(Leaf Visual Novel Series vol.3) "To Heart" Another Side Story

for 「本日のお題」

決戦の日

Episode:来栖川 綾香

Original Works "To Heart" Copyright 1997 Leaf/Aquaplus co. allrights reserved

written by 百道真樹




「せ、先輩。が、が、頑張って下さい。」
「おいおい、葵ちゃんが緊張してどうするんだよ?俺の出番だぜ?」

 10月5日、日曜日。日本武道館、今からエクストリーム全国大会高校生の部、男子
決勝戦。

「人の試合で緊張してたら自分の試合までもたないよ。」

 柔軟で体をほぐしながら応えた彼の名は藤田浩之。葵の高校の1ッコ先輩、アタシと
同学年だ。

「そそ、そんな、む、無理です。何で今年は女子の試合が後になってるんでしょう…?」

 青い顔をしてブツブツ呟く葵。葵、それはね、進行上の都合と言うものよ?

「と、とにかく、が、頑張って下さい」

 ガチガチになりながらも懸命に応援する。ウ〜ン、相変わらず律義と言うか、健気ね、葵…


「浩之ちゃん、頑張ってね!でも怪我だけはしないでね!?」
「心配すんな、あかり。無理すんのは俺の趣味じゃねぇ」

 彼の態度はいつも通りだ。すごくリラックスしてる。

「でも、ヒロが決勝まで勝ち進むなんてホント、信じられないわね〜」
「おいこら、志保。テメェ、応援に来てんのか、邪魔しに来てんのか、どっちなんだよ?」
「だってぇ〜、ヒロなんてついこないだまでズブの素人だったじゃない。あかり、あん
たもそう思うでしょ?」
「ううん、不思議でも何でもないよ?だって、浩之ちゃんはその気になればなんでも出
来るんだから。ねっ、雅史ちゃん?」
「そうだね。頑張ってよ、浩之」

 …その気になればなんでも出来る、か。彼女の口からこの台詞を聞いたのは初めてじゃ
ないけど、今はこの無邪気な誉め言葉を笑う気になれない。
 実際、「信じられない」ことだった。エクストリームはまだ新しい大会だけど、実戦的
で明快なルールと、賞金と、そして何よりメディアがバックについてるから注目度が高い
のとで参加選手はみんな腕に覚えがある人達ばかりだ。それこそチャンピオンクラスが
ゴロゴロしている。その中で、格闘技をはじめてから僅か半年の彼が決勝まで勝ち上がっ
てくるなんて。

「………」
「えっ?頑張ってって?運気が上昇しているからきっと勝てますって?ありがと、先輩。
芹香先輩からそう言ってもらえると心強いよ。」

 「芹香先輩」というのはアタシの姉だ。姉さんは所謂「見る」人で、しかも適当な気
休めを口にする人じゃない。姉さんが「運がある」って言うんならホントにツイてるん
だろうけど…やっぱり「運」だけで片付けられることじゃないわよね……

「んっ?どした、綾香?やけに静かじゃねえか」
「んっ、なんでもないよ。それよかここまで来たんだから、これはもう優勝しかないわ
よ、藤田クン!?」
「こらっ、プレッシャーかけんなよ」
「またまた〜プレッシャーなんて感じる神経無いくせに」
「もういい、綾香、おめえも黙ってろ。」

 いけないいけない、つい考え込んでたみたいね?あっ、ちなみに「綾香」っていうの
はアタシのこと。来栖川綾香。
 それにしても、このアタシにそんなぞんざいな口をきくのは君くらいのものよ?藤田
クン。……でも、この方がいい。姉さんもアタシも、上辺だけ丁寧な会話にはうんざり
しているから。

「あっ、先輩、審判が出てきました。合図です。」
「おう、ほんじゃまっ、ちょっくら行ってくらあ」

 コンビニに寄ってくる、くらいの軽〜い口調で試合のマットへ向かう彼。何がプレッ
シャーよ、ホント……たいしたものだわ。これだけのお客さんの前。気の弱い人ならた
だ立っているだけでも震えが止まらないだろう。それだけの視線を一身に浴びて、あっ、
相手とだから二つに分けて、かな?とにかくその中で、明らかに自分よりキャリアが上
の相手に臆する様子が全然無い。度胸があるって言うより欲が無いのかしら。飄々とし
て、雲みたいな奴ね。
 ……だから、か。だからこの大舞台でもいつも通りの力が出せる。アタシたちの前で
も普通でいられる。アタシたち姉妹を普通の友達として扱ってくれる。他の人には出来
ないことだ。
 あっ、レフェリーの右手が上がった(葵、空手じゃなくてエクストリームなんだから
「審判」はないでしょ)。いよいよ始まる。高校生で一番強い男を決める決勝戦だ。

「Fight!!」

 藤田クンの相手は高校柔道界ですごく有名な選手。確か夏のインハイでも階級別でベ
スト4になっているはず。でも本人は総合格闘技の志向が強いみたいで、トーナメント
でも半分の試合をKOで勝ち抜いてきている。ファイトスタイルもU系統のプロフェッ
ショナルレスラーに近い。
 ちなみにエクストリームは階級制を採用していない。全部、無差別級だ。相手の体重
は藤田クンの1.5倍くらいあるだろう。それでも、相手は軽いフットワークで藤田ク
ンの周りをクルクル回って簡単には仕掛けてこない。どんな相手にも油断しないってい
うのもあるんだろうけど、きっと警戒してるんだわ。
 一方藤田クンは軽く肘を曲げて左手を心臓の前、右手を水月の前に掲げ、右足を軽く
引き、僅かに踵を浮かせた体勢で相手の動きに応じて体の向きをこまめに変えている。
明らかなカウンター狙い。でも、このカウンターがすごいのよね。何といっても踏み込
みのスピードがずば抜けている。決勝までの6試合の内、5試合をカウンターで決めて
いる。カウンターのタイミングは天性のもので、こればっかりはどんなに訓練しても限
界がある。藤田クンには足腰のバネとタイミングを読む天性の資質があった。
 相手が仕掛けた。ジャブの連打からローキック。藤田クンはほとんど足首のバネだけ
でステップしてかわす。上体を振らないから体勢も崩れない。
 …彼は、本格的なトレーニングを始める前から脚力だけには目を見張るものがあった。
いっぺん無理矢理問い詰めたら、サッカーをやめてからもこっそりサーキットトレーニ
ングだけは続けていたらしい。何で隠すの?って訊いたら、照れ臭いだろ、ですって。
何でかしらね?そういうキャラクターじゃないと思うんだけど…そういえば、せっかく
の脚力だからキックを覚えたらすごい武器になるわよ、ってアドバイスしたことがあっ
たんだけど、彼は何故か聞こうとしなかった。足は体を支えて、移動させる為にあるも
ので蹴るという動作には元々無理があるんですって。だからキックはもっと上達してか
ら覚えるって言うんだけど…それは確かにその通りなんだけど…何か不自然だった気が
する……
 あっ!相手が強引に突っ込んでくる。藤田クンの素早いステップに焦ったみたい。チャ
ンスだわ!!
 右足を踏み出し、右手を突き出す。所謂順突き。順突きは逆突きに比べて力が乗りに
くいのが普通なんだけど、彼の場合は踏み込みのスピードが拳のスピードに上乗せされ
ている上に、インパクトの瞬間全身の関節をロックするように打つからその体格からは
信じられないほど威力がある。この打ち方は拳を引かないから組み打ち系の相手には捕
まりやすいはずなんだけど、そんな躊躇は微塵も感じさせない。それに順突きは体の回
転で前に来ている手で打ち込む関係上、間合いが長いというメリットがある。順突きと
逆突きで同時に打ち合った場合、順突きだけが相手の体に届くという訳ね。いったいど
こでこんな打ち方を覚えたのかしら?
 ドン!っていう音が聞こえたような気がした。藤田クンの突きが見事に相手の胸、
中丹田と呼ばれる急所に決まる。そして彼は右手を引くと、もう一度鋭く踏み込み相手
の腹に左右揃えた両の掌を打ち込む。虎形拳と呼ばれる形意拳の技だ。葵と一緒に形意拳
の道場に通って、この技だけを覚えてきたらしい。
 相手が蹲る。ボディブローだけでKOというのはとても難しいのだけれど、ボディブ
ローで倒した相手はまず立ち上がれない。体の機能が狂ってしまうからだ。

「………Ten!」

 やった!一本目先取だ!!エクストリームは5分三本勝負。インターバルは1分。あの
ダメージはそう簡単に回復しない。圧倒的に有利だ。

「やったーーーっ、浩之ちゃん、やったぁ!」
「先輩、すごいっ、すごいです!!」
 パチパチパチ

 みんな大はしゃぎ。無理もないわ。今迄このパターンで勝ち上がってきたんだから。
…それにしても、中国拳法には100の技を知る者より1の技を極めた者を怖れよ、って
諺があるそうだけど、まさに1の技の恐ろしさね。それを試合に生かせるセンスはもっと
すごいけど。
 二本目が始まった。固唾を飲んでマット上を見詰めるアタシたち。相手は平気な顔こ
そしているけど動きがどことなくぎこちない。まだダメージが残っているんだろう。チャ
ンスよ、藤田クン!

「あっ!?」
「浩之ちゃん!?」
「ヒロっ!?」

 低い姿勢に構えた相手がタックルを仕掛けてくる。それを再び虎形拳で迎え撃つ藤田
クン。相手の頭を見事に抑える。間違いなく脳震盪を起こしたはずだ。……だが、相手
は倒れなかった。崩れ落ちながらも藤田クンの腰にしがみつき、強引にグラウンドへ持っ
ていく。すごい勝負への執念。意識は朦朧としているはずなのに藤田クンの足を極めに
かかる。巧みに体を捻って逆に相手の腕を極めにかかる藤田クン…これがいけなかった。
最後の最後でキャリア不足が出てしまった。二転三転の末に、膝十字をガッチリ極めら
れてしまう!
 すぐにタップしたのだけど、関節技は本来かけた瞬間の勢いで関節を破壊する技だ。
ガッチリ極まった膝十字で靭帯を傷めてしまったらしい。三本目は棄権するしかなかった…

「浩之ちゃん、大丈夫?浩之ちゃん!?」
「ばーか、泣く奴があるか。すぐにギブアップしたから大したこたねえよ。言ったろ?
無理すんのは俺の趣味じゃねえって」

 半分べそをかいて幼なじみの彼女が藤田クンにしがみついている。しょーがねーなー、
というお得意の表情で藤田クンはそれを宥めている。確かに冷静な判断だった。あれは
どうもがいても逃げられなかった。負けを認められない者が大怪我をして結局選手生活
を棒に振るのだ。

「藤田クン、立派だったよ」
「おいおい、どうしたんだ、綾香?負けちまって立派だった、もねえだろ?」
「ううん、負けを認めることが出来るってとても大切なことだよ。それに準優勝じゃな
い。立派な成績だよ。」

 芹香姉さんや葵、そして藤田クンの幼なじみさんたちもみんながウンウン肯いている。
そうだよね。たった半年で全国大会準優勝だもん。誰にも真似出来ないよ。

「……ありがと、な」

 あっ、照れてる。さっきまでの飄々とした様子が嘘のよう。何だか可愛いって思って
しまった……

       ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 エクストリーム大会高校生の部の結果は、男子の部で彼が準優勝。女子の部で葵がこれ
また準優勝。そして優勝はア・タ・シ。でも今回は苦戦だったわ。葵、腕を上げたわね?
…やっぱり、彼がついているからだろうか?彼と一緒のトレーニングが葵の潜在能力を
引き出しているのだろう。それにしてもあいつったら、どっちを応援する?って訊ねた
アタシに間髪入れず葵ちゃんに決まってるだろ、ですって。失礼しちゃうわ。少しくら
い悩むものよ、藤田クン。でも、その後で

「俺はもちろん葵ちゃんを応援するけど、綾香も頑張れよ。いい試合になるといいな」

って言ってくれたのはちょっと嬉しかった。葵とは同じ学校で同じ部活だから応援する
のはあたりまえ。アタシにも頑張れって言ってくれたのはきっと彼の不愛想な思い遣り、
そんな気がする。
 そして今、みんなで彼の家に集まっている。アタシの家だと何かと大袈裟になるし、
彼が気心の知れた仲間だけで打ち上げ(祝勝会、ではない!この辺りがいかにも藤田クン
らしい)をしたいって言ったからだ。気心の知れた仲間、にアタシも入れてくれたのは
正直嬉しかった。もっとも、仲間外れにするような人じゃないんだけど…
 幸いなことに彼の右膝は軽い捻挫ですんでいた。湿布をしていれば1週間程度で完治
するとのことだ。もちろん、日常生活には支障ないとのお墨付きをもらっている。来栖川
家の専属医師の診断だ、間違いない。彼はアタシたちが座っていろというのも聞かず、
あかりの(いつのまにか呼び捨てになってしまった。アタシって…)手料理をキッチン
から運んできている。…なんと言うか、息の合った二人だわ。お互いがしっくりおさまっ
ている、そんな感じ。やっぱり恋人同士かしら。気立てはいいし、お料理も上手いし、
奥さんにするには最高よね……
 はっ、アタシったら一体何を…

「何だ綾香、ジュースで酔っ払っちまったのか?」

 しまった、赤い顔をしていたらしい。アタシとしたことが…

「それとも今ごろ勝利を噛み締めているのかな、この女王様は」
「……やめてよ、変な趣味の人みたいじゃない」

 失礼しちゃうわ。

「でも、優勝はともかく久しぶりにいい試合だったわ。葵、腕を上げたわね?」
「そんな…私なんかまだまだですよ」
「いーや、そんなことはないぜ、葵ちゃん。俺の見たところ実力の差はわずかだぜ。
綾香、おめえも次はウカウカしてらんねーな?」

 ムカッ……偉そうに。確かにその通りだけどなんか面白くない。

「あら、ウカウカしてられないのは藤田クンの方でしょ?次からはみ〜んな君のコトを
マークしてくるわよ」
「そんなもんかね?」

 あっ、笑ってる。本気にしてないな。それとも関心が無いのかしら。自分が妙にむき
になっていくのがわかったけど、止められない。

「そうよ!だからもっと攻撃のパターンを広げないと、準優勝が次は一回戦負けじゃみっ
ともないわよ!?」

 アタシ、何熱くなってるのかしら?

「やっぱりキックよね。せっかくの脚力なんだから。何にこだわってるのか知らないけ
ど、使わなかったらもったいないわよ。」

 ……あれ?何だか暗い雰囲気。あかり?それに佐藤クンまで、何深刻な顔してるの?

「浩之…まだこだわっているのかい?」
「いんや、もう昔のことだ。」
「でも、浩之ちゃん…!」
「パーカ、勘違いすんなよ。キックを使わないのは単にテクが無いだけだ。お前が思っ
てるような理由じゃねえよ。」
「ねえねえ、何のこと?」

 アタシ、何か悪いこと言った?

「浩之、本当にもうこだわっていないんだね?」

 だが佐藤クンはアタシの質問に答えず、藤田クンに向かって意味深な台詞を投げた。

「ああ」
「じゃあ、綾香さんに教えてあげても構わないかい?」
「……それで雅史が納得するなら構わないぜ」

 あっ、なんかヤバそう。聞かない方がいいような気がする。
 佐藤クンは真面目な表情でアタシの方に向き直っておもむろに口を開いた。

「綾香さん、浩之が中学二年までサッカーやってたのは知ってるよね?」
「え、ええ」
「浩之がサッカーやめたのには訳があるんだ。」

 ヤバい、絶対ヤバい。これ以上聞いちゃいけない。だけど、どうして?止めさせられ
ない。止めてって言えない。

「浩之はすごい選手だったよ。同じポジションの上級生の手前レギュラーにはなれなかっ
たから目立たなかったけど、シュート力は大学選手並みって言われてたくらいだから。」

 佐藤クン、自分のことでもないのに悔しそう。そうか、佐藤クンは今でも藤田クンに
サッカーをして欲しいって思ってるんだ。

「二年の、夏の県大会予選で、僕たちはサブでベンチ入りしたんだ。地区予選の準決勝、
出番が回ってきた。」

 あかり、何だかすごく辛そうな顔してる。藤田クンは…全くの無表情だ。

「自分で言うのもなんだけど、僕たちは大活躍だったよ。前半だけで僕は2アシスト、
浩之は2ゴール。当然、後半から僕たちへのマークは厳しくなった。そして、敵のゴール
前で」

 言葉を切って心配そうな目で藤田クンの方をみる佐藤クン。藤田クンが何の反応も見
せないので決心したような表情で話を続ける。

「敵のディフェンダーが浩之の足元にタックルをかけてきたんだ。浩之はその時シュート
の体勢に入っていた。足を止められる状態じゃなかった。結局……振り抜いた浩之の足は
ボールじゃなく相手の足に当たって、相手の足を折っちゃったんだよ……」
「……」

 ……言葉が出ない。

「アクシデントだったんだ。浩之の所為じゃない。だけど」
「だけどそれ以来、俺はボールを思いっきり蹴れなくなってしまった、って訳さ。退部届
を出したのは一週間後だ。……もう昔のことだぜ。」

 何か、何か言わなくちゃ!……でも、何も思い浮かばない。綾香、どうしたの?アタシ
らしくないわよ!?

「浩之」
「ああ」
「僕は今日、嬉しかったよ?久しぶりに本気の浩之が見れて。浩之らしい浩之を見ること
が出来て。それがサッカーじゃなかったのは残念だけど」

 ……ダメ。どうしても言葉が出ない。

「も、もう、湿っぽい話は止めましょう?乾杯しましょうよ!?ヒロのまぐれと綾香達の
活躍に!」
「……志保、もう少し言い様ってもんがあんだろが!?喧嘩売りに来てんのか?」

 志保、ナイスフォロー!!

「そ、そうね!あたしジュース持ってくる。」
「あっ、あかり、アタシも手伝うわ」

 情けないことだけど、アタシはその場を逃げ出してしまった。

       ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 ばふっ

 服を着たままベッドに突っ伏してしまう。枕に顔を埋めたまま、何もする気になれない。
……どのくらい時間が経っただろう。控え目なノックが続いていることにようやく気が
付いた。

「……はい?」

 かちゃ

 入ってきたのは芹香姉さんだった。
 姉さんはアタシの顔を見てほんの少し表情を曇らせて、(でも他の人にはわからない
と思う。相変わらず無表情にしか見えないはずだ。わかるのはアタシと……藤田クンく
らいかしら?)いつも通りの小さな声で、だけど優しく呟いた。藤田さんのことが気に
なりますか……って。

「うん……」

 自分でも思いがけないくらい素直に肯いてしまう。

「アタシ、ね、知らなかった。だけど、知らなかったから何をしてもいいってことには
ならないよね…」

 アタシ、落ち込んでるんだ……改めて気付いた。自分がとんでもなく無神経な気がし
て、それでさっきからふさいでるんだ……

 撫で撫で撫で……

 あっ!

 いつの間にか姉さんが俯いてたアタシの隣に座って、アタシの頭を撫でてくれた。
……いつもだったら子供扱いしないでって思うんだけど、今は姉さんの優しさがとても
心地いい。

「………………」

 えっ!?

 藤田さんのことが好きなんですね……って、姉さん?

「ど、どうしたのよ突然……そんなんじゃないわよ。だって藤田クンにはあかりがいる
し、姉さんだって藤田クンのことが好きなんでしょう?」

 自分の言ってることが支離滅裂だって口にしてから気が付いた。全然答えになってない。

「藤田さんは大切なお友達です。恋愛の対象に出来ないくらい大切な人です。」

 相変わらず小さな小さな、でもはっきりした声。

 姉さん……

 でも、綾香は違うのでしょう…?姉さんはそう続けた。私は藤田さんと一緒にいられ
るだけでいいけど、綾香は藤田さんに微笑んで欲しいんでしょう?

 ……姉さん……

「藤田さんのことが気になるんだったら直接会いに行ってはどうですか……?」

 小さな小さな、でも力強い声。
 そうよね、ふさぎ込んでるだけなんてアタシらしくないよね。悪いことをしたんだっ
たら、謝りに行けばいいんだわ!

「うん、わかった。姉さん、ありがとう。」

 この時の、無表情だけどとても優しい姉さんの微笑みをアタシはずっと忘れないだろう。

       ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 もう9時過ぎ。当然外に出してもらえる時間じゃない。でも姉さんならともかく、ア
タシの行く手を阻めるものなど何も無い!……何て偉そうに言ってはみたけど、早い話
が門限破りだ。あっ、言っとくけど、しょっちゅう夜遊びしてる訳じゃないのよ?時々、
本当に時々散歩に抜け出すだけ。「お嬢様」にはいろいろストレスが多いのよ。……コラ
コラ、そこの君、そんな疑わしそうな目で見ない様に!
 いつもだったら塀を乗り越えやすい様にジーンズトレーナーのラフな格好なんだけど、
今はちょっとおしゃれしている(って言っても、動きやすい格好に変わりないんだけどね)。
別に藤田クンのことが好きなんだって認めた訳じゃないんだけど。普段着で会いに行く
ほど親しくないってだけ。ホントだってば!
 ついさっき通った道を逆に辿る。アタシの家と彼の家は実のところそれほど離れてい
ない(今日まで知らなかったけど)。アタシの足なら15分もあれば十分だ。
 ……ここだ。まだ、電気はついてる…わね。よし!

 すーっ、はーっ

 アタシもやっぱり年頃の女の子だから、一人で男の子の家を訪ねるのは緊張するのだ。
でも、いつまでもモジモジしてるのはアタシのキャラクターじゃない。女は度胸!
…ちょっと違うか。

 ピンポーン

 あっ、やだ、ドキドキしてきた。そんな用事じゃないのに。

「はーい」

 カチャ

「あ、綾香!?」

 すごく驚いてる、って言うか、呆気に取られてる。…まあ、当然よね。

「ハーイ、藤田クン。今晩は」
「コンバンワっ…て、どうしたんだよ、こんな遅い時間に?」
「うん、ちょっとね。ねえ、入れてくれないかな?」
「あ、ああ、入れよ」
「おじゃましま〜す」

 さっきまでの賑やかなパーティが嘘のように静まり返っている。なんだか、寒々と感じ
るほど。……彼は一人暮らしだったっけ。

「それで?どうしたんだ、こんな時間に??」

 あたしをソファーに座らせて、お茶を入れてきてくれる。……なんだか恐縮しちゃうわ。
でもこんなことで挫けちゃいけない。

「うん……さっきのこと、謝ろうと思って。」
「へっ?」

 何の事かわからない。彼はそんな顔をした。

「アタシ、さっきすごく無神経なコト言っちゃったから。」
「あ、ああ……綾香は知らなかったんだし、気にしちゃいねえよ」
「ううん、もし本当に藤田クンが気にしていなくても、あたしが無神経だった所為で
あかりや佐藤クンにも辛いこと思い出させちゃったみたいだから。そっちの方が藤田クン
には嫌だったんじゃないかと思って……本当にごめんなさい」
「綾香……わかった、じゃあこれで水に流す。それでいいだろ?」
「うん!藤田クン、ありがと」
「よせよ……変なお嬢様だな、お前って」

 「変な」って言われてもなぜか気にならなかった。多分、そのぶっきらぼうな口調が
不思議と暖かさを感じさせるものだったからだ。

「………」
「………」

 し、しまった。妙な間が空いてしまった。なんか話してないと気まずい空気が……

「なあ、綾香」
「な、なに?」

 よかった。藤田クンの方から話し掛けてくれた。

「お前、試合で相手に怪我させたことあるか?」

 ……えっ?

「ど、どうしたの?そんなこと聞いたりして……」
「………」

 藤田クンは別に気合いの入った顔してる訳じゃなくてごく普通の、静かな表情でお茶を
飲んでるんだけど、なんとなく笑って済ませられる雰囲気じゃないな……

「あるわよ。相手に大怪我負わせちゃったこともある。」

 格闘技の試合だ。いくらルールがあるといっても危険は付き物。アタシも対戦相手の
肋骨にヒビ入れちゃったことがある。

「やっぱ、嫌なもんだろ?でも、格闘技の場合はある意味、お互い承知の上でやってる
訳じゃんか」
「そうね……ルールがあるって言っても結局相手の体を痛めつけるのが格闘技ですもの
ね。」
「でも、サッカーはそうじゃないんだ。相手に怪我をさせるどころか、わざとぶつかっ
たり掴んだりするのも御法度なんだ。」

 ……藤田クン、やっぱり昔のことを……

「雅史はどうしようもないアクシデントだって言ってくれるし、実際にそう思ってる。
でも、本当は違うんだ。」

 ……どういうことだろう? 

「俺はあの時、相手が滑り込んできているのが見えてたんだ。このまま足を振れば危ない
ことになるってわかってた。それでも俺はシュートする方を、勝つことの方を優先しち
まった。」

 ねえ、なんでそんなに無表情なの?なんでそんなに淡々とした口調なの?

「スポーツマンシップなんて大袈裟なこと言うつもりはねえけど、やっぱ守らなきゃい
けないルールってもんがある。でも、あの頃の俺はそれより勝つことの方が大事だった。
……俺がサッカーをやめた本当の理由はそんな自分が嫌だったからなんだ。必死になって、
こだわって、結局一番大事なものを見失って……」

 どうしてアタシにこんな話、するの?

「雅史やあかりにこんなことは話せない。あいつらと俺の距離は近すぎる。特にあかりは
俺のことで、俺自身以上に心を痛めてしまう。」

 ……じゃあ、アタシは?こんな話をするのは、アタシが他人だから?

「四月に葵ちゃんと会って、あんなに一所懸命になれるのが正直羨ましいと思ったよ。
葵ちゃんと一緒に部活やったら、俺にもまた本気で何かに打ち込むことが出来るように
なるかもしれない、そう思った。だから、葵ちゃんには感謝している。」

 ………

「そして、綾香、お前に会って、俺はお前みたいになりたいって思った。」

 藤田クン…!?

「エクストリームに本当の本気で打ち込んで、それでいて全く肩肘張ってないお前が
すごく素敵に見えた。俺もお前みたいに、自然なままで本気になれるようになりたいって
思ったんだ。」

 !!?

「俺が今日準優勝なんて出来過ぎの成績修められたのは、それ以上に充実した一日を送る
ことが出来たのはもちろん葵ちゃんのおかげもあるけど、誰より綾香、お前のおかげだ。
だからお前には本当のことを知っといてもらいたかったんだ。聞かされるお前の方とし
ちゃ迷惑だったかもしれねえけどな」

 藤田クン……

「アタシ、藤田クンって欲の無い人だと思ってた。だから決勝戦なんていう大舞台を前に
しても飄々としていられるし、初めての大会場でいつも通りの力が出せるし、…そして
来栖川の名前にも虚勢を張ったり卑屈になったりしないんだって思ってた。」

 なに言ってんだこいつ?って顔で藤田クンはアタシを見た。今迄はアタシに話をして
いたくせにアタシから目を逸らしていたのだ。

「でも違うんだね。欲が無かったらこんなに上達するはずないもんね?藤田クンは自然体
でいようって努力してそうしていられるんだね。もしかしてアタシや姉さんと普通に喋っ
てくれるのもアタシたちがそうして欲しいって思ってるから?」

 今ではあかりも志保も佐藤クンもアタシたちと普通に喋ってくれる。でもそれは、藤田
クンがアタシたちを全然特別扱いしなかったからだ。普通の友達として扱ってくれたからだ。

「……よそよそしいのは嫌だろうって思ってな。」

 渋々と、こんなハズいこと口にするのは嫌なんだぞって全身で主張しながら本当に渋々
と藤田クンは答えてくれた。期待通りの答え。さっきまで思ってもみなかった彼の強さ。
相手に気付かせない思い遣り、それがどれだけ心の強さと優しさを必要とするものか……
素敵なのは君の方だよ。

 ぽふっ

 アタシはソファーを立って、彼の横に勢いよく席を移した。よーしよし、照れてるな。
…アタシばっかり恥ずかしかったら不公平だもんね。

「ねえ、藤田クン?」
「お、おう」
「アタシのこと、どう思う?」
「な、な、なにを…!?」
「さっき、アタシのこと素敵だって思ってくれたって言ったでしょ?あれ、エクストリー
ムの時だけ?格闘技の選手のアタシしか藤田クン、興味無い?」
「そそ、そんなことないぜ。綾香は美人だし、スタイルもいいし、気さくで明るい一緒に
いて楽しい性格だし、ちょっと気まぐれなとこも魅力だし、その、すっげーいい女だと
思うぜ!?」

 赤くなってる……アタシもだけど。うっ、恥ずかしい。本人目の前にしてそんなに誉め
ないでよ。……でもここで挫けちゃ女が廃るわ!

「じゃあさ、アタシのこと、好き?」
「ああ、あ、綾香??」
「アタシ、藤田クンのこと好きよ」

 チュッ

「………」

 不意打ちの、一瞬のキス。
 彼、口をパクパクさせてる……言葉が出ないみたい。アタシは……自分でしたことな
がら顔から火が出そうだ。

「幼なじみのハンデがあるんだもん。この位の抜け駆けはいいよね?」
「な、な、な」
「何のことだって言いたいの?あかりのことに決まってるじゃない。彼女の気持ち、気付
いてないとは言わせないわよ……でもアタシ、負けないから。今日が決戦の始まりよ!!」






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