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 玄関の戸が開かれる音がして、それにそれほど懐かしくない声が続いた。
「ただいまー──あれ、楓と初音はいる筈なんだけどな。おーい、誰もいないのー?
──ま、いいか。耕一、もう出てきていいぞ、いないみたいだ」
「誰に対して身を隠してたんだ? 俺」
「おかえりなさい、耕一さん」
「ただいま──って楓ちゃん?!」
「楓っ?! あんたいつのまにっ」
 初めからそこにいたような顔で、静かに立っている楓。
「東京から電車は疲れたでしょう? お風呂わいてますからよかったらはいってください」
「うん、ありがとう」
「楓、あたしに挨拶……」
「初音ー、耕一さん帰ってきたわよ」
 近づいてくる足音。
「わぁ、お帰りなさい、耕一お兄ちゃんっ」
「…………」
「…………」
「ちっ、はずしたか」
 視線を逸らして舌打ちするチヅ。
「……楓、あいさつ……」
「楓ちゃん、愉快な友達がいるんだね」
「そんな生易しいものではないです」
「楓、それ、褒めてるの?」
 楓は応えなかった。褒めてないから。
「楓ー……」
「耕一さん、同級生の桧チヅです。チヅ、従兄の柏木耕一さん」
「はじめまして。し・ん・ゆ・う・の桧チヅです」
「はじめまして」
「そして一つ上の梓姉さん」
 楓に無視され続け、いぢけて膝を抱えてしゃがみ込んでいた梓が、ぱっと泣きそうな顔
を上げる。
「かえでー、もっとはやく声かけてよー」
「面白かったから」
「はじめましてー」
「はじめまして。楓と仲良くしてくれてるんだ。この子愛想ないから、最初とっつきにく
くなかった?」
「んー、そうでもないですよ、楓本心しか口にしないから。口数多くても飾った言葉ばか
り並べる人よりはずっと自分を表現してますから。わたし、逢って三日で好きになりまし
た」
「ああ、いるよね、そういう偽善者。千鶴姉みたいな」
 ──あ・ず・さ・ちゃーん
「ひっ!」
 反射的に振り返り、バランスを崩してその場に座り込む梓。妙な緊張感を煽りながら、
からからと開いてゆく戸の向こうに、微笑む千鶴の姿。鬼の力がすでに少し漏れている。
「いまなにを言っていたのかなー?」
「なっ、なんでもないです、お姉さま……」
「悪口かなー?」
 千鶴が微笑みながら後ろ手にからからと戸を閉める。逃げ場を消されてゆくような精神
的重圧に、梓の顔がひきつって、一見、笑っているような表情になる。
「梓ちゃんが帰ってくるって聞いて足立さん達に頭を下げて仕事早めにきりあげてきた姉
さんのこと、偽善者、って言ったのは、もしかして梓ちゃん、かなー?」
 千鶴は梓に歩み寄る。力の入らない脚を何とか動かして後ずさる梓だったが、上がり框
に背中があたると、もはや逃げ場所はどこにもなかった。
 小さな子供にそうするように、千鶴はしゃがんで視線の高さを梓に合わせる。
「ひぃっ!」
「ふふっ、そんなに怯えなくていいのよ。姉さん怒ってないから」
  ──嘘だ。
 その場にいた全員がそう思った(千鶴含む )。
 数秒の沈黙。
「あら? 梓ちゃんのお顔に糸くずが」
 千鶴にしか見えない糸くずへ伸ばされた手から、逃れようとのけぞる梓。
「ひぃぃぃぃ……」
「梓ちゃん、瞳孔開いてるわよー」
 言葉と同時に千鶴の指がぴとっと梓の頬に触れる。
「あ、瞳孔閉じた」
 そのまま、体の力が抜け、崩れる梓。
「あら、寝ちゃったの? 長旅で疲れたのね」
  ──気絶だって。
 その場にいた全員が心の中でそう突っ込んだ(千鶴、一人ボケツッコミ)。
「千鶴姉さん」
 楓が、それはもう軽々と梓を抱え上げた千鶴の注意をひく。
「なに、楓?」
「クラスメイトの桧チヅ。今日、泊まっていくけどいい?」
「ええ、いいわよ。はじめまして、長女の千鶴です。楓がいつもお世話になってます。く
つろいでいってくださいね」
「お世話になります──っていつ泊まっていくことになったの?」
 チヅが勝手に話を進める横の少女に、他人事のように訊ねる。
「今」
「まあいいけどね。電話一本でOK出るし、うちの親」
「……チヅの電話、私の知る限りみんな脅迫だったけど」
「結果が判りきってるのに抵抗するほうが悪い」
「そうよね」
 梓を横抱きにに抱えなおしながら、千鶴が頷く。言葉の外に妙な説得力があった。
「あと、うちの学校の謝恩会、鶴来屋でできないかって」
「ああ、もうそんな時期なのね。ええ、いいわよ、楓の謝恩会ですものね。実費でいいし
会場埋まってても何とかするから、姉さんに任せなさい」
「うん。ありがとう、千鶴姉さん」
「いいのよ、我が母校ですものね」
 からからと音をたてて戸が開く。
「ただい──あれ? わあ、耕一お兄ちゃん帰ってたんだー!」
「ただいま、初音ちゃん」
「おかえりなさい──ところで梓お姉ちゃんどうしたの?」
 無邪気に訊ねる初音に、四人は沈黙することで答える。
「──うん、わかったよ」
 何も言わなくても判ってしまう末っ子が、なんだか哀しみをさそう、冬の午後だった。




「お鍋、おいしかったねえ」
 梓が気がつくまでに要した時間分、夕食が遅れたものの、その料理自体はたいへん豪華
なものだった。
 今現在は梓以上が酒盛り、初音が後片付けをしていて、残った楓とチヅは一緒にお風呂
に入ろうとしていた。
 脱衣所で脱いだセーラー服をたたみながら会話を続けるために楓に視線を向けたチヅは、
束の間、呼吸を止めた。そのチヅの雰囲気に気づいて、楓はショーツを下ろす手を止める。
 ため息とともにチヅが本心を漏らす。
「綺麗──って服着直すなーっ」
「邪な目で見るから」
「ちょっとくらいいいじゃない──ってだから服着るなーっ」
「嘘でも否定して」
「想うだけは許してよ。想うだけにするから。わたし楓に嫌われたくないもの、だから楓
の嫌がることしないもの。これまでも、これからも」
 楓がおもむろに指を折り始める。
「…………」
「…………」
「……なにやってるの?」
「嫌だったこと数えてるの」
「…………」
「…………」
「……両手で足りる?」
「無理」
「…………」
「…………」
「……楓、時々、強気だよね」
「鍛えられてるから」
「まあ、あのお姉さん達と暮らしてきたんだもんねぇ」
「チヅにも」
「……そうですか……」


「ねえ楓、このケロヨンって桶──」
「訊かないで」




 楓達と入れ替わるようにお風呂に入った初音は、上がるところを拉致、現在、楓の部屋
に監禁されている。
 チヅと初音のおしゃべりをBGMに宿題をする。この時期に受験勉強の負担になるよう
な課題がでることもなく、放課後に少し終わらせていたこともあり、チヅの妨害を初音が
抑えている間にノートを閉じることができる。
「あ、宿題終わったの?」
「うん。宿題だけやればいい身分じゃない気もするけど」
「今日くらいいいじゃない。ねえ、初音ちゃん?」
「うん。楓お姉ちゃん成績いいから、そんなに一生懸命にならなくても平気だよ」
「初音、私はランク落としてでも東京の大学行くから」
 楓の台詞に、しゅんとなる初音。地元の大学には行かない。もう何度も話したことだっ
た。その頃から、初音の中では楓の受験勉強は、自分と姉を疎遠にするものだった。
「楓の志望校、みんな東京だもんね。なんか作為的なものを感じるのは気のせい?」
「東京には梓姉さんも耕一さんもいるから。千鶴姉さんも安心するだろうし」
「志望校の地域がかたまってたのもそのせいかー」
「ちょっと不純だけど」
「わたしは純粋よー」
 チヅは楓の志望校が決まるのを待って、自分のそれを決めた。同じ志望校。それはチヅ
の成績を考えると多少物足りないものだった。
 当然、受験校を合わせた以上、チヅに楓と違う大学へ行く気はない。
「チヅ、考え直さない?」
「なんで?」
「別に一緒の大学じゃなくても逢えるでしょ?」
「一緒の大学のほうが逢えるじゃない」
「──結局、私がちゃんと勉強しないと駄目ってことね」
 再び机に向かおうとする楓。すがりつくチヅ。
「あそんでよー」
「チヅのためでもあるんだって、判ってる?」
「あそんでよぅ」
 パジャマの上に羽織った楓のセーターを両手で握って、初音もすり寄ってくる。
 束の間呆れたような表情を見せ、そうして、楓はまだすこし湿っている初音の頭を撫で
る。
 ちいさく、つぶやく。
「甘えんぼなんだから」
「いいんだもん」
「梓姉さんみたいに暇があれば帰ってくるから」
「うん」
「梓さんてどのくらいの頻度で帰ってくるの?」
「隔週」
「……突っ込んでいい?」
「梓姉さん、もう単身赴任とか電車マニアとかマイレージコレクターとか出張多すぎて会
社に机がないビジネスマンとかあだ名つけられてるから」
「じゃあ春からは楓も電車マニアだ」
「…………」
「…………」
「…………」
「初音、月に一回くらいじゃ駄目?」
「だめだよぅ」








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