(Leaf Visual Novel Series vol.3) "To Heart" Another Side Story

for 「本日のお題」

そして、もう一人のセリオ

Episode:セリオ

Original Works "To Heart" Copyright 1997 Leaf/Aquaplus co. allrights reserved

written by 尾張





 ──毎朝、決まったバスに乗る。
 サボリの常習者だった僕が、そんな規則正しい生活に慣れてしまったのは、彼女のお
かげだった。
 いつも座席には座らず、決まってじっと窓の外を見ている彼女。
 流れるさらさらの髪、美しい横顔、そして…金属質の輝きをはなつ耳。
 そう、彼女は人間ではない。
 HM-13──セリオタイプの、メイドロボだ。
 機械に惹かれるなんておかしいと、自分の理性ではずっとそう思ってきた。
 だが、僕は彼女の姿を見るために、毎日この時間のバスに乗ってしまう。
 そんな毎日が続くうちに、自分でも認めざるをえなかった。
 そう。僕は彼女に、たぶん…恋をしたのだ。



 たぶん、といったのは、それが自分でもよく分からない感情だからだ。
 およそ、恋愛というものには生まれてこのかた縁がなかった。
 あ、いいな。と女の子を思う程度のことはあったが、真剣に付き合いたいと思ったこ
とはない。
 外見も決していいほうとは言い難いし、機知に飛んだ会話ができるわけでも、めだつ
取り柄があるわけでもない。なにより、それらを理由にして積極的にアプローチしてい
かないのが、女の子ウケがあまりよくない理由だったように思う。
 かといって、それに悲観していたわけでもない。女性と付き合いがない日常というも
のに、気楽さをすら感じていたのだから。
 ひとめ惚れ、運命の恋、身を焦がす想い。そんなのものは、物語の世界か、僕に関係
のない世界での話だと思っていた。
 セリオに会うまでは、だが。
 初めてセリオを見かけたのは、いつも大学に行くときに乗るバスの中だった。もう、
三ヶ月ほど前のことになる。
 セリオタイプ自体は、すでにかなり旧式のタイプになっている。僕が幼かった頃に、
爆発的に売れたモデルだと聞いてはいたが、近頃では話題にのぼることも、ほとんどな
かった。
 記憶に残っている限り、このセリオ以外のセリオタイプを見た覚えもない。
 そのときの僕も、物珍しさにひかれてセリオを見ていたにすぎなかった。まるで骨董
品を見るような気持ちで、セリオを観察していたのを覚えている。
 その後も、何度か同じバスに乗り合わせる機会があった。僕がその時間のバスに乗っ
たときには、必ず二つあとの停留所でセリオが乗り、僕が降りる停留所よりも先まで乗っ
ていくのだった。
 いったい、どこへ行き、なにをしているのだろう──。
 見かけるたびに、同じように窓の外をじっと見ているセリオを、いつの間にか僕は気
にするようになっていた。
 そんなある日。
 その停留所で乗り込んでくるはずのセリオの姿がなかった。
 いぶかしげに、発進しかかったバスの中から僕が外を見ると、セリオはそこにいた。
 バスに乗ろうとはしていなかった。
 迷子にでもなったのか、泣いている少女の頭を、優しくなでているセリオ。
 しゃがんで、目線を子供に合わせて話をしている姿が、徐々に遠くなっていく。
 そのときのセリオは、とても美しく、そして人間らしく見えた。
 旧型のロボットなんかじゃない。
 心優しい女の子の姿を、僕はそこに見たのだ。



 すぐ次の停留所で、僕はバスを降りた。
 講義に出る気など、すでに彼方へと消え去っていた。
 セリオがいた、前のバス停のほうへと全速力で走る。
 このあたりはそれほど停留所の間があいていないとはいえ、自分の足で走るとなると
かなり距離がある。
 湧き出てくるもどかしさを、押さえ付ける。
 しばらくして、遠くに停留所が見えてきた。
 …セリオの姿はなかった。あの、泣いていた少女の姿も。
 心臓がばくばくいっていた。
 普段運動をあまりしていない分、こういったときにキツくなる。
 そんな自分の身体を呪いながら、僕はセリオの姿を捜した。
 一通りあたりを見渡した中には、セリオの姿はなかった。
 このあたりは、見通しのいい開けた場所だ。あのあと二人がすぐに移動したとしても、
見えなくなるほど遠くへいくとも思えなかった。
 少し冷静になって、考えてみる。
 停留所のすぐそばに、コンビニがあった。あそこに入ったのだろうか。
 そう考えて店内に目を向けると、中に人の頭が見えた。
 ちょうど、棚がある高さに重なって、顔は見えない。
 だが、セリオタイプの特徴である細くて長いアンテナが、人の動きに合わさって動い
ている。
 他のメイドロボがたまたま居合わせている、という可能性も考えたが、すぐに思い直
した。
 普通の状態で、買い物をするためにメイドロボがコンビニに入るわけがない。手軽に
買い物をすませる、などというわけがないのだから。
 どちらにせよ、他の場所にセリオの姿はないのだ。確かめてみる価値はあるだろう。
 僕は、まだ少しだけ荒い息を押さえるために、大きく息を吸ってから、歩き出した。



「いらっしゃいませー」
 店員の型通りのあいさつを受けて、店内に入った。
 汗をかいた身体に、少し冷えた空気がまとわりつく。
 セリオ──と思われる姿は、店の奥のほうにあった。
 どうやら、飲み物が置かれている冷蔵棚の前にいるようだ。
 小さな女の子のはしゃいだ声が、僕の耳に届いた。
 僕は、声のほうへと身体を向けた。
 姿を確認する。
 そこにいたのは、あのセリオに間違いなかった。
 小さな紙パックの容器を手に、セリオの手を引っ張る少女と一緒だ。
「ねーねー、お姉ちゃん。わたしこれがいいー」
 明るい少女の声が、静かな店内の中に響いた。
「──それで、いいのね」
 続いて、美しい女性の声が、それに応える。
「うんっ。わたしこれ大好きだもんっ」
「セリオお姉ちゃんは、なにも買わないの?」
「──わたしは、のどが渇いてないの。あなたの分だけでいいわ」
 セリオは、優しげな、それでいて少しさみしげな笑顔を少女に向けた。
「セリオ──」
 思わず声をかけてしまってから、僕は狼狽した。
 いったい、なんというつもりだったのだろう。
「──いつも、バスでご一緒する方ですね。でも、どうされたんですか、こんなところで」
 少し首をかしげて、セリオが応える。
 セリオは、僕のことを知っていた。
「君が、この子と一緒にいるところを見てね。どうしても気になってしまって、気がつ
いたらここに…」
 僕は、正直に答えた。
 嘘をついても仕方がない…というか、本当にそうとしか言いようがなかったのだ。
 実際のところ、どうしてここにきてしまったのか。
 自分自信に問いかけてみても、明確な答えは出なかった。
「セリオと、この子のことが気になったのかな。自分でもよく分からないんだ」
 いいわけじみた言葉しか言えない僕に、セリオは嬉しそうな笑みをくれた。
「──ありがとうございます。これから、この子のお母さんを捜してあげないといけな
いのですが、一緒に捜していただけますか?」
「もちろん、そのつもりだよ」
 僕の言葉を、セリオが無条件に信じてくれたのが、そのときの僕には無性に嬉しかっ
た。



 それからほどなくして、僕たちは無事に少女の母親を見つけることができた。
 知り合いの家にやってきたのだが、軒先で話し込んでいるうちに、気がつくと娘がい
なくなっていたというのだ。
 お手数をおかけして申し訳ありませんでした、と謝る母親を前に、僕は少し照れ臭い
気持ちになっていた。
 セリオがいなければ、僕はこんなことをしようなどとはきっと思わなかったに違いな
いのだから。
「じゃあねー。お姉ちゃん、ばいばーい。また遊んでねー」
 少女の元気な声が、別れの言葉を告げる。
「──うん。また、今度ね」
 優しい微笑みを浮かべながら、セリオは手を振った。
「お兄ちゃんも、ばいばーい」
「ああ、また遊ぼうな」
 僕も、セリオと同じように手を振った。
 母親に連れられて、いつも僕らが乗るのとは反対方向のバスに、少女が乗り込んだ。
 ぷしゅー。
 大きな音を立てて、扉が閉まった。
 座席の上に乗っているのだろうか。窓に張りつくようにして、少女が一生懸命に手を
振る。
 そのまま、少女の姿が小さくなって見えなくなるまで、僕らはそこでバスを見送って
いた。



「──すっかり遅くなってしまいましたね」
 停留所で並んでバスを待つセリオが、回りを見渡しながら言った。
 次のバスがくるのは、まだかなり先だ。
「どうして、あの子の面倒を見ようなんて思ったの?」
 どうしても、疑問に思っていることを聞かずにはいられなかった。
「──私たちは、可能な限り人のお役に立つようにとの言葉をうけていますので。私の
ほうは、別に時間に間に合わないと困る用事でもなかったですし」
「だから、泣いているあの子を見過ごせなかったと…」
 型通りの言葉に、ちょっと拍子抜けした。
 だが、セリオはまた言葉を続けた。
「──実は、正直に言うと違うのです。私の中で、泣いているあの子をなぐさめてあげ
たいという感情が、他のことよりも大きくなって、見捨てておくことができなかった。
逆に、助けるだけでいい、というのであれば、あ
の子を派出所に連れていって、身柄を預けてしまうだけで義務は果たせます」
 まっすぐに前を見ながら、セリオは言葉を続けた。
「でも、それではあの子がかわいそうに思いました。少なくとも、私が一緒にいること
で不安な気持ちが少しでも和らぐのであれば、保護者の方が見つかるまでの間、そうし
てあげたいと思ったのです」
 心の中で思っていたことを、セリオは僕に話してくれた。
 それは、思っていたよりもずっと人間らしい答えだった。
 いや、もうすでにそのときには僕には分かっていたのかも知れない。
 彼女の、人を思いやる気持ちの優しさに。
 その言葉を聞いたとき、僕は自分の気持ちにはっきりと気がついた。
 僕は、彼女に恋をしたのだ。



 それ以来、セリオとバスの中で会うために、僕は毎朝同じバスに乗り込んだ。
 僕の姿を見つけると、セリオは決まってはにかんだ表情で微笑むのだ。
 子供に戻ったような気分だった。
 その、セリオの笑顔が、僕を幸せな気持ちにさせてくれる。
「──おはようございます」
「おはよう、セリオ」
 あいさつを交わすだけで、心が浮き立った。
 短い時間、僕はセリオと言葉を交わす。
 学校であったことや、昔の僕の話をすると、セリオはとても楽しそうに聞いてくれた。
 少しづつだが、セリオも自分のことを話してくれた。
 自分の持ち主──セリオは決まって『ご主人様』と言っていた──のこと。一緒にい
るメイドロボたちのこと。そして、今までに出会ったいろんな人たちのこと。
 人との出会いが、いつも楽しいのだと、セリオは本当に嬉しそうな表情で語ってくれた。
 そのときの僕は、そんな毎日が、ずっと続くものだと思っていたのだ。



 ある朝、バスの中にセリオの姿はなかった。
 すでにセリオがいることに慣れてしまった僕に、いつもは短く感じるバスの時間が、
やけに長く感じられた。
 次の日も、そしてその次の日も。
 セリオの姿を、いつものバスの中で見かけることはできなかった。
 連絡先を聞いておかなかったことを、僕は後悔していた。
 そして、セリオが姿を現さなくなってから、五日目の夜── 。
 僕の部屋で、電話のベルが鳴った。
 友人たちに教えているのは携帯電話のほうなので、部屋に備え付けの電話へかかって
くることは、あまり多くはない。
 セリオには、どちらも告げてはいなかった。
 妙な気後れがあったのだ。
 だが、もしかして──。
 わずかな期待を胸に、僕は受話器を上げた。
 電話の相手は、名前を名乗らなかった。
「セリオに、会いたいかね?」
 少し年のいった、男の声だった。
 ただ、それだけ言って、僕の返事を待つ。
「ああ」
 僕は、間を置かずに応えた。
「…セリオは、どうしてるんだ?」
「ならば、明日、いつものバスにHM-12──マルチタイプが乗る。彼女に会ってくれ」
 その質問には応えずに、男はそれだけ言うと、電話を切った。



 次の日、僕はいつものバスに乗り込んだ。
 乗ったときには、車内にマルチタイプの姿はなかった。
 いつも、セリオが乗り込んでくる停留所から乗ってくるのだろうか。
 気持ちだけが、一人歩きしていきそうだった。
 いつもの停留所に近づくと、人影が見えた。
「あっ、あなたが、セリオさんの…」
 マルチタイプが、バスに乗り込んでくるなり、僕に声をかけてきた。
「セリオさんが…セリオさんが大変なんです。わたしと一緒に、来ていただけませんか?」
 僕に会えたことで安心したのか、ほっとした表情でマルチが言った。
「行くとも。案内してくれるのかい?」
「セリオさんがいるところまで、ご案内します。それと、わたしたちのご主人様に会っていただけますか」
「セリオは、どうしているんだ」
「わたしも、あまり詳しい話は聞いていないのです。セリオさんの機能に異常が発生し
たとのことで、わたしたちとも会わせていただけないのです」
 それだけ言うと、マルチは不安そうに僕を見つめた。
「ご主人様は、あなたを呼んでくるように、とだけ言われました。あなたがくれば、セリ
オも元気になる、と」
 とりあえず、それ以上のことは聞けそうになかった。



 いつも僕が降りる停留所から、かなり長いことバスに乗っていた気がする。
 そんなつもりはなかったけども、すこしぼーっとしていたのかもしれない。
 気がつくと、マルチが僕の手を引いていた。
「ここで降ります。少しだけ歩きますので」
 見たことのない風景だった。僕が暮らしているところよりも、少しだけ田舎の匂いが
した。のんびりした空気が、僕を心地好く包み込む。
 家並みも、ぽつりぽつりと立っているくらいで、あとは広々とした畑が広がっている。
その中を、僕はマルチに連れられて歩いていった。
「ここが…?」
 十五分ほども歩いただろうか。マルチが、僕のほうを振り返る。
 目の前には、少し歴史を感じさせる古い家があった。
「ご主人様の家です。あ、そちらへ…」
 マルチに連れられて、僕は門をくぐった。
 この手の屋敷にしては、広さはさほど大きくはない。とはいえ、ワンルーム──とい
えば聞こえはいいが実態は狭い学生マンション──で生活している僕にとっては十分に
広く感じるところではあった。
「私に、ついてきていただけますか?」
 慣れた態度で、マルチは鍵を開けて僕を家に招きいれる。
「ただいま、戻りました」
 インターホンに向かって、マルチが声をかける。
 しばらくして、スピーカーから男の声が聞こえた。
「やあ、来たね。入ってくれたまえ」
 この方がご主人様です。と、マルチが僕にささやいた。
「電話をしたのは私だよ。セリオのことで、君の力を借りたいんだ。部屋までは、マル
チに案内してもらうといい」



 部屋に入った僕を迎えたのは、四十歳くらいの男だった。
「セリオが…大変なことになっていると、ここに案内してくれたマルチから聞きました」
「大変なことに…か、あの子らしいね」
「セリオに会いたいんです。お願いします」
 僕は頭を下げた。セリオに会えるのなら、土下座でもなんでもするつもりだった。
「その前に、ちょっと話しておきたいことがある。もちろんセリオのことなんだがね」
「…なんでしょうか」
 頭を上げたまえ。と、男は僕に告げてから、話し始めた。
「まず、セリオがどうして君に会えなくなったか、だが…。セリオは、事故にあってね。
道を歩いていて車と接触したんだ」
 その言葉を聞いたとき、僕の心臓が跳ね上がった。
「…それで、セリオは無事なんですか?」
 とりあえずはね。と、男がその問いに応える。
「本来、メイドロボが交通事故にあうなどということは、めったにあることじゃないん
だがね。何かに気を取られることもないし、外部の情報に対する監視は常におこなって
いるはずなのだから。…では、なぜそんなことに
なったのか?」
 僕のほうを見て、少し間を置いてから彼は話を続けた。
「少々、セリオのデータを解析させてもらったよ。すると、おもしろいことが分かった。
セリオは、君のことを考えていて事故にあったのだよ」
「…僕の?」
「そうだ。困ったことに、君のことに気を取られていたらしい。自分の危険が分からな
いほど、君に想いをめぐらせていたのさ」
 男が、僕のほうをまっすぐに見る。
「セリオが、君のことを好いているのは聞いていた。だが、ここまでくると、それだけ
の単純なことではないと思うのだがね」
「セリオが…」
 僕は、複雑な気持ちだった。
「そこから先、セリオの気持ちまでは、私は覗いていない。彼女は私にとって、娘のよ
うなものだからな。娘の日記を覗き見るようなまねは、したくないのだよ」
 複雑な笑みを浮かべながら、僕の肩を叩く。
「まあ、あとは君をセリオに会わせてから話すとしよう」
「セリオに…会わせてもらえるんですか?」
「おいおい、私をなんだと思っていたんだ。セリオをさらった悪の親玉か? もちろん、
会わせるさ。…ついてきたまえ」
 男が、立ち上がって歩き出した。
 通されたのは,病院と見間違えるような、白を基調とした清潔な色合いで統一された
部屋だった。
 そこに、セリオはいた。
 ベッドに、横たわっている。
 落ち着いた色の寝具を身にまとったセリオの姿は、いつもよりもセリオの顔だちを端
正なものに見せてくれていた。
 身体のところどころに、ガーゼが貼り付けられているのが痛々しい。
「合成皮膚が、事故のときにできた擦り傷でかなりダメになってしまったからな。新し
い皮膚を移植したのだが、こうなると人間と同じで、なじむのに結構時間がかかるんだ
よ」
 小さな声で、男が説明してくれる。
「あとは、足の機能が少しマヒしている。歩くのに少し不便なくらいかな。歪みはなかっ
たので、おそらく一時的なものだろう。これは時間がたつにつれて治っていくと思うよ」
 セリオのまぶたは閉じられていた。
 眠って…いるのだろうか。
「問題は、セリオがこの状態のまま目を覚まさないということだ。いまは充電の時間で
はないが、起きる気配がない。…まるで、伝説の眠り姫のようにね」
「それって、どういうことなんですか?」
 不吉な予感を覚えながら、僕は言葉の先を促した。
「分からないよ。原因は不明だ。致命的な身体の損傷はなにもない。考えられるとすれ
ば、彼女の心のほうだね」
「でも、目を覚まさないなんて、そんな…」
「ちょっと長い話になるのだが…ここでは話し辛いな。部屋の外へきてくれないか」
 男は、そういうと僕の返事を待たずに、扉を開けた。
 先に出てくれ。と言って、僕を部屋の外へと導く。
 僕が外へ出ると、彼はセリオの寝ている部屋の灯りを消して、部屋を出た。
 扉を閉めると、煙草を取り出して、火を付ける。
 ゆっくりと煙を吐き出してから、彼が口を開いた。
「さて、セリオの心──知能回路のほうなんだが、実はこちらには思い当たるふしがな
いでもないのだよ。彼女がああなってしまった、理由がね」
 手に持った煙草を指でいじりながら、少し間をとる。
「セリオタイプの中の、ある一時期に作られたモデルには、知能に欠陥があるというこ
とでリコール──回収がかかったという話を聞いたことはないかね」
 知りません。と僕が答えると、男は肩をすくめて、話を続けた。
「セリオタイプというのは、もともと感情を持たないんだ。彼女のように、君や他の人
間に対して、愛情に近い感情を持ったというのは、そのメーカーがいうところの『欠陥』
が作用しているのかも知れない」
 首を振って、男が唇をかみしめた。。
「それが、悪いほうに働いてしまった。それが、セリオが目覚めない原因かも知れない。
もちろん、知能回路を入れ替えてしまえば問題は解決するだろう。でも、それでは、君が
好きな『セリオ』はいなくなってしまうんだ。永遠にね」
 セリオが…いなくなる?
 僕は、男の言葉がよく分からなかった。いや、理解するのを拒んでいただけかも知れ
ない。
「セリオの気持ちは分からないが、君を好いているだろうという話は、先ほどさせても
らった。一つ聞いておきたいのは、君はセリオのことをどう思っているのか、というこ
とだ」
 彼が、僕の目を見る。
「ロボット相手に滑稽だと思われるかも知れませんが…僕はセリオのことが好きです。
彼女はとても人間らしい心をもっています。そんなセリオを見ていたい。それが、正直
な気持ちです」
「それは、セリオのことを異性として見て好きだ、という意味に取ってもいいのかな」
「そう取っていただいてもいいと思います」
 彼の目に、吸い込まれそうに感じながらも、僕ははっきりと答えた。
「セリオがあんな状態であっても、かね」
「どんなことになっても、僕がセリオのことを好きな気持ちは変わりません」
「よろしい。では、新しい知能回路に乗せ替えるという話はなしだ。いまのセリオを、
元の状態に戻すために、君の力を借りたい。…とりあえず、部屋に戻ろうか」
 満足げに彼はうなずくと、いま出てきたばかりの部屋の扉に手をかけた。
 ゆっくりと、扉が開いていく。
 暗やみの中で、なにかが動く気配がした。
 思わず、息をのむ。
 そのとき、急に部屋の中に光が満ちた。男が、灯りを付けたのだろう。
 僕がベッドのほうを見ると、セリオが身体を起こしたところだった。



「まあ、そう怒りなさんな」
「…誰も怒ってなんかいませんよ。ただ、呆れているんです。目を覚まさないというの
が、すべて作り話だったなんてね」
 セリオは、ただ眠らされていただけだった。
 部屋の中で、僕と目をあわせたセリオは、恥ずかしそうにシーツで身を隠しながら、
『──どうされたのですか?』と言った。
 僕が、泣き出しそうな顔をしていたからだろう。
 事実、ほっとした僕はそのあと不覚にも涙してしまったのだから。
 そんな僕を、セリオは不思議そうな顔をして見ていた。
 それが、『ご主人様』の仕掛けたいたずらだったと分かったときには、さすがに叱る
ような表情を見せたのだが。
 男は、ばつが悪そうにセリオのお叱りを受けたあと、
「君に、プレゼントがある。私のいたずらにしばらく付き合ってくれたご褒美、とでも
いったところかな」
そういって、机の引き出しから封筒を取り出した。A4サイズの書類が折らずに入れれる
ようになっている、大きなやつだ。
「これ…ですか?」
「そうだ。開けてみるがいい」
 男が、いたずらっぽい笑みを浮かべる。
 また、なにか昔懐かしいいたずらの品でも仕掛けてあるのではないか…などと疑いな
がら、僕はその封筒の封を切った。
 そこに入っていたのは、セリオの所有権利を記した、書類だった。
 車と同じで、メイドロボに所有登録の義務があるのは知っていたが、実際に見たのは
これが初めてだった。
「セリオを、君に譲る」
 意外な言葉に、僕は一瞬言葉を失った。
「でも──ご主人様がお困りになるのでは──」
 セリオが、複雑な表情で男に問いかけた。
「こらこら。ご主人様と呼ぶのはやめてくれと云っただろう。どうしても呼ぶならば好
きにすればいいが、もう今日からは、彼のことをそう呼ぶんだよ」
「──この方を、ですか」
「君なら、セリオを大事にしてやれるだろう。…違うかね?」
 意味ありげな表情を見せて、彼が微笑む。
「私のことなら、心配ない。マルチもいるし、他の子たちもよく働いてくれているよ」
 セリオを見て、彼は話し続ける。
「セリオは、これまで私にたくさんの幸せな時間をくれた。今度は、セリオが君と幸せ
な時間をすごす番だ」
 もう一度、彼は叱られた子供のような顔をした。
「まあ、ちょっと先走りすぎたかもしれんな。本人の気持ちも聞かないで勝手に決めて
しまったのは。…迷惑だったかな?」
「──迷惑だなんて」
「迷惑だなんて、そんなことはありません。ただ…」
 セリオと僕の言葉が、ぴったり重なった。
「あまりに突然だったので、驚きのほうが先に立ってしまって」
 僕がそこまで言ったところで、彼の表情が変化していることに気付いた。
 驚きの表情だ。その視線の先にあるのは…セリオだった。
 つられるように、セリオのほうを見る。
 セリオの瞳が、濡れていた。つぅと、涙の筋が頬をつたって、落ちる。
 ほう、と男が感嘆の声を上げる。
「驚いたな。本来、セリオタイプにはこういったときに涙を流す機能はついていないは
ずなんだが。機能がなくても涙を流せるほどに、君のことが好きだということか」
「──私は、どうかしてしまったのでしょうか」
 セリオが、困惑の声を上げた。
 まっすぐに前を見つめるセリオの目には、あふれんばかりの涙がたまっている。
 まばたきをするたびに、それが頬を幾筋もつたい落ちた。
「君は、本当の涙を手に入れたんだ…」
 男が、セリオに優しく微笑みかける。
「嬉しいときや、感動したときにも流す涙があるんだ…僕にも、そしてセリオにも」
 僕の顔にも、おそらくは微笑みが浮かんでいるのだろう。
 セリオが手にしたものは、きっと僕らを幸せにしてくれる。そんな予感が、僕の中で
生まれていた。
「幸せを感じたときに流す、涙もあるんだ」
「幸せ──これが、幸せというものなのですか」
 困惑の表情を浮かべたまま、セリオが言葉を続ける。
「私には、わかりません──ただ、暖かい気持ちを感じるのです。これまで、ご主人様
のもとで暮らしてきたときに感じた、どの気持ちとも違います」
 セリオが、僕のほうを見た。
「あなたのことが──好きです」
 セリオの唇が、言葉を、ゆっくりと形づくる。
 頭の中に、セリオの言葉が、ゆっくりと染み渡っていった。
 ベッドに横たわって、上半身だけ起こしているセリオに、僕は近づいた。
 きゃしゃな身体を、ゆっくりと抱きしめる。
「僕も、君のことが好きだよ。セリオ」
 そう、耳もとでささやいた。
 僕の気持ちを、すべて伝えられるように。
「ご主人様──いえ」
 言葉を区切って、セリオが、言いかけていた単語を言い直す。
「──さん」
 セリオが、僕の名前を呼んだ。
 世界が、暖かい光に満ちているように感じられた。
 僕がはじめて愛した、たった一人の彼女。
 それは、いま僕の腕のなかにいる、心優しきセリオだった。





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