§9 それでいいと思うこと
――翌日のお昼――
「…ああ、わかってるって、……うん、ほんとにゴメン。それについては俺が
悪かった! 謝るからさー、千鶴さんもいいかげん機嫌なおしてよぉ〜」
さっきからおれは、なんべんも電話に向かって頭を下げている。無論、下げて
る相手は電話の向こう側にいるのだから、そんな事をする必要はないのだが、
受話器から聞こえてくる声の迫力に負けて、俺はほとんど条件反射的に頭を下
げている。
ポタポタと、濡れた髪からしずくが落ちる。
「……だから、初音ちゃんは、いまお風呂に入ってて、出られないんだよ」
ザーーっと部屋の奥からシャワーの音が聞こえる。
ふぅ。とにかく何とか初音ちゃんに降りかかる被害を最小限に食い止めなくて
わっ。
「もうっ、耕一さんなんて知りません! 『遠慮なくかけてきて』なんて言い
ながら、こっちには一本も連絡してくれないんですからっ。私がいったい今ま
でどれだけ心配したと思っているんですか!?」
「うぅ〜。千鶴さぁ〜ん、ごめんよぅ〜。俺が悪かったよぅ〜〜」
俺はまるで捨てられた子犬のように、哀れっぽい声を出して鳴く。
「も、もう。耕一さんたら……。そんな演技では、今日はごまかされませんよ
…」
そうは言いつつも、千鶴さんの口調からは、少しけんが取れてきた。ふふ、千
鶴さんって、何だかんだ言っても、最後の詰めが甘いんだよな。
なんで俺が千鶴さんに怒られているのかといえば、実は初音ちゃんがうちに来
たことを、千鶴さんに電話するのをすっかり忘れていたからである。俺はあの
時、完全に舞い上がっていたし、初音ちゃんはそもそも秘密で来ていたし、お
まけに俺の誕生日会の準備に追われていたため、ものの見事に双方とも気付か
なかったのであった。
……さて、それなら何故、千鶴さんがここに初音ちゃんがいることを知ったか
というと、
「まったくもう、梓が言うのがもう少し遅かったら、本当に警察に捜索願いを
出すところだったんですよ」
そう。梓のやつだ。あんにゃろ、実は今回の一件を全て知っていやがったんだ。
だいたい、おかしいとは思っていたんだよな。あの初音ちゃんが家族の誰にも
話さずに、毎晩夜遅く帰ってきたり、無断外泊できるわけないんだよ。
初音ちゃんは、俺の絵を誕生日プレゼントとして描くことを、まず夕飯の支度
の時に、梓に相談したらしいんだ。そして、誕生日の日に、俺の家にいきたい
なーというようなことを口にしたらしい。
それで、梓の変に面倒見がいいといおうか、妹想いといおうか、とにかくそん
な性格が発動して、全面的なバックアップに回ったそうなのだ。
友達のところに身代わりを頼むという入れ知恵も、全て梓がやったらしい。…
…なーにが『信じてるから』だよ! 結局、何もかも知ってたんじゃねーか、
お前は!
………。
………まあ、たしかに、あの一言のお陰で、俺は目が覚めたのも事実だし、梓
も千鶴さんに、こってりしぼられたらしいから、これ以上は何も言わないが…。
千鶴さんに『梓に文句が言いたいから替わってくれないか?』と言ったんだけ
ど、『あの子は、ちょっと……ほほほほ……』と言って、替わってもらえなか
ったし、ま、しょーがないか。
「…ふ…ふ、ふぇっくしゅっん!」
「…耕一さん、お風邪ですか?」
「いや、違うんだ。いま………」
そこで止まる。
……まさか、ここでホントのことは言えないし……(言ったら殺される)
「…うん。ちょっとね。寝冷えでもしたかな?」
俺がとっさに嘘をつくと、
「まあ。気をつけてくださいね。だんだんそちらも寒くなってくる季節でしょ
うし、……くれぐれも、お風呂から上がって、そのまま裸でいるなんてことは
ないようにしてくださいね」
「……あ、ああ。わかったよ、千鶴さん。気をつけるよ…」
千鶴さんって、時々ぼけてるのか、鋭いのかわからなくなることがあるんだよ
な。……どーか、バレていませんように!
「……うん。わかった。とにかく、一度出てきたら初音ちゃんにも電話させる
よ。…あんまり、怒らないでやってね。全部、俺が原因なんだから……。…ん、
ありがと、千鶴さん。じゃあ、また……」
ガチャン……………と受話器を置こうと思って、俺は手を止めた。
「……………」
しげしげと、その紺色の物体を見つめる。
「……お前には、ずいぶん世話になったよなぁ」
俺はそう微笑むと、その今回の功労者を、丁重に、本来あるべき場所へと戻し
てやった。
カチャ
「お疲れさん。また、頼むぞ」
そう言い残すと、俺もまた、彼女のもとへと戻っていった。
――同日、午後2時過ぎ――
「ふぅ。すっかり、遅くなっちゃったね」
初音ちゃんは、ちょっと疲れたような顔でそう言った。
俺と初音ちゃんは今、駅のホームで電車を待っているところだ。初音ちゃんは、
駅前まででいいと言ったのだが、俺はいつもはムダだと思っていた『入場券』
なる切符を買って、ここまで見送りに来ている。
「そうだね。1時には出るつもりだったのに……ま、しょうがないさ! 向こ
うの駅には千鶴さんが迎えに来てくれるんだろ?」
「うん。着いたら電話しなさいって」
「じゃあ、少しくらい遅くなったって大丈夫さ。暗い夜道を初音ちゃん一人で
歩かせるなら、俺だって慌てるけどね」
「…うん。……でも、これ以上、お姉ちゃん達に心配かけさせたくないから…」
初音ちゃんは顔を伏せて、そうすまなさそうに言った。
「……そうだね。ゴメン。俺が無神経だったよ」
俺がそう言うと、今度はぶんぶんっと首を振って否定する初音ちゃん。
……ホント、見てて飽きないな。
「そんなことないよ。……わたしも、耕一お兄ちゃんといっしょにいられて…
…あの……その……とっても、嬉しかったから……」
途中、語尾が小さくなりながらも、初音ちゃんは、最後まで俺の顔を見ながら
言った。
ちょっとまだ頬が赤いけど、とてもいい笑顔だ。
「…うん。俺も、嬉しかったよ」
同じように、にっこりと笑って応える。
今回のことで、俺は彼女の想いを再認識することができた。
そして逆に、自分の想いは『独占欲』という醜悪なものに変わりつつあったこ
とを知った。
愛するということは、その人に対して異常なまでの執着心を抱かせてしまう。
それは、『愛』には違わないのかもしれないが、自分以外の他を排除しようと
する排他性を含んでおり、下手をすれば、その『愛』の対象すらも傷つけてし
まう危険がある。
初音ちゃんが俺に向けてくれた純粋な『愛』に比べたら、俺の『愛』は何と歪
んで曇ったものになってしまっていたことか……。
あの絵の中の俺と現実の俺。
ああもはっきりと、それを見せつけられてしまったら、気付かざるをえないじ
ゃないか。
初音ちゃん……。
俺は彼女を愛している。
そしてそれは程度の差はあれ、みんなと一緒なんだ。
あの従業員も。彼女のクラスメイトも。みんな、初音ちゃんのことが好きなん
だ。
ならば、なぜ俺が、その他の人達とは異なり、彼女とこうして一緒にいること
ができるのか?
それは――初音ちゃんが俺のことを愛してくれているから――。
俺が彼女を愛し、彼女が俺を愛してくれるから、俺たちはこうして二人いっし
ょにいることができる。
それ何か運命的なつながりのような、確固としたものじゃないけど、俺はそれ
で十分だと思う。
ピンポンパンポンッ
その時、俺たちの上にあったスピーカーから、次の電車の到着を告げる声が流
れてきた。
「………電車…来ちゃったね……」
「…………そうだね……もうちょっと、おそくてもよかったのに……」
さっきとは、まるっきり逆のことを言う初音ちゃんの姿に、俺はちょっと吹き
出しそうになった。
初音ちゃんも、自分がいったことの矛盾に気がついたのか、ちょっと俯いたあ
と、ペロッと舌を見せた。
「えへへっ」
「ふふふっ」
やがて線路の向こう側に、初音ちゃんが乗る電車が見えて来た。
「…いよいよ、お別れだね」
俺がポケットに手を突っ込んだまま、そう呟くと、
「…そうだね」
彼女も両手を後ろで組んで、寂しそうに笑った。
電車の姿が、だんだんと大きくなってくる。
すっ。
俺は一歩、前に進み出た。
初音ちゃんが、ふっと顔を上げる。
プアー
警笛がなる。
俺が前かがみになるのに合わせて、初音ちゃんはスッと踵を上げた。
目を閉じる。
俺はその瞼の閉じた少女にゆっくりと……唇と唇とが軽く触れ合うだけのキス
をした。
ガアァァァーーー
スピードをゆっくりと落しながら、電車がホームに侵入してくる。初音ちゃん
の長い髪が、風邪に巻かれて、ふわっ…とたなびいた。
「………………」
「………………」
うっすらと目を開くと、彼女もちょうど、瞼を開けたところだった。
瞳と瞳が交錯してしまって、少し照れくさくなった俺たちは、そっと唇をはな
した。
プシャー
ちょうどその時、俺の目の前でドアが開いた。
ぴょんっと初音ちゃんが、電車に飛び乗る。
「じゃあ、またね! 耕一お兄ちゃんっ」
初音ちゃんは、頬を紅く滲ませながら、そう元気よく笑った。
「うん。今度は、俺の方が、初音ちゃんの誕生日をお祝いしに行くよ」
俺はその幸せそうな笑顔を、目を細めて見詰めていた。
「うんっ」
「じゃあっ」
シュー、パタン
扉が閉じる。
ガタン
車輪が動き出し、それは徐々に速い回転へと変わっていく。
俺を見る初音ちゃんの姿が、どんどん小さくなっていく。
俺はそれを黙って、その場から見ていた。
そして……。
初音ちゃんは柏木の家へと帰っていった。
「………さてと、俺も帰るかな」
誰もいない六畳一間のぼろアパートへと……。
その部屋の壁には、一枚の絵が飾られている。
そこに描かれているのは俺の姿だけど、
込められているのは彼女の心。
「ふう」
もう、闇からの声が聞えることはないだろう。
[了]