「俺は俺だよ。変わったのは、楓ちゃん、君の方だ」
「問答……無用です」

 私には。
 千鶴姉さんのように、相手を引き裂く鋭い爪はありません。もちろん、梓姉さんのように、ねじ伏せて叩き潰す程の剛力も。
 だから……、鬼の末裔でありながら、人の手が産み出したそれを、必要としました。
 一振りの刀を。
 同じく鬼の裔(すえ)、心壊れ、三界を流離(さすら)う獣となり果てた……あのひと。柏木耕一。
 その胸板を刺し貫く鉄の爪、喉元に食らいつく鋼の牙として。
 鬼の血が与えてくれた、この貧弱な爪に代えて。







お題 “楓ちゃん”
Sidestory of Kizuato

「頭上には病んだ月」

Written by ふうら







∴ 楓 ∴

「……もしも、……もしも耕一さんが、鬼を制御できないと判れば、……千鶴姉さんは、……千鶴姉さんはあなたを……」
「……あなたを……殺さなければなりません」

 あの夜。
 耕一が、楓の知る耕一ではなくなってしまった、あの夜。
 部屋の戸口に立った姉の千鶴は、悲しげな、けれど、どこか醒めた目をして言った。
 その瞳の奥に見えたのは、託された義務を果たさねばならぬ者としての覚悟。想いを包み隠した、冷たい決意。
 呪わしい運命を予感して、ただ、うち震えていた楓の目に。姉の横顔は、とても美しく、それでいて不思議と寂しく、映った。
 痛みに滲んだあの夏の夜の記憶にあって、それだけが鮮明に焼き付いている。

 窓辺には月の光。寒々しい冬の夜空に、丸い月。季節は違えども、あの夜に似て。
「……」
 白木の鞘から抜き放った刃を、ゆっくりと、月の光に翳す。
 灯りを消したホテルの部屋で、白刃が妖しく煌めく。てらてらと濡れるように、魔性に誘う。思考を止め、無心に振るえ、と。
「……っ」
 戸惑う。するはずもない、血の匂いを嗅いだ気がして。刀身より揺らめきたつ妖気に眩暈を覚えた。
 その刀は人を魅入る。人ならぬ鬼さえも剣気に酔わせる。世に言う妖刀とは、そしてまた神剣とは、そういうものである。
 神に非ざる人の子が、邪を祓い、魔を滅するには、一筋の狂気にすがるより他ないということか。
「……」
 瞳を閉じて。ざわつくココロを押し止めて。楓は静かに、破邪の御神刀を鞘に収める。
 今はまだ、早い。

 楓は思う。
 今宵こそ、私は。あの日の千鶴姉さんのように、その心を凍らせておくことができるだろうか。
 そうして、鬼にして人、人にして鬼、人外の獣となり果てた柏木耕一を、討ち滅ぼすことができるだろうか。
「……」
 想いが定まろうと、定まるまいと。
 彼は、柏木耕一は。この街の外れの神社で、私を、柏木楓を待っている。……間違いなく今は、微笑みを浮かべて。
 精神の同調。楓に、耕一が視えているように。耕一にもまた、楓が視えているのだから。
 風に舞う薄紙のように、人としての脆き情に縛られて、その迷いを繰り返す、楓の心を。人であることを捨てた耕一は、けれど嘲笑うことなく、優しげに微笑むのだ。遙か遠くに置いてきたそれを懐かしむように。
 楓にはそれが、ひどく悲しい。

 禊ぎのつもりで浴びた冷水は、気持ちをキリキリと引き締める。水の気が馴染む。楓の肌を、その黒髪を、しっとりと包み込む。
 下着だけの姿で、シャワールームを出る。スーツケースの底から折り畳まれた衣服を取り出し、身に纏う。
 仄白い胴着。蘇芳色の袴、上衣も同じく。足に履くのは白足袋、草履。
 それが彼女の、鬼狩りの装束だった。




∴ 千鶴 ∴

 相手は携帯電話なのだろう。リズムを刻むかのようなノイズが耳障りだった。
「……そうですか」
 柏木耕一を発見したという報告だった。
「わかりました、判断は、そちらにお任せします」
 そう言いながら。柏木千鶴には判っていた。
 電話の向こうの彼らはおそらく今夜のうちに戦いを仕掛け、耕一の首に対して提示された金額が、決して不等なものではなかったと知るだろう。容易き仕事と侮っていたそれに、組織的な怨恨がプラスされる。
 千鶴が資金提供することで手を結んだ相手とは、そういった連中だった。
「ありがとうございました。……はい。それでは」
 PHSの通話をOFFにする。

 一週間ほど前から。隆山を遠く離れたその街の宿泊施設のひとつに、楓らしき女性が確認されていた。
 逃亡しつつ追うものと、追いつつ逃亡する者。楓は耕一を追い求める。追われる耕一もまた、楓に惹かれて、姿を現す。
 今回は、千鶴の手配した者たちが、楓に先んじたようだった。
「猟奇殺人の犠牲者が増えるだけだな」
「……判っています。それでも」
「ああ、そうだな。組織力は必要だ。今後、柏木耕一の居場所を常に押さえておくためには」
「警察はあてにできませんから」
「同感だ」
 ソファに座り、Yシャツの袖を捲ったその男は、点滴を受けていた。流れ込む薬液を不愉快そうに眺め、時折、苦しげに顔を歪める。額には玉のような汗が浮かぶ。
 県警の元刑事、今は鶴来屋グループ会長秘書のひとりである、柳川だった。
「柏木耕一が羨ましいよ。ヤツは外に出て、狩猟者としての輝かしき日々を謳歌している。覚醒の遅れた俺は、鬼の娘の囲いもの、薬漬けの毎日で、人としての生活すらままならぬ……」
「貴方の精神が耐えられるレベルにセーブしつつ、緩やかな覚醒を促し、安定化を図る為です。人を辞めたくないのならば、我慢して下さい」
 千鶴の口調は強く、けれど辛そうに目元を伏せる。
「ふふっ、只の愚痴だよ。それが上手くいくかどうか判らなかった三年前から、頭じゃ理解しているさ。伸るか反るかに関わらず、もとより否とは言えぬ身だからな」
「……ごめんなさい。私は貴之さんの治療を盾に……」
「気にするな、ギブアンドテイクだ。貴之が生きている以上、俺は耕一のように、人を辞める訳にはいかない」
「……はい」
「ヤツには選択の余地すらなかったのだろう? 俺は幸運だったのだろうさ」
 俺にもまた、選択する権利などありはしなかったのだが……とは。柳川も敢えて言わない。彼がそう考えつつも口にしないことは、千鶴もまた判っている。
 あの日、あの時、わずかに力及ばず。千鶴の爪が仕留め損なった柏木耕一の、命を絶つ武器として。……柳川祐也とは、それ以上でも、それ以外でもなく。
 千鶴には、耕一と同じ鬼の力を人の心で支配している、安定した狩猟者が必要だった。幸運なことに、素材は、それはすぐに見つかった。
 それ、柳川にとって幸運なことに。暴走と呼ぶに値する行為を行う、わずかながらその前に、彼は千鶴に存在を見出された。……でなければ、嫌も応もなく、鬼の姉妹に抹殺されていた筈だ。
「いずれにせよ。あと少し……あと少しだ。この力を……血の衝動を、完全に安定化させ、俺自身の支配下に置き……、その上でヤツの殺害に手を貸せば……。会長、俺は貴女から解き放たれる……」
「その通りです。……約束は、守ります」
「ぐっ……うぐっ」
 柳川は歯を食いしばる。ギリギリと、尖った犬歯が軋む。その口からはうめき声が漏れる。
「はっ、はあっ、はあっ」
 点滴の針の刺しこまれた左腕が震える。右腕で掻きむしりそうになるのを懸命に堪える。
「どうか……どうか、堪えて下さい……」
「……ふっ、ふふっ、いわれずとも……、くっ」
 巨費を投じて組織された非合法の医療チームが、柳川の身体それ自体を実験対象としつつ、試行錯誤で組み立ててきた鬼種安定化プログラム。
 三年間、連日の薬物投与と幾たびかの手術を乗り越え、それはすでに終盤を迎えようとしている。投与量も減った。各種の測定値も、定期的に襲い来る暴走的鬼化衝動から柳川が解放されつつあることを示していた。
 その代償は、恐らく、大きなものとなる。
 鬼化衝動を押さえる為に調整されたこの薬剤は、改良が重ねられたとはいえ。血に混ざり、体内に薄まり拡がる過程で、極度の苦痛と精神失調を伴う。
 その一方で、蓄積された成分による副作用も心配されていた。強靱な鬼の肉体の自浄作用と再生能力がどれほどのものかにもよるが……。常人であったなら、とうの昔に神経系を壊しているに違いないのだから。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
 苦しみに強張る柳川に寄り添い、その細い身体を預けて。千鶴は彼の震えを押さえる。
「ぐっ、くくっ……、あ、あやまることしかできないとは……ぶきような……おんなだ……がっ、ぐううっ」
 朦朧とする意識の中、柳川の右手は寄り添う千鶴の頭を探り当てて、その艶やかな黒髪をぎこちなく撫でる。
「……よい……匂いだ……」
「柳川さん……」
 熱を帯びた柳川の指先が、千鶴の頬に触れる。

 その男を、目的を果たす為の手段、道具として扱うことを決めた、その時から。千鶴は報いを受けてきた。
 自分の選択した結果が、苦痛に藻掻く柳川の姿が、彼女の心を苛む。
「ぐうっ……はっ、はっ、はっ、はあっ」
 ……それでも。彼女は目を逸らすことなく、耳を塞ぐこともなく。
 只、寄り添い続ける。




∴ 耕一 ∴

 ぱん。ぱんぱん、ぱんっ。
 深夜。静まり返った神社の境内に、乾いた破裂音。

 一瞬の静けさを経て。

 ぐしゃり。叩き潰される音。
 ぼくっ。殴り、砕かれる音。
 ずざざざざざっ。弾き飛ばされて、砂利の上を転がる音。

 そしてまた、闇は静かになる。




∴ 楓 ∴

 境内へと続く石段に足を掛けた楓は、不意に身を竦ませた。動きを止めて、その場にしゃがみ込む。目を閉じ、耳を塞ぐ。
 それでも、容赦なく。耕一の見ている光景が、彼の感覚が、楓の意識に流れ込んでくる。

 取り囲む複数の男たち。黒く鈍い光沢を放つ拳銃。月明かりの下、互いの目が合う。
 発砲。
 その刹那……。血が、どくん、と脈打つ(震える楓の背には、ぞくりと怖気が走る)。
 流れ込み、荒れ狂う、鬼の力。瞬時に臨界を迎える。肉体が禍々しく膨れ上がる。獣化。
 ぷつっ。ぷつっ。ぷつっ。弾ける肉、血の飛沫。
 銃撃は獣の巨体に傷を与える。……が、それも、その獣にとっては痒いくらいのものでしかない。覚えた痛みは瞬時に消え去る。
 歪み、風に流れる視界。宙を舞い飛ぶ獣の巨体。瞬時に拡大される目標。縮まる彼我の距離。
 ……ぐしゃり。
 無造作に振り下ろした腕が、男の頭を西瓜のように潰す。
 ……ぼくっ。
 薙ぐように放った拳の甲が、別の男の胸を砕き、境内の大木のひとつに叩きつけた。
 ……ずざざざざざっ。
 跳ね上げた脚が、慌てて銃を構え直した男の肘を捉え、関節をあらぬ方向に折って曲げる。続けざまの蹴りで、弾き飛ばされ、砂利の敷き詰められた境内を転がっていく。
 皆、声をあげる間もなく、絶命する。

 ぶるぶると震えながら、叫びを噛み殺し、耐える楓。その細い腕に、小さな手に、生暖かな血で濡れた感触が残る。
 耕一が嗅いだであろう血の匂いに、けほけほと噎(む)せる。こみあげてくる吐き気を懸命に堪える。

 そして、一粒、涙が零(こぼ)れた。




∴ 記憶 ∴

 鬼と化し、姿を消した耕一。
 けれど。いつの日か、きっと戻ってくる。自らを取り戻して。
 楓はそう信じて、待つつもりだった。
 あの日、あの夜。耕一との一度きりの逢瀬で、その身体に宿した生命とともに。

 変化は、時を置かずして、訪れた。
 最初は夜の夢。徐々に、白昼夢。深く結びついた魂の絆が見せる、幻視。
 それは、鬼の血の狂騒に囚われ、修羅の境涯を彷徨い続ける、耕一の姿。
 一時、血に酔いしれ歓喜に溺れ、喧噪去りしのち、残された記憶に苦悩する。鬼の本能に絡めとられた人の心。そんな、最愛の男の姿。
 不意に鋭敏化した楓の感覚が、耕一と同調してしまうのだ。視えてしまうのだ。

 悪夢のような日々。だが……。
 耕一と苦しみを共にするそれは、楓の厭うところではなかった。
 むしろ望んでいたとも言える。
 ……耕一の中の鬼と人が、互いに相容れぬモノとして、戦っている間は。

 生まれたのは男の子だった、悲しむべき事に。
 楓は、鬼を制御し得た祖父の名を貰い、その子に耕平と名付けた。

 一年の時を経て。
 流浪の果てに、耕一は、自らの中で暴れる「鬼」を克服した。同時に、自らの中で嘆き苦しむ「人」をも、克服した。
 互いに折り合いをつけて。自らを、そういう存在として、認めたのだった。
 殺意と破壊の衝動に、ただいたずらに振り回される「鬼」でもなく。そうして、同族を殺める事を厭う「人」でもなく。
 新しい生物である、と。

 狩猟者にしろ、鬼にしろ、それ以外の何かであったにしろ。殺戮の日々が続くことに変わりはないのだが……。
 耕一の意識から、躊躇いは消えた。
 楓の希望の灯も消えた。

 一方で。
 彼女の腕に抱かれて眠る、生まれて間もない赤子。
 あるいは自分たち以上に、色濃く鬼の血を受け継いでいるかも知れない子供。
 人の心を無くした父親の、血に染まった幻影を、この子に見せるわけにはいかない。

 愛しき人をその手に掛けるという選択肢。ただその為に生きる日々。
 楓にとって、真の悪夢の始まりだった。

 姉の梓に子を預け、耕一を討つ事を決めた時。
 その手段として、楓は剣術を選んだ。自分の持ち味である「疾さ」を活かし、同時に、二人の姉たちに比して劣る「持久力の無さ」を補う。考えた末、楓が望んだのは「居合術」。
 鶴来屋の情報網をフル活用した足立氏の力添えで、幸いにもそれは見つかった。実践的な古流剣術、旧来の居合を伝える一派の門を叩く。
 礼儀作法と精神修養に堕した現代風の「居合道」とは違う、考案された当初の「短期決戦型殺人剣」に近い居合を学ぶ為に。
 相手に接近する。可能ならば懐に飛び込むも良し。同時に、鞘から刀を抜き、鋭く薙ぐ。そのタイミングこそが全て。
 一年に数日足らぬ程の短期間で。鬼の娘たる資質が、彼女に免許皆伝の腕を与えた。

 その、去り際に。
 旅立つ楓の秘めたる決意をそれとなく感じ取ったのか、老いたる師は家伝の御神刀を授けた。
 他の高弟たちに申し訳なく思う彼女がいくら辞退しようとも、老師は耳を貸さず。高弟たちも師に賛同し、楓は仕方なく、それを一時的に預かり受けた。
 妖しき気を帯びた、銘の記されていない、業物の打刀を。




∴ 楓 ∴

 石の鳥居は血に汚れていた。楓は無言で通り抜ける。
 ざっ、ざっ、ざっ……。踏みしめた砂利の音が、境内に響く。
「やあ。早かったね、楓ちゃん」
 寂れた小さなお社の、古びた賽銭箱に。ひとりの青年が腰掛けている。
 お社のひさしの薄暗がりで、月の光は届かない。……が、もちろん、その雰囲気、体格、楓が見間違えよう筈もない。
「大丈夫かい? 吐き気はもう収まったの?」
 彼もまた視ていたのだろう。嗚咽に苦しむ楓の姿を。
「……」
 楓は距離を置いて、立ち止まる。その動きに警戒しつつ、周囲に気を配る。……二人の他に、誰もいない。
 耕一が立ち上がった。楓の方へと歩き出す。
「血の匂いは人を酔わすからね。慣れないと少し苦しいかな」
 境内の片隅に、命の灯を消した幾つかの物体が積み上げられていた。人の姿をしたこの化け物が、邪魔に思って片づけたのだろう。
「年頃の女性の前だってのに、こんな格好でゴメンよ」
 返り血を浴びた、精悍な顔立ちの青年。ずたずたに千切れた襤褸(ぼろ)が、申し訳程度に身体を覆っている。その若い肉体は、溢れんばかりの生命力に満ちていた。
 柏木耕一である。
「……今日も、笑ってくれないんだね」
 この状況で、楓に笑える筈もなかった。

 柏木耕一を追い求めて、北へ、南へ。
 旅に出て一年、耕一と対峙するのはこれで三度目である。
 つまりは二度、まんまと逃げおおせられているのだった。

 ざざっ。
 脚の幅を開く。心持ち、重心を落とす。
 左手は、腰に佩く白木の鞘に。静かに右手を添えて。
「今日もまた、問答無用……か。話したいこと、たくさんあるんだけどな」
 笑いながら歩み寄る耕一。
 この期に及んで、為すべきはただひとつ。
「残念だよ、楓ちゃん」
 チャッ……。鯉口を切る。

「貴方を……斬る」




∴ 千鶴 ∴

 気の向くままに、罪なき人々を殺める。決して、飽くことなく、殺戮は続く。
 ……だが。
 同族の女である自分たち姉妹に惹かれて。いつの日か、きっと、あの鬼は戻ってくる。この隆山に。
 次こそは仕留める、間違いなく。柏木家の長として、四姉妹の長女として。必ずや、その責を果たす。

 憔悴し切った柳川は、頭部を千鶴に抱かれるようにして、うとうとと微睡んでいた。
「私は……、あの子が、楓が憎かったわけじゃないんです」
 千鶴は呟く。
「それでも、あの子を行かせたくなかった」
「それは……どちらにも死んで欲しくないから……では、ないな。もう少し、複雑だろう……」
「柳川さん、御気分は……」
「……ああ、大丈夫だ。ただ、酷く眠いな……」

「……家を、出ます」
「耕一さんを追うなんて……ダメよ、危険です。許すわけにはいきません」
 一途で頑固な妹と、家長としての正論を唱えつつも、感情的になってしまう姉。
 ヒステリックにエスカレートして、言ってしまった幾つかの言葉が。姉と、三人の妹たちの間に亀裂を作った。
「そう、よく判ったわ、楓。貴女は子供を捨てていくのね」
「千鶴姉っ! なんてコト言うんだよっ!」
「ひどいよっ! 楓お姉ちゃんの考えてること、千鶴お姉ちゃんもホントは判ってる……。それなのに……」
「……」
 黙したまま、最後に一礼して出ていった妹。悲しげに伏せた眼が、今も千鶴を苦しめる。

「あの柳川ってヤツと何企んでるか知らないけど、おかしなコトしたら承知しないからなっ!」
「黙りなさいっ! 梓には関係ない!」
「そんなもん、大アリだっ!」
「ふたりとも、もうやめてよう! へーちゃんは、へーちゃんは、絶対に私が……守るから……。耕一お兄ちゃんからも、千鶴お姉ちゃんからも……」
 忙しさを理由に、千鶴は家に戻らなくなった。

「妹の楓には、殺させない。そんなことは許さない。柏木耕一は、最愛の男は、自分自身の手で」
「……」
 千鶴の膝が堅くなる。
「……違うのか?」
「楓には、耕一さんは殺せない……むしろその手に掛かる可能性が高いとは、考えないのですか」
「貴女の妹はどうだか知らないが……もしも貴女だったら、それこそが望みなんじゃないのか」
「そんな……」
「耕一の手で死ねるのなら、貴女を縛る全ての厄介事から逃げ出せるのなら、それが本望……だろ?」
「……」
「ご立派な嫉妬だ」
「……っ」
 千鶴はぽろぽろと涙を落とす。
「もっとも……、そうやって苦しむ貴女は嫌いじゃない。優等生の顔でヘラヘラ笑っている貴女よりは、よほど好感が持てる」
 千鶴を見上げる格好の柳川は、手を伸ばし、指先で涙に触れる。
「貴方なんかに……」
「安心しろ。ヤツの心の臓を刺し貫く一瞬の隙は、俺が必ず作ってやる」
「……」
「薬漬けの鬼でも、それくらいは出来るだろうさ」




∴ 楓 ∴

 その踏み込みは完璧だと思えた。水平に払った白刃は首を刎ねて跳ばし、剣風は背へと抜ける……筈だった。
「凄いよ、楓ちゃん。今のは俺、間合いと太刀筋を完全に読み誤ってた。肘から先が落ちるかと思ったよ」
 腕を狙ったわけではない。耕一の反射神経、跳躍力は、過去二度の戦いを踏まえた楓の予測さえも、圧倒的に凌駕していたのだ。
 耕一の二の腕に赤く一筋の傷が浮かび上がる。血の糸はすぐに端から固まっていく。
「……」
「ああ、大丈夫、これくらいなら、すぐに消えるからさ」
 抜いた刀を鞘に戻し、臨戦態勢で警戒する楓。だが耕一は、そんな彼女の様子を意にも介さず、背を向けて、お社へと戻っていく。
「……っ」
 最初の斬撃を外された動揺は、楓に、次の踏み込みを躊躇させた。
「……これを、取りに戻ってたんだ。隆山へ」
 賽銭箱に立て掛けられてあった、一振りの太刀。それは、次郎衛門の残したものと伝えられる刀だった。
「そう、俺の太刀さ」
 棒切れのように。片手で軽々と扱ってみせる。
「古い製法で打たれた刀というのは、現代の刀よりも鉄の精錬度が高いそうだよ。打ち直して貰ったら、恐ろしく切れるんだ、これが」
 無造作に振り降ろす。……カタンッ。賽銭箱の角がひとつ、三角に切り取られた。
「ほらね」
 悪意なく、微笑みかける。

「刀には、刀を……。俺と楓ちゃんのコミュニケーションは、それしか残っていないじゃないかなと思ってね」
「……」
「楓ちゃん、喋ってくれないから」

 鋼の刃と刃が咬み合い、絡み合い、夜の闇に火花を散らす。

 鬼の力を秘めた剛腕から繰り出される一撃は、弾き流した楓の両腕を痺れさせる。
 耕一の攻撃は止まない。幾たびか、立て続けに斬り結ぶ。懸命に弾く。
 優美な形状の打刀に対して、相手は頑強無骨な造作の太刀である。楓の持つそれが折れないのは不思議なくらいだった。
 けれど、腕の方が保たない。

「驚いた……。少し刃こぼれしてるよ」
「っ……」
「いろはも知らない力任せの素人剣術じゃダメってコトかな」
 楓の方は、辛うじて距離を空けて。途端に、腕の痺れから、刀を取り落とす。
 一呼吸置いて、耕一の動きから目を離さずに、刀を拾う。

「楓ちゃんは、本当に、俺に死んで欲しいのかい?」
 耕一は遊び戯れるように太刀を振るう。楓はその足の捌きで外して、極力、刀では受けないようにする。
「俺は死にたくないし、だけど、もちろん、楓ちゃんを殺す気もない」
 大振りな剣風が楓の髪を揺らす。紙一重で死を頬に感じつつ、鋭い一撃を見舞う。……が、相手の隙を突くそれは、致命傷には程遠い。
「楓ちゃんが疲れ果てるのを待つか……、切羽詰まったら、楓ちゃんの脚を叩き折って逃げるよ。そうすれば、すぐには追って来れない。……こないだみたいにさ」
 楓は無言のまま、今度は突きを入れる。切っ先が喉元を狙う。
「おっと!」
 ガッ! 横薙ぎの太刀筋を力で強引に止め、その鍔で器用に受ける。

 唐突に。
「……縁側で、さ。梓のヤツ、呑気に昼寝してやがったんだ」
 耕一が何を言い出すのか、楓には理解できなかった。思い出の話かと思う。
「良く晴れた、天気のいい日で……。初音ちゃんは、只、空を見上げて、ぼんやりしてた。俺のことが見えていないみたいだった」
 発条(ばね)仕掛けの人形のように、楓は飛び退いた。自分の顔から血の気が引いていくのが判る。
 そのことは梓から聞いていた。雨月山に眠っていたヨークを呼び覚まし、以来、日がな一日、夢現(ゆめうつつ)の様子で交信を続けている、今の初音の姿だ。
「そして、梓の隣にちょこんと座って。俺のこと、不思議そうに見上げてたよ。そいつは、触ったら壊れそうなくらい、とても、ちっちゃかった」
「……っ!」
 リズムもバランスもなかった。瞬時に激昂した楓は、ただ闇雲に刀を振るい、耕一に斬り掛かる。  耕一にとって、受けて弾くのは容易かった。
「安心して。顔を見てきただけだから」
 一気に体力を消耗して、楓は肩で息をしている。

「耕平、か。爺さんの名前を貰ったんだね」
 楓はこくりと頷く。
「……俺たちに流れる血は、男には容赦ないからな」
 もう一度、頷く。相手の太刀を悲しげに睨み付けたまま。
「……でも、さ。爺さんのように、制御できる方が異常なんだ。それは狩猟者として、不完全だってことだから。一度もその手を汚さずに、済んでしまうなんてのは……」
「……」
「結局のところ。俺たちは人間じゃないんだよ」
 ふるふると、楓は力無く首を振る。耕一の言葉を否定し続ける。

「この国のあちこちを流れて歩いて、判った。かつて、俺たちのご先祖様だった何かが蒔いた種は、その血脈は……」
 楓は今一度、刀を鞘へ戻す。
「……俺たちだけじゃない。思いのほか広く、色濃く、残っているんだよ」
 言葉に惑わされてはいけない。楓は心を静めようと努める。
「彼らを目覚めさせるんだ。そして、ひとつに纏めあげるんだ」

「あの子に俺と同じ苦しみを与えたくないのなら……。おいで、楓ちゃん。俺と一緒に、そうじゃない世界を作ろう」
「……」
「さあ、おいで。……君はもう、泣かなくていいよ」

 震える心で、楓は唱える。
「叔父様……力を貸して……」

 微笑んでいる耕一。太刀を投げ捨て、楓に手を差し伸べる。
 楓は、その懐に、思いきって飛び込んだ。




∴ 梓 ∴

 夜泣きする耕平をようやく寝かしつけて。
「ふぃー、すっかり母親が板に付いちゃったよ」
 梓はとんとんと、自分の肩を叩く。……さて、お風呂にでも入ってから寝ようかな、と。
「……あ」
 廊下を歩いていて。虫の知らせか、何気なく、電話と目(?)が合ってしまった。途端にけたたましく鳴り出す電話。
「うわあっ」
 慌てて飛びついて、受話器を取る。
「こらーっ、こんな時間に、どこのどいつだー! やっと寝たんだぞっ! 子供が起きちまうじゃないかあっ!」
『……』
 梓の剣幕に驚いて。電話の向こうの誰かは思わず、二歩か三歩かそれ以上、後ずさったようだった。
 ……ゴツッ。
 何かのぶつかる音。かなり派手。
『……うっ……痛っっっ……すんっ』
「おい! ちょっと! もしもしっ! ……イタズラ電話?」
『……あ、あのっ……梓姉さん?』
「……楓っ? あんたなの?」
『そ……そう……うう、痛い……』
 電話ボックスのガラス扉に後頭部をぶつけた楓の様子が目に見えるようで、梓は大笑いした。呼び出しの音よりも、よほど騒々しい。

「……そっか。ダメだったの」
 どちらも死ななかったことで、梓はホッとしている。
 声のトーンを落としている楓に、梓は努めて明るく言った。
「いや、でも、酷い怪我しなくて良かったって。……神社半壊? そ、そりゃ、だってほら、謎のバケモンのせいだって、うん」
『……』
「……ああ、ごめん。何人か、死んだんだったね」
『……だけど、警察でもないのに……拳銃、持ってた……』
 梓の脳裏に、あのキツい目をした柳川という男の顔が浮かんだ。だけどそれは考えなかったことにする。
「耕一のヤツ、ヤクザとコト構えてんじゃないの」
『……』
「楓の気にする事じゃないよ、それは」

「……こっち? んにゃ、ぜーんぜん、変わりないよ」
 全ては相変わらず。おしなべて、こともなく。
「ん? そう、千鶴姉はあたしと喧嘩別れしたまんま。生活費を振り込むだけで、ちっとも家に寄りつきゃしない。初音は初音で、ヨークだかなんだか知らないけど、妙なもんに取り憑かれて電波入っちゃってる。大学も行かず、ぼけーっと毎日、へーと一緒に日向ぼっこしてるよ。で、あたしゃへーの世話で寝不足気味」
『……』
「……ご、ごめん。事実をそのまま言ったら、洒落になんなかった」
 それでも。
「……んでも、さ。あんまり悲観してるわけじゃないんだ」
 自分たち姉妹が、そう簡単にバラバラになってしまう筈がない。梓は信じていた。
 千鶴姉は千鶴姉なりに、考えている事があるのだろうし。楓だっていつかは戻ってくる。初音はヨークとかいうそれで、へーを守ってるらしいから、いつまでもあのままってわけじゃないだろう……と。
 妙齢の女性らしくもなく、梓はへへっと、鼻の下を人差し指で擦って、笑った。
「大丈夫。絶対に、何とかなるよ」

「楓、そろそろ一度、帰ってきな。でないとあの子、母親の顔、忘れちまうゾ」
『……』
 電話口の向こう側、楓がこくんと頷いたらしいのが、なんとなく、伝わってきた。




∴ 楓と耕一 ∴

 頭上には病んだ月。
 儚げに蒼く、そこにある。寒々しく、皓々と……。
 傍らには愛しき人。
 暖かなその腕が、楓の肩を優しく抱いている。二人一緒ならば、夜風も冷たくはないと思えた。

「それじゃ行こうか、俺たちの子を迎えに……」

 耕一の言葉に、楓は、ぎこちなく微笑んだ。
 久しく忘れていた笑顔は、すぐに泣き顔へと変わる。

 嬉しくて、いつまでも泣いていた。

...END


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