§8 想うということ
『耕一お兄ちゃん、お誕生日おめでとーっ!』
パンッパンッ
初音ちゃんがクラッカーを鳴らし、色とりどりのリボンが俺にふりかかる。
「ありかとう。初音ちゃんっ」
俺が笑顔でお礼をいうと、彼女もえへへっと満面の笑みで応えてくれる。
そう、実は今日は俺の誕生日だったりしたのだ。あの後、少しは冷静さを取り
戻した俺が、どうしてうちに来たのか訊ねたところ、返ってきたのがその答え
だった。
『どうしても、耕一お兄ちゃんのお誕生日、お祝いしたくって……』
そう顔を俯かせながらいう彼女を、俺はまたもや痛い目に合わせていまいそう
になった。
俺自身は、はっきりいって完全に忘れていた。ただでさえ、このところは初音
ちゃんのことで頭がいっぱいだったし、だいたい一人暮らしを始めてからは、
自分の誕生日なんて何か必要なときに思い出すくらいで、意識して迎えるな
んてことはなかった。
誕生日といったって、所詮は日常における一日でしかなく、なにか特別なこと
があるわけでもなかったのだが……。
「さ、耕一お兄ちゃん。ケーキの火を消してっ」
「あ、うん」
まさか初音ちゃんがじきじきに来て、祝ってくれるなんて……夢にも思ってな
かった。
テーブルの上には近くで買ってきたケーキやら初音ちゃんお手製の料理などが、
所狭しと並んでおり、とても華やかである。ホントはケーキも自分で作ってき
たかったらしいのだが、長距離を電車に乗ってゆられてくるので、断念したら
しい。
「フゥーッ」
「わあ、ぱちぱちぱちーッ。おめでとうっ、耕一お兄ちゃん!!」
俺がロウソクの火を吹き消すと、初音ちゃんは勢いよく手をたたいて、何回も
『おめでとう』と言ってくれた。
……なんか…妙に照れくさい。
狭いアパートの一室での二人だけのお誕生日会。ともすればそれは、寂しくて
白けたものになってしまいがちだが、初音ちゃんがいるというだけで、ここは
どんな豪勢なパーティー会場よりも明るく、華やいでいる。
俺自身、この突然のイベントに嬉しい限りなのだが、同時に戸惑いを隠せない
のも事実であった。
『ナゼ彼女がここにいるんだ?』
最初こそ嬉しさで浮かれ上がってしまっていた俺だが、徐々に時間が経って冷
静になっていくにつれて、様々な疑問が舞い戻ってきた。
昨日まで俺にその存在を全く感じさせず、俺の心を狂わせてきた彼女が、いま、
ここにいる。
何故!?
もちろん、それがいやなはずはない。
嬉しくて、嬉しくて、どうしようもないくらいだ。
だがそれでも、どこか釈然としないものを感じずにはいられない。
夢……。
そう。もしかしたらこれは、寂しい俺の心が生み出した夢なのではないか?
そんな気さえしてくる。
それならば、何故俺があれほど毎日電話しても繋がることなく、こちらに一本
も返してこなかった彼女が今、ここに存在するのかが理由付けられる。
そう考えていくと、目の前にいる初音ちゃんの姿が、徐々に希薄なものになっ
てゆく。
そう、これは夢なんだ。
今ここにいる彼女は、幻。
もう俺の初音ちゃんはこの世の何処にもいない……。
「おにいちゃんっ!」
ドキッ!
ハッと意識を取り戻す。
まわりの空気が急速に色を取り戻し、目の焦点が正面に座っている可憐な少女
へと定まっていく。
「どうしたの? お料理、冷めちゃうよ」
初音ちゃんが不思議そうな顔で訊いてきた。
「あ、ああ。ごめん、ちょっとボーっとしちゃってね」
「耕一お兄ちゃん、もしかして、どこか具合わるいの?」
慌てて取り繕うとする俺に、初音ちゃんは今度は心配そうな表情になって問い
かけてくる。
そんな彼女の気遣いに、俺はちょっと目を細めると、ゆっくりとかぶりを振っ
て応えてみせた。
たしかに近頃の俺は、ちょっとばかり普通じゃなかった。いや、今だってあん
な妄想を起こしてしまったんだ。ただごとじゃないだろう。
それというのも……。
「……初音ちゃん……」
俺は、まじめな顔になって、初音ちゃんの名を呼んだ。
「え? なに?」
初音ちゃんはちょっと不安そうに俺を見つめている。……多分、料理が不味か
ったのかとでも心配しているんだろう。
「…昨日、電話で言ってたよね? 今度あったとき、話してくれるって……」
「あ、あれね」
初音ちゃんは、最初ぱあっと表情をほころばせたかと思ったら、次の瞬間、急
に恥ずかしそうに顔を俯かせてしまった。
ちらっと、上目づかいに俺を見て、えへへっと微笑む。
「そ、それは……料理を、食べおわったあとでねっ」
「え? ……今じゃ、だめなの?」
「うん。…できれば、後の方がいい……」
初音ちゃんは、両手を胸に当てて、なにやら恥ずかしそうに、ぽつりと呟いた。
なんだろう? …俺が考えていたのとは、反応が違う。……でも、とにかく、
食事が済んだらちゃんと話してくれるということだ。
よーし、それならっ!
俺は今までの陰うつな気持ちを振り払うかのように、目の前で人様のテーブル
を占領している不当な輩どもに、全面攻撃をかけることにした。
よし、まずはやっぱりこいつからだ!
俺はテーブル中央付近に陣取っているそいつに、狙いを定めた。。
その中の一つを器用に箸でつかむ。
口に運ぶ。
はぐはぐ。
「ん……」
ごくり。
初音ちゃんも両手を握って、俺の一挙一動を見守っている。
「………うっ……」
「う?」
「うまぁーーいっ!! やっぱり、初音ちゃんの肉じゃがは最高だねっ!」
はぐはぐと、俺は次のジャガイモを口に運ぶ。
「ふぅ、よかったぁ」
初音ちゃんも安心したように、ほっと胸をなでおろした。
「うん! マジでうまいよ、これ。初音ちゃん、また上達したみたいだねっ」
さっきの暗い気分もどこへやら、俺がニコニコ顔で言うと、初音ちゃんはまた
また恥ずかしそうに俯いてしまった。
「……うん。お兄ちゃんに、美味しい肉じゃが、いっぱい食べてもらいたかっ
たから……。でもね、最近、お台所仕事してなかったから、うまくできてるか
ちょっと心配だったんだ」
「へえ。そ、そう? ……でも、とっても美味しいよ。これならもう、梓のを
追い越したんじゃないかな?」
俺は結構本気でそういったのだが、初音ちゃんはちょっと苦笑気味の笑顔を見
せると、それを否定した。
「どうかなあ? 梓お姉ちゃんもあれからまたすっごく上手になっちゃったか
らね。…でも……ありがとう、耕一お兄ちゃんっ。そういってもらえると……
嬉しいなぁ…」
最後はとびきりの笑顔で、にっこりと締めくくった。
俺はそんな初音ちゃんのしぐさに、ちょっとの間、ぼぅーっとしてしまった。
「……………………でもさ……」
「うん?」
「俺が美味しいと感じるのはさ、初音ちゃんが作ってくれたからなんだよ」
「えっ…?」
「初音ちゃんが俺のために作ってくれたから、こんなにも美味しく感じられる
んだ……」
「…お、お兄ちゃん……」
みるみるうちに、顔が真っ赤になっていく。
そういう俺も、多分、おんなじようになっているんだろう。
心臓がドキドキいってとまりそうもない。
俺はもう一個、ジャガイモを口の中に入れる。
はぐはぐ。
ごくん。
「……………………」
じんっと、口の中に広がる味。
なんともいえない温かさと安らぎを感じる。それはとても、素材や料理の技量
で出るものではなかった。
「……ね。美味しいよ」
「…うん…」
だまって俺の表情を見つめていた初音ちゃんが、コクンと頷く。どうやら伝わ
ってくれたようだ。
「さ、他のも早く食べちゃおう。せっかく初音ちゃんが作ってくれたんだもの。
冷めちゃったらいけないしねっ」
俺がそう言うと、まだ頬を赤く染めたまま、初音ちゃんが『うんっ』と頷く。
そして、ほぅっとした表情で俺の食べる姿を見ていた後、ややあって、
「……耕一お兄ちゃん……ありがとう……」
きこえるかきこえないかというギリギリの声。おそらく初音ちゃんは、俺は食
べるのに夢中で聞こえていないと思ったのであろう。その後は、俺といっしょ
に、にこにことして食卓についた。
だが……。
俺の耳は確実に、その言葉をとらえていた。
はぐはぐぱくぱくもぐもぐごくっ!
そして十数分後、俺はテーブルの上の敵を、きれいに撃沈することに成功した
のであった。
コポコポコポ
「はい、耕一お兄ちゃん」
「おっ、ありがとう」
初音ちゃんの注いでくれたお茶をすすりながら、俺はなんともいえない満足感
を感じていた。
それから二人して、料理の後片付けをして(自分の家の台所のはずなのに、初
音ちゃんのほうが要領がいいのは悲しかったが)、俺が再びテーブルの前に腰
を下ろしたとき、初音ちゃんが例の大きなかばんを持ってきた。
「……そういえば…それ、なんなの? けっこう大きいけど……」
俺が訊いても、初音ちゃんはニコニコしたまま、何も教えてはくれない。
「耕一お兄ちゃん。わたしがいいよって言うまで、目をつむっててくれないか
な?」
「? ああ、いいけど…またなんで?」
「ふふっ、それは見てからのお楽しみでーすっ!」
「ふぅん…」
なんだかわからないけど、俺は初音ちゃんのいう通りに目をつぶった。
「………もういいかい?」
「まーだだよっ」
「……もーいーかいっ」
「まーだーだよっ…て、…くすくす、……なんだか小さい頃を思い出すね」
そーいやー、昔はよく、柏木の広いお屋敷で、梓や楓ちゃんや初音ちゃんと、
かくれんぼをしたっけなあ。
「かくれんぼかぁ。……そういえば、楓ちゃん、異様に強かったよなあ。いつ
も見つかるのは一番最後だったし、鬼になったらなったで、俺なんか真っ先に
見つけられてたもんなあ」
一度なんて、無茶して天井裏にまで昇ったというのに、押し入れの中にいた梓
よりも先に見つけられてしまった……。
「………楓お姉ちゃんはね、お兄ちゃんのいる所がちゃんとわかるんだよ」
「……それもやっぱり、『鬼のちから』ってやつ?」
「うーん、…一応、そうなるのかな?」
「鬼だけに『鬼』になると強いってわけか……」
「……………………」
「……………………」
「………とっ、ところでっ! 初音ちゃんは弱かったよねぇ?
『頭かくして尻かくさず』って感じでさっ!」
「…え……っ、あっ!? い、いっちゃダメッ!」
「へへっ、どーしよーかなー? …あれはたしか…くまの……」
「んもぅっ、耕一お兄ちゃんのいじわるっ!」
そんなこんなをやっているうちに、初音ちゃんの方の準備ができたらしい。
ガサゴソと何かを剥がすような音がおさまった。
「………うん…。はい、耕一お兄ちゃん。目を開けてもいいよ」
「……ん……」
俺はゆっくりと瞼を開いた。
長い間つぶっていたおがげで、蛍光燈の光に慣れるのに、少し時間がかかった。
そして徐々にはっきりとしてくる視界の中で、それが浮かび上がってきた。
「………絵……?」
それが油絵だとか水彩画だとかは絵心のない俺にはわからないが、その一枚の
キャンバスに描かれていたのは、まぎれもなく…俺の姿であった。
「…こ、これって…俺…だよね?」
「うん、そう。耕一お兄ちゃんだよっ」
絵の後ろから、ぴょこんと初音ちゃんが顔を出した。恥ずかしいのか、顔の半
分を隠したまま、大きな目をくりくりさせている。
「初音のっ……お兄ちゃんの絵だよ…」
「初音ちゃんの?」
俺はその絵に近づき、手に取ってみた。
初音ちゃんがちょこんと俺の横っちょに移動する。
まじまじと絵を見る。やや短めに刈った頭に、Tシャツ姿の男。……たしかに
俺だ。顔を含めた俺の上半身の姿が描かれている。
……だが、何か違和感があった。絵の上手下手ではなく、何か根本的な違和感
が……。
「……俺、こんなやさしい顔してたっけ?」
絵から目を離さないまま俺が訊くと、初音ちゃんは『うんっ!』と元気よく応
えた。
「……初音をみてくれるときのお兄ちゃんはいつも、こんなふうに笑いかけて
くれるよ」
「えっ」
初音ちゃんの言葉を聴いた時、俺は、はたと気が付いた。
そうだ! 目線だ!
これは初音ちゃんの視点から見た、俺の姿なんだ!
いつも鏡でみる自分とはなんか違うと思っていたのだが、そういう事だったの
か。
この絵の俺は、横から見上げるように描かれており、俺自身は、顔をちょっと
下におとし、まるでその隣にいる視点――初音ちゃんを見守るかのように、と
てもやさしげで暖かな瞳を向けている。
……これが…俺の姿…。
……初音ちゃんの目にうつる…俺の……。
「……先生にね、いわれたんだ…」
「……先生?」
「うん。わたしのクラスの美術の先生。…先生が言うにはね、絵はね、心で描
くものなんだって。その人に対する自分の想いを、筆と絵の具を使って、絵に
こめるんだって。…わたし、それを聴いた時すごく感動しちゃって、……それ
でね、耕一お兄ちゃんのお誕生日プレゼントはこれにしようって決めて、先生
にお願いしてみたの」
「……誕生日プレゼント……?」
「うんっ。それでね、理由を話したら先生、喜んで絵を教えてくれて……道具
がそろっているからって先生のアトリエまで使わせてくれたんだよ」
「え……それじゃあ、車で送ってくる若い男って……」
「うん。先生だよ。わたしってへたっぴだから、ぜんぜん進まなくって…いっ
つも夜遅くまでかかっちゃうんだ。先生の奥さんもやさしい人でね、毎日お夕
飯ご馳走になっちゃった」
「…………………」
えへへっと笑う初音ちゃんに、俺は二の句がつげなかった。
「……でも…ごめんね。いちおう誕生日プレゼントだから、耕一お兄ちゃんに
は今日まで秘密にしておきたかったの。……お兄ちゃんから電話があったこと
は楓お姉ちゃんが教えてくれたんだけど、わたし、何ていったらいいかわから
なくて……それにね、ちょっと気疲れもしちゃってたから……」
「……気疲れ?」
初音ちゃんの口からとは思えない言葉だ。
「ええと、ちょっと意味は違うんだけどね…。わたし、お兄ちゃんの絵を描こ
うと思って、おじちゃんの持っていたアルバムを調べてみたの。でも……ちっ
ちゃい頃の写真ばっかりで、今のお兄ちゃんの写真って、あんまりなかったん
だ。……だからわたし、こうやって目をつむってみて、一番最初に浮かんでく
る耕一お兄ちゃんの姿を、絵に描いてみたんだよ」
そう言うと、初音ちゃんは、胸の前でぎゅっと手を握って、瞳を閉じて見せた。
ほっぺたがちょっと赤い…。
「……今でも……耕一お兄ちゃんのお顔……はっきりと見えるよ……。目がね、
とってもやさしいんだぁ。……でもね、こうやって絵を描いてると疲れちゃっ
て、……悪いとは思っていたんだけど……お電話できなかったの」
「………これが…初音ちゃんか真っ先に思い浮かんだ……俺?」
ポツリと呟く。
「え、うん、そうだよ。……初音の中の……耕一お兄ちゃん…」
俺はやや呆然とした表情で、それを見つめていた。絵の端から端までをくまな
く見回す。……すると、不意にそれが目に飛び込んできた。
キャンバスの下の隅に赤い絵の具で小さく記された文字。
――H.KASHIWAGI――
その文字を見た瞬間、俺は身体の中を、なにか電気のようなものが駆け巡って
いったのを感じた。
……H.KASHIWAGI……。
……H……。
……HATSUNE……。
……はつね……。
――初音ちゃん!――
………ポロッ…………
赤い文字の上に、一粒の雫が落ちた。
「……お兄ちゃん?」
ポロッ……ポロッ
「……ッ……」
声が出ない。
まるで体の中で膨れ上がった想いが、全身から皮膚を突き破って飛び出していくよ
うな気がする。
「お、お兄ちゃん! 耕一お兄ちゃん! いったいどうしたのっ!?」
横から初音ちゃんが、俺の腕をつかむ。
それでも心に沸き起こった激流は治まらない。
「お兄ちゃん! ねえ! だいじょうぶ!?」
ゆがんだ涙の向こうに、俺の姿を思い出しながら、筆と絵の具に悪戦苦闘して
いる初音ちゃんの姿がうかんだ。
「……ぁっ……」
鳴咽が漏れる。
「…お兄ちゃん…」
初音ちゃんまでもが泣き出しそうな顔で、ぎゅっと俺の服の袖を握ってきた。
俺はそんな初音ちゃんを誤解させまいと、どうにか言葉を紡ぐ。
「……ちっ、ちがうんだ……初音ちゃん…。……おれ、……うれしくって…。
はつねちゃんの……この……絵にこめられた、初音ちゃんの……きもちが……
……うれしくって…」
うれしくって…。
うれしくって…。
なさけなくって…。
「……耕一お兄ちゃん……」
初音ちゃんがそっと、俺の身体に寄り添ってくる。
くんっと自分の濡れた頬を俺の右腕にすりつける。
俺は絵を持ったままの格好で、心の底からせり上がってくる、激しい感情と涙
に、必死になって耐えていた。
絵の中の俺は、そんな現実世界の俺たちを、どこまでもやさしく、見つめ続け
ていた。