」
「チヅっていいがかりつけさせたらプロ級」
「それ、褒めてるの?」
 楓は応えなかった。褒めてないから。
 フォロー役もいなかった。
 沈黙の中、楓はおもむろに着替え始める。ベッドに腰掛けて、やることもないのでじっ
とその光景を見ているチヅ。
 ぽつりとつぶやく。
「押し倒してもいい?」
 ストッキングを下ろしていた手をぴたりと止めて、束の間硬直した後、楓は着替えのス
ピードを早める。
「なんで身の危険感じてるのよー」
「自分の胸に訊いてみて」
 言われた通り、胸に手を添えて目をつむる。
「ああ、なるほど」
「納得されるともっと怖い」
 うん、そうだねと静かに言って自然に微笑む。チヅが真面目な雰囲気に変化したことを
感じて、楓も着替える手を止めた。
「わたし、そんな趣味ないと思うけど、楓だったら抵抗ないと思う。自分から求めようと
は思わないけど。なんなのかな、こういうの」
「チヅにも判らないことあるのね」
「わかんないことだらけよ。ただ、楓といるとわたしの中の何かが救われるのが判るだけ。
失礼な話だけど、楓の外見の綺麗さにも救われてる。お話の中にしかないような美しさが
現実に存在しているってことが、わたしの心を救っている。現実がつまらなくて厳しいだ
けじゃないって、楓を見るとそう思える。もし楓が普通の外見してたら、わたし、友達に
なってない、きっと」
 着替えを終えて、話の途中から楓へ向けていた視線を逸らしたチヅの、横に静かに腰掛
ける。顔をのぞき込むようにする。
「チヅ」
「ん?」
 視線が重なる。逸らせなくなる。
「違うよ」
 声が出せなくなる。感情を隠せなくなる。
「違うから」
 気がつくと、肌のぬくもりを求めている。一番大好きな少女を抱きしめている。
「うん」
 気持ちが落ち着くまでに必要とした幾ばくかの時間の後、楓の耳元に、ささやいてみる。
「押し倒していい?」
「駄目」




 部屋のドアがノックされ、返事をする前に勢いよく開かれる。
「楓お姉ちゃんっ、梓お姉ちゃん帰ってくるって今、電話」
 支離滅裂になる一歩手前の言葉を並べる初音に、冷静な言葉を返す。
「ノックしても返事がある前に開けたら意味ないでしょ。姉妹の間でもマナーは守らない
と駄目」
「梓お姉ちゃん夕御飯つくるって。わたし下ごしらえして、その前にたりないもの梓お姉
ちゃんにいうの忘れてて、今から買いに行くから」
 かみ合っていないようでいて通じているらしいところが姉妹だった。チヅは感心して聞
いている。
「一応お客さんもいるんだからまず挨拶しなさい」
「一応ってあんた」
「そうだ、チヅさん夕御飯一緒に食べていきませんか?」
「言っておくけど、宮廷料理みたいなのは出ない」
「殻の頭だけ割って食べる半熟卵とかは? 白身べちゃっと捨てて黄身だけ食べるやつ」
「本当にそういうの出てきたら嬉しい?」
「あ、なにげにそんな哲学的命題を」
「今日はお鍋だって梓お姉ちゃんが。アンコウと松坂牛もってきたって」
 一秒で答えが決まる。
「ご馳走になります」
「梓姉さん、アンコウ吊し切りするのかしら?」
「一匹もってくるわけじゃないよぅ」
「一匹いたら吊し切りできるような言い方なのは何故?」
「できるから」
「…………」
「…………」
「…………」
 冗談のつもりだったが、なんだかアンコウを吊し切る梓の姿がやけにリアルにイメージ
でき、そして初音もリアルな何かをイメージした顔をしていて、結果、嫌な沈黙が続いた。
「ち、千鶴お姉ちゃんならほんとにできるかもしれないね……」
 沈黙を切るためだけに口にされた言葉だった。しかし、梓以上にリアルな、料理とは方
向性の違う、包丁の間違った使い方のイメージを生起される。
 沈黙、二倍増し。
「初音、急がなくていいの?」
 先に立ち直った姉が、自分の中の千鶴に、「それ、包丁さばきじゃなくて演舞」と突っ
込みをいれながら、妹を促す。
「あ、そうだった。じゃあいってくるから、お留守番おねがいねっ」
「いってらっしゃい」
 ぱたぱたと廊下を足音が遠ざかってゆく。
 楓は、今はいない妹へ話しかけた。
「初音、ドア閉めていきなさい」








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