4 厚手のカーテンをぴったりと閉めた部屋の中。エアコンのかすかな送風音さえも聞こえ る、静謐の中。広いとは言えないベッドの中で、楓はチヅのぬくもりを感じている。 初め、楓の部屋に布団を敷くつもりだったが、チヅが猛反対。結局、枕だけ追加して楓 のベッドに二人で潜り込むことになった。 襲わないと約束させることを楓は忘れなかったが。 「起きてる?」 チヅの声。ささやくような声。 「うん」 目を開けると、意外とはっきりとチヅの表情が見える。 「初音ちゃんお姉さん想いのいい子だね」 「うん」 「梓さん面倒見よくて優しいひとだね」 「うん」 「千鶴さん芯が強くて暖かいひとだね」 「うん」 沈黙。 「楓、一年生の時に言ったの、憶えてる? 妹は誰にでも愛される子だって。とてもいい 子だからって」 正直、憶えていなかった。楓は首を振る。でも、言いそうなことだとも同時に思った。 「わたしね、その言葉がずっと頭から離れなかった。楓を初めて見た時、お姫様に見えた。 何も憂えることのない人に見えた。そんな人が言ってはいけない言葉だったから。楓、そ の言葉の裏で、自分は愛されない人間なんだって言ってたから。 信じられなかった。わたしは楓になりたいと思っていた。理想を具現した存在だった。 愛されない筈がなかった。なのにそう言った楓に、わたしは怒りさえ覚えた。それは憎し みに近かった。 でも、嫌えなかった。楓がとてもいい子だって知ってたから。その時には、もう」 チヅが何を言いたいのか、楓にはまだ判らなかった。けど、楓が触れられたくないとこ ろへ向かいそうな、そんな漠然とした予感はあった。 チヅが続ける。 「愛想がないからって梓さんが言ってたけど、あの言葉がすべてだと思う。楓は自分を飾 ることを知らないし、相手に媚びることも知らない。嫌な言い方だけど。言い方を代える と、自分を表現するのが下手なのよ。初音ちゃんは、天才的にそういう能力がある。今日 逢って判ったわ。初音ちゃんは自分の気持ちに正直なのよ。あなたが好き、あなたが嫌い、 こうされると嬉しい、こうされると悲しい、そういう気持ちがダイレクトに伝わってくる。 根が素直ないい子だから相手をまず好意的に見るし嫌ったりしないから、逢う人はまず好 意を持つ。いい子だってすぐに判るから好意が定着する。疑いを差し挟む余地がないから それが変化することがない。 楓は自分を伝えるのに不器用なのよ。それでなくても綺麗すぎて近寄りがたいのに。楓 に見つめられると、大体の人はまず嫌われているんじゃないかと考える。なんでだと思う? 好かれたいからなのよ。その裏返しでそう思う。だから大抵、楓には近づかないようにす る。怖いから。嫌われるのが怖いから。近づかなければ、好かれることはなくても、嫌わ れることもない、そう考えるから。でも、そのうち、こうも考える。楓から近づいてこな いのは、すでに自分が嫌われているからじゃないのか? 距離を置いたのが自分自身だと しても、そう思ってしまう」 熱意に押されるように話し続けたチヅが、言葉を切る。口調を切り替える為の間。 「楓が、魅力的だからなのよ。まさか同性の女の子にこんなに心を引っかき回されるとは 思わなかった。男に生まれなかったことを後悔するなんて考えもしなかった──わたしね、 楓がまわりの人に愛されるような環境をつくろうと思った。どうすればいいのかは判って いたから、まわりのみんなもそれを望んでいたから、それはとても簡単だった。クラスの 中で、怖くて楓に話しかけられない子ってもういないと思う」 初めて、楓は返事ではない言葉を使う。 「うん、そうだね。チヅがそうしてくれてたのも知ってた」 ありがとう。言外に含ませた言葉。 「でも、楓はきっと今でも言うよね。妹は誰にでも愛される子だって。とてもいい子だか らって」 楓は沈黙する。それが答えになる。 「それが悔しいのよ。確かに初音ちゃんいい子だけど、楓が劣っているとは思えない。初 音ちゃんがいいか楓がいいかなんて好みの問題でしかない。それを、楓は判ってくれない」 「ごめんね」 「楓、何が後ろめたいの?」 さらっと言ったチヅの言葉は、反対に、とても重いものだった。判っていてチヅは使っ た。沈黙が続いた。 「両親が死んで、代わりに家族を、耕一さんを東京に残して叔父様が家へ来て、そしてそ の叔父様が亡くなった。悲しかった。辛かった。それでもいつも通りに生活をしていかな ければならなかったことが、私には一番辛かった。生きていくっていうことは、悲しんで いるような時間を認めてくれないことだった。悲しむことは、誰かに負担をかけることだっ た。家族に、そしてチヅにも負担かけたよね?」 チヅは答えないことで答える。先を促す。 「私は、姉さん達に、そして妹にすら、私が負わなければならなかった家族としての役割 を背負わせた。家の中を私一人が暗くしていた。三人は私が叔父様っ子だったからって大 目にみてくれた。でも違うの。私が叔父様っ子だったのは叔父様にすがったから。両親を 亡くした悲しさ、辛さから逃げるために」 「悲しみに対する反応なんて人それぞれよ。お姉さん達は守るべき妹達の存在が心の支え になった筈よ。守りたいものがある時、人は強くなれるもの。初音ちゃんは大切な人が幸 せならそれが嬉しい子よ。言い方悪いけど自我が弱いのよ。自分のために、お姉さん達に は笑っていて欲しいのよ。それだけで幸せになれる子だから。反対に楓は自我が強い、決 して他人に左右されない心を持っている。楓はまず自分の心に決着をつけなければならな かった。先延ばしにすることができなかった。それは時間のかかることよ。だからみんな 先延ばしにするんだから。悲しみと正面から向かい合おうとする、もしかしたら最も辛い 選択をした楓が明るく振る舞えなかったのは当然よ。楓の心の在り方、それは欠点じゃな い。そんな孤高の心をわたしは美しいと感じる。常人が持ち得ない気高さなのよ。そんな 楓がわたしは好きなのよ」 楓は首を振る。今までと明らかに違う、感情のこもった仕草。 「ありがとう。でも、違うの。チヅが言うことはきっと正しい。だけど違うの。詳しいこ とは言えない。言えるのは、一番辛かったのは私じゃなかったこと。私より辛い選択をし た人がいたこと。その人は悲しみを先延ばしにしたんじゃない。悲しむことを許されなかっ たの──千鶴姉さんは──」 チヅは、楓が泣いているような気がした。暗くて確認はできなかった。声を聞くまでは。 「今になって判る、その時、千鶴姉さんがどれだけ辛かったか。想像するだけで、呼吸で きないくらい胸が痛くなる。千鶴姉さんには逃げるという選択肢すら与えられなかった。 ただ、長女に生まれたというだけで」 『今日、刑事さんが来たわ』 『……多分、警察は、私のことを疑ってるんだと思う。はっきりとは言わなかったけ ど、刑事さんの目がね、「あなたがやったんじゃないんですか?」って、そう言って たの』 『……私は、そんなこと言われても全然平気。だって、今までだって、さんざん同じ ようなこと言われてきたもの。会社の重役の人たちも、社員の人たちだって、みんな 言ってるわ。今回の事件で、この私だけが得をしたって。もちろん、直接私に言うよ うな人はいないけど、それでもやっぱり……聞こえてくるの』 『そんな噂も囁かれているんだもの、警察が真っ先に私を疑うのは当然のような気が する。だからなんとも思わなかったの。でもね、ただひとつだけつらかったのは……』 『たまたま、そのときそこに、耕一さんがいたことなの。できれば耕一さんには、こ の事は知って欲しくなかった……』 『……耕一さん、あのとおりの優しい人だから、きっと今まで以上に、私たちに気を 遣ってくれると思うの。彼、自分では気付いていないようだけど、随分と精神的スト レスを溜めてるみたい。ここ最近ずっと悪い夢を見るって言ってたし、今回、突然倒 れたのもそれが原因のような気がするの。……疲れてるのよ』 『もしかしたら、全く別の原因があるのかもしれないけど……』 『……それでね、楓。あなたにお願いがあるの』 『もっと自然な感じで、耕一さんに接して欲しいの。耕一さん、特にあなたに一番気 を遣ってるわ』 『……分かってるわ。……あのことを話したのは、あなただけなんだから。……あな た素直だし、隠しごとをするのはつらいでしょうけど、だからって彼を避けるのはや めて欲しいの……』 『……耕一さんね、あなたに嫌われてると思っているみたいなの。……本当はそんな ことないんでしょう?』 『……そうよね、だったら、姉さんの言うとおりにしてくれるわよね?』 『うん、いい子ね、楓』 「そのことを知っていたのは私だけだったのに。その時、少しでも千鶴姉さんの支えにな れたのは、少しでも姉さんの背負ったものを肩代わりできたのは私だけだったのに。私な にもしなかった。だって私は自分のことしか考えていなかったから。自分の中に閉じこもっ て、目の前で苦しんでいた姉さんから目を逸らしたから」 愛する人を狩らなければならない可能性を、死ぬことより辛い現実を突きつけられてい た。自分の死を覚悟するのは当たり前のことだった。 それでも、妹達の前では笑っていなければならなかった。 「千鶴姉さんの心が助けてって叫んでいたのにっ! 私だけがそれを聞いていたのにっ! 私、千鶴姉さんを見捨てたのっ! 自分が可愛かったからっ! 千鶴姉さんの苦しみを共 有して自分の辛さを増やしたくなかったからっ! 私よりも傷ついていた人を、私のこと を大切にしてくれた人を……!!」 チヅが楓の頭を抱き寄せる。泣くまいとしている少女に。泣いて楽になってはいけない と自分を戒める少女に。心はすでに泣いている少女に。涙を流して楽になってはいけない と自分を戒めている少女に。安心して泣いていいんだと伝える為に。 「ごめんなさい、千鶴姉さん……」 「それ、わたしに言うことじゃないよ?」 「……でも、千鶴姉さんに言ったら、私を許してしまう。私は、許されてはいけなから」 「残念だけど、楓の願いは叶えられないと思うな」 チヅは続ける。当たり前のことを言うように。 「千鶴さん、楓のこと許してるよ。初めから。楓が今までしたこと、しなかったこと。全 部含めて楓を許してるよ。楓も知ってる筈よ。気付いていない筈ないわ──自分が愛され ていることに」 楓を許していなかったのは楓。罪を背負ったのは楓。罰を与えたのは楓。 癒されることを拒んでいた心が生んだ幻。それが、壊されてゆく。 自分で創った罰は、現実から逃避するための場所。罪を咎められないことが生み出す罪 悪感は、とても辛いから。 現実が優しすぎて、どうしたらいいのか判らなかったのだ。今なら、判る。優しくされ たら、もっと優しくすればいい。優しい人間になればいい。優しい妹になればいい。 声をあげて、子供のように、楓は泣いた。 幻が壊されてゆく。
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