(Leaf Visual Novel Series vol.3) "To Heart" Another Side Story

for 「本日のお題」

ある日の綾香…たち

Episode:来栖川 綾香

Original Works "To Heart" Copyright 1997 Leaf/Aquaplus co. allrights reserved

written by 尾張




「よっ」
 待ち合わせの場所に、浩之があらわれた。
 予定の時間より、少しだけ早い。
「…珍しいこともあるもんだわね。雨でも降るのかしら?」
 綾香が、天を仰ぎながら言葉を返す。
「おいおいおい、ご挨拶だな。こんなに天気がいいのに雨なんか降るわけが…」
 浩之が言いかけたとき、雲ひとつなかった空に突然雨雲が湧いてきた。
 ぽつ…ぽつ…。
 小粒の雨が、二人の頭上から降り注ぐ。
「…降ってきちゃったじゃないの」
「おかしーな」
「もう五分遅く来てくれれば、今日は一日いい天気だったのにねー」
 ──その頃、少し離れたところに止まっていたリムジンの中。
「……」
「お嬢様、なんですか? …信じるものがいれば望みはかなう、ですか。ほほう」
 ──誰か望んでいたのかは定かではない。



「仕方ないな、今日は予定変更。映画でも見に行こうか」
「せっかく楽しみにしてたのにな…」
 残念そうな顔で、綾香がつぶやく。
 浩之が、そんな綾香の肩をそっと抱き寄せた。
「オレは、綾香がいればどこだって楽しいぜ。綾香は違うのか?」
「ば、馬鹿いわないでよ。…楽しくないわけ…ないじゃない」
 終わりのほうは、浩之にも聞き取れないほどの小さな声になった。
「なんだって? よく聞こえなかったんだけど」
 頬をわずかに紅く染めた綾香が、顔を上げる。
「…なんでもない。それじゃ、リクエストしたいんだけど、いい?」
「ああ、いいぜ。見たいのがあるんだったら、まかせるよ」
「えっとね…あ、やっぱり着いてからのお楽しみってことでね」
 答えを待っていた浩之が、少し拍子抜けした顔になった。
「なんだよ、教えろよ」
「だーめ」
 ──その頃、向かいのヤクドの二階席。
「映画…食事…そして、きゃっ」
 とんでもない予知──なのか? をしてしまって顔を真っ赤に染めている琴音ちゃん
がいた。



「ちょっと意外だったかな。綾香が見たがる映画にしては」
「…なにか言いたいことがあるみたいね。いいじゃない、別に」
「いや、いいとか悪いとかじゃなくて…その、なんだ」
 声を落として、綾香の耳元に唇を寄せた。
「可愛かったよ」
 たちまち、綾香の頬が真っ赤に染まる。
「だって、浩之と見たかったんだもん」
「それにしても、誰かさんが見たら喜びそうだよなー。あの綾香が、涙を流すところ」
「なによ、気付いてたの?」
 きっと浩之を見すえて、腕を振り上げる。
「わ、悪かった。オレはなにも見てない。見てないってば」
 浩之は、頭をかばうようにしながら、冗談めかして逃げ出した。
 ──その頃、となりの映画館から出てくる人影があった。
「ああっ、やっぱりアクションは香港映画ですねっ」
 興奮した口調で、横にいる少年に話かけているボーイッシュな髪をした女の子。
「でも、ワイヤー見えてましたよ、葵先輩」
 少年が、冷静に返している。
 それはそれで幸せそうな二人は、浩之たちには気付かずに、映画論議をしながら去っ
ていった。



 並んで歩く綾香の手に、浩之の指先が触れる。
「なあ、はじめて出会った時のこと、覚えてるか?」
「…なによ、突然」
 まるではるかな過去を回想するような、少しの間があった。実際には、何カ月か前の
ことにすぎなかったのだが。
「オレ、ぼーっとしちゃったよ。綾香があんまり美人だったんで」
「な、なに馬鹿なこといってるのよ」
「ホントだぜ。まるでネコ科の動物のようにキレイでさ」
 ひと呼吸おいて、浩之が言葉を続けた。
「まあ、性格のほうもネコっぽいなーとか思ったけど。妙に砕けてて、それでいて近づ
くとひっかかれそうなところとか、な」
「ずいぶんな印象ねー」
「でも、そうだろ。実際のところ」
「ま、そういうところもあったかもね。まさかこんなことになるなんて、思ってもいな
かったし」
 綾香が、浩之の腕に身体を絡めた。
「でも、気まぐれなネコとしては、居心地がいいこの状態を放したくないのよねー」
 頬をすりよせる真似をする。
 ──その頃、二人のあとをつける影。
「ううっ、浩之ちゃん。ネコに浮気するなんて、ひどい…」
 そこでは、イヌちっくなクマ好きの幼なじみが、電信柱にもたれかかりながら悲恋の
主人公を演じていた。



「ハラ減ったな。なんか食べていこうか。今日はうち、寄っていくんだろ?」
「そうね、お邪魔しようかな」
 少し考えるふりをしてから、楽しそうに応える。
「この間みたいに、親御さんが突然帰ってきて慌てるようなこと、ないでしょうね」
 その時のことを思い出したのか、くすくすと笑う。
「あ、あれはたまたま…それに、あせってたのはそっちじゃないか」
「当たり前じゃないの。びっくりしたわよ、本当に」
「スマン。まさか、あんなところに帰ってくるなんて思ってなかったし」
 両手を合わせて拝むような格好で、浩之がわびた。
「でも──」
 綾香が、浩之の頭を引き寄せると耳もとでささやいた。
「…服を着ているときでよかったわね」
「まあ、な」
 ──その頃、少し離れた路地の影。
「ふふふ、これはスクープだわ。…問題は、これをどこに発表するかよね。うちの学校
じゃちょっとインパクトに欠けるし、寺女には潜入しづらいし。あっ、いっそのこと、
これを機会にマスコミデビューするっていうのも…」
 使い捨てカメラを手に、頭を抱えている志保がいた。



「って、なんでこんなところに入るのよ?」
 綾香が、あきれた顔で浩之に詰め寄る。
「いや、今月ちょっと苦しくて…」
「それにしても、もうちょっとムードとか考えてくれてもいいんじゃない?」
 言いながら、綾香は通りがかった店員をカウンター越しに呼び止めた。
「あ、あたし牛丼大盛りねー。味噌汁と玉子つけて」
 大盛りいっちょー、タマゴいっこ、ミソ汁いっぱいー、と店員の声がとぶ。
「…きっちり頼んでるじゃないか」
「そりゃまぁ、好恵とか葵とかと来たこともあるし…やっぱり、おなか空いてるときに
は安くて助かるのよねー」
「…ほんとにお前、庶民的なやつだなー」
 ぼそっと、浩之がつぶやいた。
 ──その頃、牛丼屋の前。
「なんや、藤田くんは女連れでこんなとこ入るんかい。今度、女の子の気持ちについて
よーく教えたらなあかんな。しかも、牛丼にカツが入ってへんやないか」
 よく分からないツッコミを入れつつ、二人に見つからないようにこそこそと去ってい
く委員長がいた。



「…こうしてると、落ち着くんだ」
 並んで座ったベッドの上で、身体を浩之にあずけながら、綾香が言った。
 二人きりになった、浩之の部屋の中である。
「オレは、綾香と二人きりでいると、落ち着かないな」
 浩之が、綾香の肩を抱き寄せる。
 えっという顔になった綾香が、上目づかいで浩之を見た。
「…Hな気分になってくる」
「もう、オヤジみたいなこと言わないでよ」
 ふふっと、綾香が笑った。
「あーあ、なんでこんなやつのこと好きなんだろう、あたし」
「そりゃ、いい男だからだろう」
「…却下」
「んじゃ、人柄の良さに惚れたとか」
「…それも却下」
 あきれ顔で、綾香が応える。
「自分で言ってて、恥ずかしくならない?」
「ちょっと、な」
 浩之が、照れ臭そうに頭をかいた。
「ま、オレだってなんで綾香のことが好きなんだって聞かれたら、困るよな」
 真剣な顔になって、浩之が言葉を続ける。
「理屈じゃなく、気付いたら好きだった」
「…口説いてるつもり?」
 返事はせず、浩之はそのまま顔を近づけた。
 二人の唇が、静かに触れる。
 少しの間があって、綾香が顔を離した。
「ずるい答えね。でも、許してあげようかな…」
 うるんだ瞳のまま、言葉を紡ぐ。
 そのまま、綾香は両腕を浩之の背中に回して、抱きしめた。
 ──その頃、陽の暮れかけた商店街。
「せっかく新しい色の下着も用意したのに、ヤッパリ校外ではヒロユキもなかなか見つ
からないネ」
 突き飛ばす相手がいなくて、しょぼんとした顔で歩くレミィがいた。



「なあ、本当にいいのか? 送らなくて」
「ま、ね。言ってもらえるのは嬉しいんだけど、色々都合もあるしね。今日は遠慮しとく」
「そっか、じゃ、気をつけて帰れよ。ま、お前に手を出すような命知らずなやつもいな
いと思うけどな」
「…人を、化け物みたいに言わないで欲しいわね。いいけど」
 なごり惜しそうに、綾香が浩之の頬に指をあてる。
 顔を寄せると、軽く唇を触れるだけのキスをした。
「またね、浩之」
「ああ。また、な」
 腕を伸ばすと、髪の中に指を梳き入れて、頭を抱え寄せる。
「…お返しだ」
 きゅっと、綾香の指が浩之の服をつかむ。
 つかのま、二つの影はそのままでいた。
 ──その頃、理緒は物語と全然関係なく、道端でコケていた。



 暗くなった帰路を、綾香は歩き出した。
 何度となく通ったことのある道だ。迷う心配はなかった。
「ちょっと遅くなっちゃったかな。…っと」
 ふと、歩みを止めて、影になっている路地の中へと声をかける。
「出てきなさいよ、まったく。隠れるなら、もうちょっと気の利いた隠れかたをするものよ」
「──ご存じでしたか」
 暗やみから、セリオの姿があらわれた。
「旦那様から、お嬢様の護衛を申しつかっておりますので──」
「はいはい。ま、適当にやんなさい」
「──それから、逢い引きはもう少し気を使ってするように、との仰せです」
 セリオの手から、感光面が完全に引き出されたフィルムが数本、地面に落ちた。
 ひとつだけ、場違いな使い捨てカメラも混ざっている。
「まったく、懲りないわねー」
「──あの人たちも、仕事ですから」
「…別に、あたしは大っぴらになってもかまわないんだけどね」
「──でも、浩之さんや回りの人たちに迷惑をかけることになります」
「そこなのよね。あーあ、こんなことならエクストリームの優勝者になんてならなけれ
ばよかったな」
 なかば本気で、綾香がため息をつく。
 エクストリームが、格闘技が好きなのは確かなのだが、それに付随するものについて
は、鬱陶しさを感じることが多くなっていたのだ。
「マスコミがどんな報道をしようと、浩之さんが綾香さまを想う気持ちは変わらないと
思います。ただ──」
 セリオが、少し言葉を切った。
「──ただ、気軽に会える今の状態がお好きなんですよね?」
「そうね。会うたびに気をつかうっていうのは、ガラじゃないし」
「ならば、私は浩之さんと綾香さまと、──旦那様のために、また働くだけです」
 綾香が、セリオの肩を軽く叩いた。
「いいとこあるじゃない、セリオ」
「──いいとこ、ですか? 私はただ、ご命令に従っているだけですが」
 くすっと、綾香が笑い声を漏らす。
「そうだったわね。ところで、迎えの車とかは来てるの?」
「──いえ、今日は目立たないようにとの仰せでしたので、歩いて参りました」
「じゃ、ちょっと急いで帰りましょ。おじいさま公認とはいえ、あんまり遅くなるとう
るさいしね」
 言うなり、綾香は軽やかなステップで走り出した。セリオが、ものも言わぬままそれ
に続く。
 少し冷たい夜の空気が、綾香の頬にあたる。
「またね、浩之…」
 誰にも聞こえない小さな声で、もう一度だけ綾香はいとしい者の名前を呼んだ。
 ──その頃、浩之の家の近くの路地裏。
「ふええええええええええん、セリオさーん」
 同じ命令を受けたはずのマルチが、セリオにも綾香にも、当然浩之にも会えずに道に
迷っていた。






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