§7 愛しいということ
翌日。
プルルルル
また電話が鳴った。
プルルルル
カチャ
「……はい、もしもし、柏木ですが……」
「あ、耕一さんですか?」
「……千鶴さん? どうしたの、いったい?」
電話の主は柏木家長女の千鶴さんであった。
「それが…あのっ、初音が、いなくなってしまったんです!」
「な…なんだって!?」
理由を聴くとこうだ。
今朝の食事の時、初音ちゃんが、今日は友達の家に泊まってくる、といいだし
たらしい。千鶴さんは、いくらなんでもそれは駄目だと言ったのだが、初音ち
ゃんも、『今日で最後だから』と言って退かなかった。もっとも、『なに』が
最後であるかは言わなかったらしいが……。結局、決着がつかないまま初音ち
ゃんが学校に行く時間となり、そのまま家を出ていったのだが、夕方になって
も帰ってこない。今日は土曜日だから学校は半日で終わるはずだ。
梓がその友達の家に電話をしてみたところ、確かに今日は泊まる約束をしてい
たが、姉がうるさいからとの理由で、来ていないというのである。
「私がいけないんです。あの子のことを、もっと信じてあげていれば……」
その言葉は俺にズキリと突き刺さった。
「な、何言ってるんだよ、千鶴さん! だ、大丈夫だよ。初音ちゃんはしっか
りしているし、鬼の力だって一応あるんだから………。それに、あの子がそん
な些細なことで家出なんかするはずないだろ?」
「ええ、梓も同じようなことを言っているのですが……」
「だったら、俺たちも、もっと初音ちゃんのことを信じてあげようよ、ね?」
自分を完全に棚に上げているが、今は何よりも千鶴さんを落ち着かせる方が先
決だ。彼女は今まで妹たちのお母さん役をしてきただけに、心配もひとしおな
のだろう。
実際、俺だって気が狂わんばかりだ。
(初音ちゃん……いったいなにがどうなっているんだよ!)
そのオレの荒れ狂った心を支えているものこそ、今しがた千鶴さんに言った
『信じる』という言葉だった。
(大丈夫、絶対に、大丈夫なはずだ)
ここで彼女を信じられなければ、それこそ俺は、初音ちゃんを愛する資格など
ないんだ!
ピンポーン
そのとき玄関の呼び鈴が鳴った。
「…ん? 誰かきたみたいだ。…ゴメン千鶴さん、それじゃ、いったん切るよ。
また何かあったら遠慮なくかけてきて。……大丈夫だよ。うん、じゃ」
ガチャン
ピンポーン
「…ったく、誰だよ。こんなときに……」
たったったっ
ガチャリ
俺は鍵をあけ、玄関のドアを開いた。
「こんばんわー、耕一お兄ちゃんっ」
…………………………………。
目の前に……やたらと大きくて、薄っぺらいかばんを肩からかけた、制服姿の
女の子がいる。
「…………………………」
俺はそれこそ、目が点になった。
だって、そこに立っていたのは、まぎれもなく………。
――俺がこの数週間、求めてやめなかった初音ちゃんの姿だったからだ。
「はっ……はっ……」
昨日の電話の時などよりも、はるかに強烈な衝撃が俺を襲う。
自分の体が震えているのがわかる。指の先までもが思うように動かない。
わなわなと震える唇。硬直した頬。瞼を閉じることさえ忘れた瞳は、ただ一点
のみをとらえて放さない。
――その天使のような微笑みへと――
「えへへっ、ごめんね。連絡もしないで、いきなり押しかけちゃって」
「…………………」
「駅に着いた時にお電話しようとかも考えたんだけどね、直接いったほうが、
耕一お兄ちゃん、びっくりするかなーって思って…」
「…………………」
「…あ、あのっ、耕一お兄ちゃんっ?」
「……っ…………」
ピクリともせず、じっと初音ちゃんを凝視している俺。
「……あのっ……やっぱり、先にでんわ…きゃっ!」
ガシッ!!
その先を言わさず、俺は力いっぱい、初音ちゃんを抱きしめた。
ふわっ、とやわらかな髪が空を舞った。
『……はつねちゃん……』
こころのなかで、そうつぶやく彼女の名前は、何ものよりもあたたかかった。
「こ、こういちお兄ちゃんっ!?」
俺はその細いからだを、ぎゅうっ、と胸の中にうずめさせる。
まだ少しかたい、幼さの残るからだ。そのたしかな感触が、いっそう、俺に彼
女がいるということを、はっきりと認識させる。
『初音ちゃん……』
夢ではない。彼女は今、俺の腕の中にちゃんと存在しているのだ。
首もとに顔をうずめる。ある特有の香りが俺の鼻孔をくすぐる。
……シャンプーの香り。
――初音ちゃんの匂いだっ――
よりいっそう、彼女を抱きしめるちからが強くなった。
「……っ、お兄ちゃんっ! 痛いっ、いたいよぅ!」
たまらず初音ちゃんは悲鳴を上げた。
だがそれでも、俺の彼女を抱く力はゆるまなかった。
俺の頭の中にはもう、初音ちゃんのことしかなかったからだ。
……初音ちゃん。
……俺だけの初音ちゃん。
……もう、決して放しはしないっ!
「……おっ…にぃ…ちゃん……おねがい……くるしいよぉぅ……」
俺がそのか細い声に気付いたのはほとんど偶然といっても良いかもしれない。
それ程俺は自分というものを見失っていた。
「あ……ご、ゴメン!」
俺はそれこそ大慌てになって、彼女を解放した。
初音ちゃんは、コホッ、コホッと苦しそうにせきこみ、俯いてしまった。
強い後悔と罪悪感にさいなまれた俺は、その小さな背中をやさしく慈しむよう
にさすった。
俺は……一体何をやっているんだ! せっかく会えた彼女を、自分の感情に任
せていきなりこんな辛い目にあわせてしまって……。
「…初音ちゃん…本当にゴメン……俺…なんてことを……」
俺は初音ちゃんに対するすまない気持ちでいっぱいであった。
しかし、初音ちゃんは、そんな俺に向かって、ううんと首をふった。
「ううん。もとはといえば、わたしが耕一お兄ちゃんに黙って来たのがいけな
いんだから。……お兄ちゃんは悪くないよ」
「……はつねちゃん……」
このコは……本当に……なんでこんなにも……。
「でも……やっぱりちょっとはびっくりしたよ。お兄ちゃん、黙ってたと思っ
たら、いきなり…抱きしめるんだもん…」
だいぶ落ち着いてきたらしく、初音ちゃんは、そう苦笑いをしながら俺に話し
かけてきた。
「ごめんね。本当に。もう、だいじょうぶ?」
俺は背中をさすっていた手を、彼女の頭の上に移動させた。
そして、やさしく撫でる。
「うん、もう平気だよ。……でも、お兄ちゃんを驚かせるつもりが、わたしの
方がびっくりしちゃったな」
初音ちゃんはそう言って、ペロッと舌を出した。
「俺だって十分、びっくりしたさ」
「そう?」
俺の気持ちを知ってか知らずか、ちょこんと首を傾げて応える彼女。
……そりゃもう、尋常なびっくりじゃなかったんだよ、初音ちゃん!
現に今でも心臓がドキドキいっておさまらない。先ほどよりも、いくぶんマシ
にはなったが、それでも胸の底からどうしようもない程の喜びがこみ上がって
くる。
――初音ちゃんがここにいる――
――初音ちゃんが俺の目の前にいる――
――初音ちゃんが、俺のすぐ側にいてくれる――
その事実が俺の心を何処までも舞い上がらせた。
頬が緩み、目が細くなるのが自分でもわかる。
初音ちゃんは学校の制服姿であった。どうやら本当に、家に帰らず直接ここに
来たらしい。俺に頭を撫でられながら、気持ちいいのか……でもちょっと恥ず
かしそうに……なでている俺の手を見つめながら頬を染めている。
その姿がなんとも愛らしく……いとおしくて、俺はもう一度、今度はやさしく、
ゆっくりと、徐々に想いを伝えるように、初音ちゃんを包み込んだ。
ぎゅ…。
「あ……」
初音ちゃんが小さな声をあげる。でもそれは、さっきのような拒絶を意図する
ものではなかった。
頬を髪の毛にぴとっとくっつける。
「これくらいなら、いいかな?」
耳のうえで囁く。
「……うん……もうちょっと、強くてもへいき……」
腕の中からきこえる小さな声。
その声に応えるように、俺はもう少しだけ、力を込めた。
ぎゅっ…。
「ふわぁ」
そんな可愛らしい声がもれる。
「……おにいちゃん……」
頭を撫でてあげると、初音ちゃんは、スウッと力を完全に抜いて、俺にからだ
を預けてきた。俺はそれを、しっかりと抱き止める。
その後は、二人とも何も語らずに、ただただ再会の喜びに浸っていた……。