§5 哀しいということ
ピッポッパッ
あれからどれくらいの日にちが経ったのだろう?
パッポッパッ
少なくとも2週間以上が経過した。
ピッポッパッ
この番号を押すのにも随分と慣れた。
一時は、短縮ダイヤルに登録してしまおうとも考えたのだが、その度に、今日、
この一回で用は済むのだと思い、結局やらずじまいだ。
そして今日も俺は、まるで祈りを捧げるかのごとくボタンを押し続ける。
そして――
ピッ………プルルルル
1回……
プルルルル
2回……
カチャ
「……はい、柏木です」
今日も同じタイミングで聞こえる楓ちゃんの声……。
……今日も…いないのか……。
あれから毎日のように柏木家に電話をかけているのだが、でるのはいつも楓ち
ゃんで、一度として初音ちゃんにつながったことはない。
何でも初音ちゃんが家に帰ってくるのは夜の11時過ぎで、帰ってきてもすご
く疲れているらしく、すぐに自分の部屋に戻って寝てしまうんだそうだ。……
ちなみにお風呂には朝はいっているらしい。
だから俺が電話をかけても『いない』か『もう寝てる』かであって、初音ちゃ
んとはいつも話せずじまいで終わるのである。
そのつど俺の心に募る不安、いらだち、そして疎外感。
初音ちゃんがいないとわかると、俺はまるで、そこに電話していること自体が
なにか場違いのような気がして、すぐに受話器を置いてしまう。もう振り向い
てももらえないのにシツコイ男……。そんな馬鹿げた考えすら、次第に現実味
を帯びてきてしまう。
一応、俺が電話してきていることは、伝わっているらしい。しかし、初音ちゃ
んの方から電話がかかってくる気配は、今のところ……ない。
……おかしい。
……いくらなんでもおかしすぎる。
初音ちゃんが俺から電話があったことを知っていて、それでいてそのままにし
ておくなんて……。
絶対に変だ。
だいたい柏木家のみんなは、初音ちゃんの行動について何とも思わないの
か!?
俺としてはもっと詳しい状況を知りたいのだが、相手が無口な楓ちゃんでは、
はっきりいって要領を得ない。
俺のいらだちは募るばかりだ。
「耕一だけど……初音ちゃんは……居る?」
「……今日も…まだ帰ってきていないんです」
「………そう」
そうだろうとは思っていたが、改めて言われると、落胆は隠し切れない。
だんだん俺も疲れてきていた。
――すべてに対して――
なんだって俺は、毎晩毎晩、こんな馬鹿みたいなことをしなくっちゃならない
んだ。
愛し合っている二人が、なんで会いたい時に会えないんだ!
せめて声ぐらい聞かせてくれよぅっ!!
いらだつ心。
不安な気持ち。
寂しい…俺。
初音ちゃんは可愛い。外見はもとより、心があれほど可愛い女の子は滅多にい
ない。
やさしくて穏やか。控え目で…自分よりもまず周りのことを気に掛けて……俺
はそんな初音ちゃんのことが大好きになった。
そしてそれは何も俺に限ったことではない。
初音ちゃんは誰からでも好かれる、とても良い娘だ。あの従業員たちの気持ち
もわかる。俺だって立場が違えば、同じようにお菓子をおねだりしていたかも
知れない。
学校でもさぞかしモテるんだろうな。
彼女自身は気付いていないかもしれないが、初音ちゃんを意中の人としている
男は大勢いるはずだ。
俺は去年の夏に初音ちゃんと話をしていた時に出てきた、彼女によくマンガを
見せてくれる男子生徒のことを思い出していた。
あのときの俺は、まだ初音ちゃんのことを可愛い妹としてくらいにしか思って
おらず、その話を聴いても、ちょっと嫉妬するていどですんだ。
しかし、今はそうはいかない。
彼女を誰にも渡したくはない!
強く、そう思う。
(……………ふっ……………)
おもわず笑みがもれた。
嘲りの笑み。
無論、俺自身に対してだ。
(俺って、こんなに嫉妬深かったっけ?)
自分はもうちょっと、こういう事には淡白な方だと思っていたんだが……。
(こんな俺が、初音ちゃんに見合うはず…ないよな)
いっそのこと、このまま身を退いて、彼女にはもっと相応しい男が現れるのを
待つか?
そんな馬鹿な考えさえ浮かんでくる。
(ホントに馬鹿だな……俺って……)
「……………………………」
「……あの……耕一さん?」
「………えっ」
その時になって、俺ははっと意識を取り戻した。
耳にきこえる楓ちゃんの声。
やばいっ。いったい何分間、俺は思考の海を漂っていたんだ!?
俺は慌てて、体勢を繕った声で楓ちゃんに話しかけた。
「ゴメンごめん。ちょっと考えごとをしててさ。……俺、何分ぐらい黙って
た?」
「えっ。あ、あの……15分くらい……」
「ゲッ」
じゅ、15分も!?
ちょっと自分の心理状態と、来月くる電話料の支払いが怖くなった。
……長距離電話って、高いんだよなあ…。
「ご、ごめん!! そんな長い時間、ずっと待たせていただなんて……。楓ち
ゃんも、俺のことなんかさっさと見限って、先に切ってくれちゃってもよかっ
たのに……」
「いえっ! ……そんなこと……できません……」
楓ちゃんにしては珍しく強い否定。だが後になるにつれて、か細い声に変わっ
てゆく。
「とにかく、ごめん。謝るよ。じゃあ……」
おやすみ……と言おうとしたところで、俺は思い止まった。このまま切っても、
また明日、同じことが続くだけじゃないか?
せっかく15分も粘ったんだ。あと少し経てば、初音ちゃんが帰ってくるかも
しれない。よーし、電話料など何のそのだ!
「……じ、じゃあさ、梓に代ってくれないかな?」
「えっ!? 梓…姉さんですか?」
「うん。まだ起きてる?」
「…ええ、たぶん…起きてると思いますけど……」
楓ちゃんは少し待っててください、と言うと、受話器を置いて、パタパタと可
愛い音を立てて走っていった。
梓を呼んだのは、楓ちゃんより時間が伸ばせそうだったのと、初音ちゃんのこ
とについて、もっと詳しいことを訊くためだ。
しばらくすると、今度はドタドタといった足音が近付いてきて、受話器が取ら
れるとともに、威勢のいい声が聞えてきた。
「耕一!? 元気にしてる!?」
「え? あ、ああ、まあな。ところで梓、ちょっとお前に訊きたいんだけどよ
…」
「え、あたしに? 何?」
俺はすー、はー、と深呼吸を一回してから話を切り出した。
「初音ちゃんのことなんだけどさ。……最近、帰りが遅いだろ? だから、そ
の、心配になってさ……」
いくら梓が話しやすいからといって、『ほかに男ができた形跡はないか?』な
どとは死んでも訊けない。……だいたい、こいつはもとより、柏木家の他の姉
妹たちは、どこまで俺たちの関係を知っているんだろう?
正式に話した覚えはないし、初音ちゃんがどの程度のことまで言っているのか
はわからない。雰囲気的にも、初音ちゃんが俺になついているっていうのは、
前から変わらないし………謎だ。
これがもし楓ちゃんだったら、一発でバレるんだろうけどなっ。
……ま、そんなことはありえないが……。
「初音? ……ああ、ほんとっ、最近友達の家に行ってくるとかで、ずっと帰
りが遅くってさ。おかげであたしも困ってるんだよ。料理を手伝ってくれるや
つもいないし、一人分少ないから、夕食作るにしても張り合いがないし、第一、
ある程度の量で作らないと美味しくないからね。……おまけに…千鶴姉が台所
にしゃしゃりでてくるようになったし……。このままじゃ、うちの食器がみん
な無くなっちゃうよ!」
「あはは……そ、そお?」
なんか最後の方が、異常に怒気をはらんでるんですけど……。
「『そお?』じゃないよ! 耕一っ! あんた人事だと思ってねえ! …あた
しが毎日、千鶴姉を台所に侵入させないために、どれほど苦しい戦いを強いら
れていることか……」
悔しさを噛み締めるようにいう梓。
…そ、そこまで邪険に扱うことはないんじゃないか?
「だけど…夕飯まで家でとらないだなんて……初音ちゃん、いったい向こうで
何をやっているんだ? ……なあ、実は友達の家っていうのは口実で、本当は
欲しい物があるとかでバイトか何かしてるんじゃないのか?」
俺は以前から一番可能性がありそうだと考えていたことを、梓にぶつけてみた。
「いや。それはないよ。そういうことならちゃんと言うだろうし、第一、こん
な夜遅くまでかかるバイトは千鶴姉が許さないよっ」
あれでもそういったところは結構しっかりしてるんだぞ! と梓は付け加えた。
……なんだかんだ言っても、ちゃんとよく見てるじゃないか、千鶴さんのこと。
「じゃあ、…こんなに遅くまで、いったい何やってるんだ?」
ある意味、最も安心できる答えを削除された俺は、梓に再度問いかけた。
「う〜ん、実はあたしもよくわからないんだよね。初音にしつこく訊いても、
『ごめんなさい。お友達同士の秘密だから…』って言うだけだし……。あの初
音がだよっ? 目に涙を溜めてまで頑として言おうとしないんだから、…あた
したちがそれ以上訊けるはずないじゃないか」
「……それじゃ、千鶴さんも知らないと……」
楓ちゃんも『さあ?』としか応えてくれなかったし……初音ちゃんっ、家族に
黙ってまで、いったい何をやっているんだ!?
俺の心はますます暗い方向へと進んでいく。
「ふふ……それにしてもねぇ」
それを遮ったのは、梓の不適な笑い声であった。
「な、なんだよ。そのいやらしい笑いは?」
「いやね、楓の毎晩の電話のお相手が、まさかあんただったとはねえ?」
「は? …な、なんでそこで楓ちゃんが出てくるんだよっ!?」
俺が訝しげな声で訊くと、梓はやや大げさなくらいの声でしゃべり始めた。
「だってさ、楓ったら、すごいんだよ。電話がプルルって1回鳴っただけで、
すぐさま部屋から飛び出してきてさ、2回目が鳴り終わった時にはもう、すま
した顔で電話口に出てるんだもん。だいたい部屋からじゃ電話の鳴る音なんて
ろくすっぽ聞えないはずなのに……どうしてわかるんだろね、あのコ?」
部屋からって……けっこー距離がなかったっけ? ……いつも2回目ですぐに
繋がるから、てっきり居間にいるもんだとばっかり思ってた……。
「この間なんてさ、千鶴姉と二人で居間にいたんだけど……あの時は見ものだ
ったね。千鶴姉があのトロイ動きでのろのろと立ち上がろうとするよりもはや
く、受話器に飛び付いてさ、ちょっと話したかと思ったら、今度は、ぽぅ〜と
した顔で受話器を見つめちゃって……あたしたちに気付いたかと思ったら、
『ぼっ』て感じで急に顔が赤くなって、また同じような勢いで自分の部屋に戻
っていったんだよ。この間わずか2分。しかも楓が話してた時間と惚けてた時
間を除けばそれこそ一瞬の出来事だよ! 今じゃ初音と並んで『柏木家の二大
珍事』って呼ばれていて、みんなひかれるのが怖いから、その時間帯は部屋の
前には近付かないんだ」
「ひかれるって……誰かひかれたのか?」
「うん。猫のたまと仕事できていたうちの従業員が一人……」
……猫のたま……。千鶴さんの時といい、なんて運がないんだ……。
「でも……どうして楓ちゃん、そんなに電話にでることに執着してたんだろ?」
俺は何げないつもりで呟いたのだが、
「………………………………あんたみたいな鈍感野郎には、一生かかったって
わかんないよっ!!」
なぜか梓は急に怒った声で俺を怒鳴り付けた。……なんだよ…いったい?
……まあそれはいいとして、ところで………。
もう楓ちゃんの時も含めて30分以上話をしているというのに、いっこうに初
音ちゃんは帰ってこない。
「なあ、ちょっと初音ちゃん、いい加減に遅すぎないか? もうそろそろ12
時を回るぜ」
「そう? いつもだったら、そろそろ帰ってきてもいいんだけど……最近、日
増しに遅くなってきたからなぁ」
「日増しにって……お前っ、心配じゃないのかよ! いくら鬼の力があるから
って、女の子が12時過ぎに暗い夜道を一人で帰ってくるなんてっ!!」
俺がそれこそ食って掛かるような勢いで受話器ごしに怒鳴ると……
「あ、それは心配ない。ちゃんと車で送ってきてくれるから」
梓は平然と言い放った。
「な、なん…だって……」
その言葉はまるで紙切れのように、容赦なく俺を切り刻んだ。
車……いったい誰に!?
「そそ、それって、……いったいだれのだ?」
俺は何とか声を振り絞って、そう問い掛けた。
「さあ? 友達の家の人じゃない、普通は?」
「ふ、普通はって……」
「それがさあ、いつも車の音は聞こえるんだけど、こっちがお礼をいう間もな
くさっさといっちゃうんだ。……でね、一度、あたしも楓の真似をしてみて、
素っ飛んでいったわけよ。そうしたら、白い乗用車に乗った……暗いからよく
わからなかったけど、…若い男の人みたいだったわよ」
[な……に……]
若い男……? それが初寝ちゃんと一緒に車でほぼ朝みたいな時間に帰って来
るぅ!?
「お、おまえ! それ黙って見過ごしたのか!?」
「うん。別に怪しそうでもなかったし、何しろ時間が時間だったからね。初音
にしたって疲れているみたいだったけど、何かされたって感じじゃなかったか
ら、そのままにしといたよ」
「馬鹿っ、お前っ! ……もし…もしもだぞ、その男が悪い奴で初音ちゃんが
騙されでもしてたらどうすんだよ!」
「………ぷっ………」
俺がそれこそありったけの勇気を振り絞って言ったというのに、梓の奴は吹き
出しやがった。
「あはははは。ないない。あのコに限ってそれは絶対にないって。耕一、あん
たまさか、そんなくだらないことを心配してたの?」
「く、くだらないって……でも、絶対にないとは言い切れないだろ……。初音
ちゃんは、あの通り可愛いしさ、人に何か頼まれたらいやとは言えない性格だ
し………もし誰かに強引に迫られでもしたら……」
「だーかーらー、そんなことは絶対にないって言ってるだろ!! 耕一は変に
気を回しすぎなんだよ」
「あずさ………お前、なんでそんなに自信もって言えるんだよ…。いくら家族
だからって、所詮は他人の事だろ? 初音ちゃんのすべてがわかるわけじゃな
いだろ!?」
俺は、そこまではっきりと言える梓が羨ましかったのかもしれない。だからそ
んな、普段なら絶対言わないようなことを口走ってしまったのかもしれない。
「他人……って、…なんかやな言い方だな、それ。そりゃあ、あたしだって、
あの子の心がすべてわかるって訳じゃないよ。別の人間なんだからね。でもね、
初音とは16年も一緒に暮らしてきたんだもん、あの子が何を考えてるのかく
らい…だいたい読めるよ。それにさ、あたしはあのコのこと、信じてるから。
そんな馬鹿な男には絶対引っかからないって。なんたって、このあたしの妹な
んだよ!」
最後は茶目っ気たっぷりの声で言ったのだが、俺は梓の言葉を聴いて、受話器
を持ったまま、その場で固まってしまった。
「? ……? 耕一?」
「…………」
「ねえ! 耕一ってば!!」
「…………あ、あずさか……」
「な、なんだよ。いったいどうしちゃったんだよ。……急に黙りこんじゃって
…」
「え、いや、……なんでもない。そっか……悪かったな、こんな遅い時間まで、
じゃあ」
「あ、ちょっと待ちなよっ。……そんなに気がかりなら、初音が帰ってきたら、
ちゃんと電話させようか?」
梓は俺の様子が変わったのに気付いて心配になったのか、そう気を使ってくれ
た。
「いや、いいよ。…疲れてるだろうから…じゃ、おやすみ」
「あ……」
ガチャン
俺は受話器を置くと、そのまま倒れ込むように、ベットに横たわった。
ドスンッと金属フレームがきしみを上げる。
『信じてるから』
その言葉が俺の心を深くえぐった。
(……俺は…初音ちゃんのこと……全然信じていなかった…)
なにがっ、なにがっ、愛してるだ!
相手を信用もできないで、どうして愛してるなんて言葉が出てくるんだ!!
くそ、くそっ、くそぉ!
あたまっから布団をかぶってうずくまる。
何もききたくない。何も見たくない。
俺という存在をこの世から消してしまいたい!!
「…………初音ちゃん………」
――ごめん――
闇の中、雨に濡れた子犬のように、俺は身をちぢこませて、ただその名前を呟
いていた……。