第二章
その翌日、充の所に厄介な仕事が舞い込んだ。と言うより押しつけられた。
「ハル婆さん?またかつぎ込まれたのか?」
充は深いため息をついた。
本名島崎ハル。当年79才のお婆さんで、この病院の老人達の大御所であった。彼女の
面倒見の良さと、言いたいことをずばずばと言うその性格が人望を集めたのである。
それに加えて、息子が代議士で病院の上層部と強いつながりを持っているからでもあった。
ところが、入院している老人達には人気があったが、看護婦達からはえらく評判の悪
い人であった。なにせ気の強い人なので、勝手に外へ出かけたり、人の病室で持ち込ん
だお菓子を食べていたりといろいろと悪さもしてきたからである。ここ一年ばかり入退院
を繰り返しているが老人達からの人気は相変わらずであった。
そして最近では充がその面倒を見ていた。看護婦が患者をえり好みするなど問題では
あるが、彼女たちも人間である。嫌なものは嫌なのだ。無論それを表情に出したりはし
ないが。他の看護婦達があまりに嫌がるので仕方なくの処置であった。彼ならば上の人間
にも意見できるし、医師の資格も持っているのでハル婆さんも多少の言うことを聞くか
らであった。それでも大変なことには変わりはないのだが。
「また大変な日々が始まるか・・・」
ため息混じりにぼやきながらこれからの日々を想像していた。
(こんな状況じゃセリオのデータなんて取ってる暇無いよな・・・)
そこまで思考が進んで、彼は妙案を思いついた。
(セリオにハル婆さんの面倒をみさせればいいじゃないか)
そうすればデータも取れて、ハル婆さんの面倒もみれて一石二鳥。
充はインターフォンを取るとセリオを呼び出した。
「私が島崎さんの担当ですか?私は看護補佐という地位なのでそのような任を受けるわ
けにはいかないのですが」
セリオはいつものように生真面目に答える。
「形の上では私が看護ということになるが実際の看護を君に頼みたい。その全責任は私
が負うので心配はいらない」
セリオは少し考え込むと彼の命令を承諾することにした。理屈の上で問題がなかった
からだ。
だが、この事について彼はこの事について悔やんだと日記に記している。彼女が心理的
理由で拒まないこといいことに自分の厄介事を押しつけてしまったことは医師として
恥じるべきだ、と。
セリオは、ハル婆さんの所へ挨拶と検温のために向かうことにした。
ドアをノックし扉を開けてみると、そこはすでにもぬけの殻であった。
(・・・どこに行ったのだろう?)
充からハル婆さんに関する資料を受け取っていなかったため、彼女がどこへ向かった
のかを予測するだけの情報を持っていなかった。
そこでセリオは近くの誰かに聞こうと辺りを見回した。そして運良く通りかかった医師
に居場所を尋ねると、その場所に向かって歩き始めた。
階段のそばの談話室に入ると数人の老人達が談笑していた。
「すみません。島崎ハルさんはいますか?」
セリオはそばにいた老人に尋ねると中心にいる老婆を指さした。
彼女は老父に礼を言うと輪の中心にいる老婆に近づいていった。
「島崎ハルさんですね?」
「そうじゃよ。なんか用かね?」
老婆は話の腰を折られたので少し不機嫌そうに返事をした。
「お楽しみの最中申し訳ありません。今度お世話をすることになったセリオです。よろ
しくお願いします。」
セリオは基本通りの挨拶をすると、老婆もそれにならって挨拶を返した。
「それで、他に用はあるのかね?」
「検温の時間ですから一度お部屋に戻ってください。」
ハルは憮然としていたが、「しかたないね」と腰を上げると部屋へと歩いていった。
セリオも談笑室の老人達に頭を下げると、ハルの後を追っていた。
検温が終わるとハルはそそくさと部屋を出ていこうとする。
「どちらに行かれるのですか?」
セリオは首だけ曲げて尋ねる。
「トイレに行ってくるだけじゃよ」
ハルはそう答えると部屋から出ていってしまった。
「そうですか。足下に気を付けてくださいね」
そんなハルを見ながら検温表を脇に挟むと他の患者の検温に出かけた。
「ハルさん。そろそろ食事の時間ですから部屋に戻ってください。」
セリオは談話室のハルの所に再び姿を見せた。
「おや、もうそんな時間か。それでは本日はお開きじゃな」
それだけ言うとまたさっさと部屋から出ていってしまった。
セリオは他の老人達にも部屋に戻るように言うとハルの後を追っかけていった。
ハルは自分のベッドに腰掛けるとセリオに尋ねた。
「あんたは何も言わないんじゃな。」
セリオはいつもの表情で「なんのことですか?」と尋ねた。
「ん?儂が談話室に居ったことを怒らないのか?」
「なんでその様なことでハルさんを怒らなくてはいけないのですか?」
セリオは訳が分からないと言った口調で答えた。
「談話室でお話しすることはいけないことなんですか?」
ハルはセリオの答えに思わず笑い始めた。
「はっはっは。そうではなくてトイレに行くと言って談笑室に行っていたことじゃよ」
セリオはまったく表情を変えずにたずねる。
「そうだったんですか。何故その様なことをしたんですか?」
「そりゃ、談話室に行くと言ったらあんたは止めるじゃろ?」
セリオは不思議そうな顔をしながら答える
「何故止めるんですか?検温の結果では異常はありませんでしたし、それ以外にも危険
な兆候は感じられませんでしたが」
この返事を聞くとハルは詰まったような顔をした。
セリオもよく分からないといった顔をしていたが、食事の運搬係がドアをノックする
とセリオは食事をとりに部屋を出た。
セリオがトレイを持って部屋に入ると、ハルはにこにこしながら待っていた。
これ以降ハルはセリオに行き先を偽って出かけることはしなくなった。