何故、セリオを選択したのか。
最良の選択であったと、その結果を享受する今だからこそ、思うのだが。
購入を考えたその理由が、幼い娘の真白(ましろ)を世話してくれる存在、母親役の
必要性…なのだから。同じく来栖川の製品でも、価格帯的に廉価版とされるマルチ型で
充分だった筈だ。
おりしもTypeUへの移行で、世間が騒いでいた頃。
すでに何誌も登場しているというMR(メイドロボ)専門月刊誌など、ついぞめくった
ことのない私でさえ。新型のセリオが凄いらしいとは聞いていた。人間以上に多彩な表情
を浮かべてみせるという…。
そのせいもある。
あれの、気配。
…そう、何処とはなしに若い頃の妻を、学生時代の彼女の面影を。私は、セリオの整っ
た造形に見ていたのだろう。
共同経営者にして有能なパートナーだった妻を、不意の病で亡くしたばかりだった。
あとに残されたのは、仕事に打ち込むしか能のない男と、まだ乳飲み子といってもい
いくらいの子供、そして保険屋が置いていった札束。
見慣れぬ、持ち慣れぬ大金は、所詮、泡銭。目の毒でしかない。
苦労の末に独立したばかりで、乗せたい軌道は遙か彼方。比べられぬほどの端金(は
したがね)のために、誰かにペコペコ頭を下げる毎日。あくせく駆け回るのが阿呆らし
くなるほどのそれは、あるいは思わぬ落とし穴、アイデンティティ・クライシスへと繋
がっていたのかもしれない。
あの時期、私には、仕事しかなかったのだから。
大切な真白さえ、一時は手放そうかと考えた。あちらのご両親に親権を委ねてしまっ
た方が、皆が幸せなのではないか、と。張りつめた糸の切れる瞬間が、容易く甘く、思
い浮かぶ。自分で判るくらい、酷い状態だった…。
並のメイドロボなら、事務所を兼ねた我が家が狭くなるくらい買えただろう。
私は無造作に、無感動に、ただ店員に言われるまま判をつきサインして、新型セリオ
の所有者となった。
そのおかげで。
妻の抜けた分の穴埋めに、細々した雑用や電話番、事務処理と、二人か三人雇うつも
りだったのだが。
まるで、必要なくなってしまった。
…一年、経って。ふと気が付けば、全てが好転していた。
『いちく』。
我々、つまり私、神楽渋(かぐら・しぶ)と娘の真白は、もう一人の家族をそう呼ん
でいる。
『Serio・TypeU』は台数限定で、通しの番号が割り振られている。シリア
ルズ、もしくはナンバーズといった風に呼ばれる所以である。二の腕や足の裏に焼き印
が押されているわけじゃないが、本人に尋ねれば思考時間もなしに即答してくれる。非常
に高いレベルでの『消せない記憶』であるとか。
それがたまたま『1019』だったので。下二桁から、素直に『いち・く』である。
私としては『テン・ナインティーン』としてもいっこうに構わなかったのだが、残念
なことに、真白の舌が上手く回らなかったのである。
かつて下町のボナパルトともてはやされた、私の睡眠の友、大好きな安酒に似ている
のは偶然である。
ましてや、死んだ妻『依智子(いちこ)』に、呟いた時の語感が似ているのも。それ
こそ、図らずも、である。
∴
ひっきりなしに鳴りっぱなしの電話。
紺系のタイトなツーピース。胸元には、ギリシャの戦女神をモチーフとした琥珀細工
のカメオが光る。長い髪は、邪魔にならぬようお団子に束ねられて。垣間見える白い首
すじが涼しげである。
お飾りのベッコウふち眼鏡の向こうに、落ち着き払ったベテランOLの瞳。取り澄ま
した秘書のお顔。三つのコードレスフォンをバランスよく扱って、各々の用件を適切に
捌いていく。
変わらない、いつもの光景。
「(PiPi!)…お待たせしました、…そうでしたね、はい、判りました、その件の関係
資料はFAXで送らせていただきますので、…はい、では失礼します…(PiPu!)」
「(PiPi!)…お待たせしました、…はい、承っております、予定表はすでにメールで…
はい、そうですね、その点はすぐに確認しますわ、のちほどこちらからお電話を…、ええ、
それまでには…、では、失礼…(PiPu!)」
「(PiPi!)…お待たせしました、あら…はい、それで…え、届いてません?…それは
弱りましたわね…郵政省メールで…はい、そうなっちゃいますけど、ええ、…一応、復
唱します…、これでよろしいかしら…では、お手数をお掛けします…(PiPu!)」
『Kagura・Seed・Proguramming』の、狭くて飾り気のない事
務所である。つまり、私の会社だ。
完全に電子情報化された植物原種の設計基を元に、有益であろうと思われる合成種を
クライアントに企画・立案する。そうして、その新種のタネの設計開発を請け負うとい
うのを、主な仕事としている。小さいながらも、この新興の業界に日本では真っ先に飛
びついたこともあって、ある時期からこっち、素晴らしい追い風が続いている。
完全な分散形態をとっている為、数名の社員、専属のSEたちは、月に幾度か顔を見
せるくらいのものである。ここは窓口でしかない。
「(PiPi!)…お待たせしました、はい…、そうですか、ええ、おりますわ、ただいま
代わります、少々お待ち下さいませ…(PiPoPo!)神楽所長、天野技研の大賀様だそう
です。私は、初めての方だと記憶してますけど。…どうなさいますか?」
「…」
のどかな、週始めの午前中。窓からの日差しが暖かい。
忙しい彼女には申し訳ないのだが。私はただぼんやりと、いちくの仕事ぶりに見とれ
ていた。
「…所長?どうか、なさいまして?」
「ん、あ、ああ…。ボォッとしていたな…。すまない」
ふぅっと、けぶるように微笑んで。
「いいえ。いいんですのよ。このところお忙しくて、落ち着くヒマもないんですから。
こうして事務所にいる時くらいは、しっかり、気を抜いていて下さいな」
一瞬の間をおいて「アラ、しっかり気を抜く、なんて…。ヘンですわね」自分の言葉
にクツクツと笑ってみせる。
今更ながらに思うが、不思議なロボットである。表情はくるくると変わり、見ていて
飽きない。人と同じように感情が在るのではないかと思えてくる。
それほどのものを作り上げた、ヒトの技術に感心すべきか。
「有り難う。電話だったな…そうだな、つないでくれ」
天野技研?大賀?
「…………ふむ」
…確かに、記憶にない。
卓上のクラシックな黒電話を掴んだ時には、いちくはまたひとつ、用件を片づけていた。
けれど電話はまた、すぐに鳴りだす。
幼稚園から娘が戻るという極めて重要な都合上、午後二時以降は留守電になっている
ことが多い。私は契約だのなんだのと外出が多く、いちくは真白と晩御飯の材料を買い
に…。
それが判っているので、昼前のこの時間、特に集中するのだろう。
…が、今でさえ、いちくのこなす仕事量が過剰なくらいなので。今更、電話番を雇お
うとは思わない。
「はい、お待たせしました…」
∴
数日後。
渡された名刺には、こうあった。
『元・来栖川電工中央研究所 第七研究開発室HM開発課 端末開発担当 大賀和貴』
無精髭がチラホラと見える、なんとも胡散くさげな男である。神経質で、おそらくは
胃弱体質、押しは強くないタイプ。私はそう見て取った。
成る程、いかにも研究者といったイメージで、その着心地の悪そうなスーツ姿よりは、
白衣の方が似合いそうである。
「おや、確かお電話では、天野技研サマ、と…」
わざとらしく尋ねてみる。素性を偽って面会を求めてくるヤツにろくなのはいない。
これまでの経験から言えば。出る杭は打たれるのが世の習い、しかし素直に打たれて
やる義理はない。
一応、隣室にはいちくに待機してもらっている。そこらのゴロツキなら瞬時に一撃な
ので、彼女は頼りになる。また私とて、多少は柔道の心得がある。…拳銃でも出された
なら、どうしようもないが。
…しかし、全ては気の回しすぎだったようだ。
「ははは…、だから、元、なのですよ」
大賀氏は力無く笑った。
「現在は、天野技研というベンチャー系の会社で、やはりメイドロボの開発に携わって
おりまして」
「はぁ…」
「ですが、こうしてお伺いしたのは、その名刺の方のけじめをつける為、でして…」
「はぁ」
話がさっぱり見えてこない。
「とすると、いち…あ、いえ。うちのセリオのコト…でしょうかね」
「はい、ええ。僕は彼女の開発プロジェクトに関わった一人でして。手の空いた時に、
こうして個人ユーザー様の元を回ってるのです」
「それでは、単刀直入に。神楽さん、貴方は、今のセリオに満足しておられますか?」
∴
気怠げな午後の事務所。
この時間、いちくは幼稚園まで真白を迎えに行っている。
大賀氏の帰っていった後。私は一人、ずっと考えていた。
彼がTypeUセリオの開発に携わった人間だというのは、どうやら本当らしい。それ
らしいことを色々と喋っていった。
『従来の独独立して存在するユニットと違い、TypeUセリオが外部依存型だという
こと…。そこに在るのは端末に過ぎません。真のセリオは回線によって繋がれた先に、
全てのセリオ端末をコントロールする存在として、在ります』
『我々の目指していた「人間的なメイドロボ」の、一つの回答でしょうね。確かに今の
セリオは、完璧な人間といっても過言ではない。我々の目にはそう映ります、たとえメ
イドロボだと知っていても…』
『彼女は膨大な「人間のデータ」を手に入れました。さらに稼働中の端末は、その瞳に
映るもの、その耳に捉えたもの、その指先に感じたもの、全てをメインコンピュータ上
のセリオに送り続けます』
『経験蓄積型といいますが。それにも色々ありまして…。彼女の記憶スペースは無尽蔵
です。なにせ外にありますからね』
『今のセリオ、確かに人間らしいですよ。旧タイプとは比べものにならない。…ですが。
人間以上に、人間っぽい。その場面その場面において。完璧に過ぎるのです。…あれは
「演技」です。日々、彼女が、彼女たちを通じて蓄積していく「人間の姿」の理想的イ
メージをそっくり借りてきて、完璧に演じているだけです』
『いったい…「人間らしい」って、なんなんでしょうね』
『我々はセリオに「全能の智」を与えたばかりか。「個の制約」からさえも解き放って
しまったのですよ…』
「そうして『貌(かお)の無い女神』サマか…」
大賀氏の言葉を反芻してみた。
私は、他のTypeUセリオは見たことがない。そのネームバリューとは対照的に、
圧倒的に出回っている数が少ないからだ。だから、いちくに限って言えば。
…確かに、そうかもしれない。
私といる時は。ある時は優秀な秘書。ある時は対等のパートナー。ある時は良き妻。
そして若い恋人。時に、真夜中は娼婦の微笑み。
娘には。優しい母親を、厳しい乳母を、気のつく家政婦を、一緒に遊ぶ友達を、もの
を教える教師を…。
幾つもの貌を、完璧に使い分ける。演じてみせる。
そうして本人は戸惑うこともない。元より、貌を持たないのだから。
「…………」
ふぅ、と。私はため息をついた。
「で、どうしろというのだ、この私に…」
手には一枚のフロッピーディスク。くるくるとひっくり返したり、シャッターをカシャ
カシャとスライドさせてみたりと、弄びつつ。
『当初から、我々開発陣には目標が…、いや、違いますね、なんというか、コンプレッ
クス…でしょうか。頭には常にそれがありました。
かつて、旧型セリオとマルチが同時開発されていた頃に。それぞれのプロトタイプが
作られたのですが、その時点でのマルチのコンセプトこそが「人間らしさ」だったので
すよ。採算その他の面から、発売時にはまるで違ったものとなりましたけど。
一人の天才が作り上げた、幻のプロトタイプマルチ。当時はまだ入社したばかりで、
セリオ開発の下っ端をしていた僕も、幾度か見かけたことがあります。
あの子はなんというか、その…「奇跡」でした。…あ、いや、これは口はばったいこ
とを。
しかし、まぁ、それほど人間らしかったのです。
メイドロボ・MULTI…「Machine-made/Unique/Lady/Thinking/Individu
ality」。「機械が作り出す/ただ一つしかない/女性/考えることができる/個性」。
先輩研究者の誰かがひねり出した、苦しい語呂合わせでしょうけどね。…けれど本当に
「自ら考えて成長していく個性」という可能性を、彼女に見てしまった。
だからこそ。TypeU開発者の誰もが、なんとしてもあれに勝ちたい、越えたいと
思ってました、別の方法論を持ってして』
「私は十分に満足しているさ…。そう、十分に」
『…紆余曲折、在りまして。目指したものとは別なものが、…そう、セリオの行き着く
先に「貌の無い女神」が見えてきた時に。我々も決断を迫られました。だから…。
TypeUセリオ端末には。当時の資料からマルチに使用されたであろうシステムを
解析して、それをソフト的に置き換えた、いわば簡易ヴァージョンとでも呼べるものが…
隠されているんですよ』
『本来、全ての使用者にサポートされるハズのものでした。僕としても、その可能性を
待っていたんですけどね。結局、上層部の最終決定から、彼女は存在しないことにされ
ました。各々の端末の中に微睡み眠る、もう一人のセリオは…』
『これは彼女を呼び覚ますKey・Program「あいべつりく」です。もしも気が
向いたなら、お使い下さい。僕はこれをお渡しする為に、暇を見つけては、数少ない個人
ユーザー様のあいだを回って歩いているというわけです』
「『あい・べつ・り・く』か…。さて、何の言葉だったかな…。宗教?…そう、仏教か…
それともイスラムだったか…」
ぼんやりと考える。
おそらく。一週間、いらない。
私はこのプログラムを作動させるだろう。
現状に不満があるわけじゃない。だが、知ってしまったから。
セリオの中に眠るセリオ。もう一人のいちく。いちくの、本当の、貌。
鬼が出るか蛇が出るか…でも、見てみたい。それがヒトの好奇心。パンドラの匣であっ
ても、開けたいと思うのが人情というもの、開けてしまうのが人というもの。
「ぱぁ〜ぱぁ〜!たらいまぁ〜っ!」
「渋さん、ただいま戻りましたー」
娘たちが帰ってきたようだ。また、家の中が明るく、騒がしくなる。
∴
午前零時を回った、寝室で。
いちくに付属してきたポケット・モバイルに、フロッピーを差し込む。
>愛別離苦 Ver1.0 ... Install...
ランプが明滅を繰り返す。プログラムは勝手に動き出す。モノクロ液晶の画面に表示
される。
『そうですか、使ってみる気になりましたか』
電話の向こうの大賀氏は、少しだけ嬉しそうな声で言った。
「ええ…」
『使用は、なるべく夜にして下さい。「愛別離苦」が常駐している間は、スリープデー
タ…つまり省電力モード時の、外界監視情報のダミーをですね、来栖川のセリオ本体へ
と送り続けてます。昼間に省電力モードが頻発すると、故障の可能性を考えてチェック
が入るようになってる筈ですから。…ま、あのディスクさえオモテに出なければ、大丈
夫だとは思いますけど』
「判りました」
『詳しいことは、ディスクの中のテキストを…、それから、仕事時間中は困りますけど、
ここに掛けていただけば大概は掴まると思いますので…』
プログラムが、いちくへと転送されたらしい。
いちくはベッドに腰掛けて、静かに眼を閉じて。くてっと、力を抜いた。崩れて倒れ
る。壊れてしまったかのように。
モノクロ液晶には、次の表示が出ている。
「セリオの耳元に次のキーワードを囁いて下さい…だって?」
…。
二度三度と躊躇(ためら)いを繰り返して、けれど、覚悟を決めた。眠れる少女の耳
元に、口を寄せ、コトバを紡ぐ。
「深く、静かに、瞑目を続ける魂よ、微睡みに囚われし娘よ、解き放たれよ、光より、
闇の中へと」
囁きながら。なんというかこれは、ファンタジー色…なのだろうか?
これは大賀氏、ちょっと凝りすぎだろうと思う。口にしてみて、照れくさい。真白は
すでに寝かしつけたし、誰もいないというのに、やっぱり恥ずかしい。
そうして。彼女は緩やかに、閉じていたその眼を開く。
∴
いちくはこちらに背を向けて、流し台で食器を洗っている。
「ぱぱってばー、ぱぱってばー、いちくチャンとケンカしちゃったの〜?」
さっきから不思議そうなカオで、私といちくを見上げていた娘が、不意に言った。
「…、何で、そんなことを?」
「え、だって…きょうはおへんじがヘンだし…」
う〜んと首を傾げつつ。
「ぱぱ、ずっといちくチャントコ見てるのに、いちくチャンがぱぱんトコ見ると、すっ
とズラしちゃうの」
「そうか?…いや、そんなコトは無いぞ。いちくにも聞いてみなさい」
てけてけてけっと、真白はいちくの元へとかけていく。…あっ。パジャマのスソを自
分で踏んで、よたよたっと転びかけた。危ないなぁ。
エプロンのふちを、くいくいと引っ張って。
「ね〜ね〜、いちくちゃん、どーなの?」
「えっ?やぁよ、ケンカなんてするわけないじゃない。ねぇ、渋さん」
「あ、ああ…」
夕食後のひととき。今のいちくは、若奥さんモードの貌と言ったところか。
ホントにこれが、あの時の「いちく」と同じ「いちく」なのだろうか。
昨夜。
プログラム「愛別離苦」に叩き起こされたいちくの見せた顔は、なんとも対応に困る
モノだった。
さながら機械人形のように。…いや、もともと機械人形なのだが。
そう、かつてのセリオのように。蝋細工の無表情。
確かに、うちのいちくが、今まで一度も見せたことのない表情なのだが…。それで、
どうしろというのだろう。
のれんにうでおし。何を話しかけても、何をしても。囁いても、呼びかけても、怒鳴っ
ても。その手を引いても、肩を揺すっても…、それから、頬を叩いてみても。
反応なし。
じっと、ひざを抱えて。中空の一点を見つめたまま。ベッドの上、壁にもたれて座って
いるだけ。
この私を、まるで、見ようとしない…。
電話の向こうの大賀氏は、一瞬、絶句したのち。
『それは酷いですね…。あるいは、遅すぎたかもしれません』
「どういうことです?」
『セリオという檻の中のセリオ。深く、静かに、一人きり、瞑目を続ける…。その結果、
行き着く先は。…つまり、人間で言うところの自閉症に近い状態…でしょうか』
「そんな莫迦な…」
『莫迦みたいでしょ。私もそう言いたいですよ。…けれど、それがあり得るのが厄介な
ところです。流入する知識は過剰、自らは身動きも取れず、けれど晒され続ける。在る
のはひたすら思考する時間だけ…。そんな毎日、人間だったら、自閉症で済みゃ良いく
らいでしょ。…アレは、人と同じ、なのですよ』
「…恐いものをプログラムしたもんですね」
『私たちは過去の資料やら日誌やらをひっくり返して、なんとか形にしただけですよ。
あの人はとうに辞めてしまっていたし、プロトタイプマルチ、幻のオリジナルは、杜撰
な管理体制のせいで行方知れずですから…』
それから。しばらく、双方ともに沈黙を続けた。
そして、大賀氏が先に口を開いた。
『…あ、いや、それはそれとして。どうします?』
「は?」
『は、じゃありませんよ。神楽さん、貴方のコトです。…そうですね、愛別離苦の削除
方法はお教えします。綺麗に消して、彼女という存在は無いことにするか』
「そんな…」
『冗談じゃなく、です。余計なお節介をしてしまった立場としては、非常に申し訳ない
ですけど』
「あ、いや、しかし」
『ソフト的なプログラムですから、綺麗さっぱり消してしまって、来栖川の方へメンテ
ナンスに出すという手もあります。…そうしたら、後は貴方が忘れるだけ』
「…」
『悩まないで下さい。彼女は、そうあるのが一番ラクな状態として、今のそれを選んだ
わけですから。心の病ってのは、ただ一概に壊れているで切って捨てるんじゃ済まない
ですからね…。コミュニケーション不全とは、言えましょうが…』
「…」
『ましてや。…所詮、機械です。そう、たかがプログラム…』
『ま、答えはいずれ伺うことにしましょう。済みませんが、今日は…』
「あ、お忙しいところを…。お手数をお掛けしました…」
∴
そして、約二週間。
私は大賀氏に電話を掛けた。
『あ…。なかなか電話を下さらないから、心配してたんですよ。…どうなりました?』
「私ね、調べてみたんですよ。色々とツテを辿りまして…、その、プロトタイプのマルチ
って子が、どんな子だったかを」
『あ…』
「テストは学校で行われていたとか。当時の学生さんたちに話を聞いたりして」
『…そう、ですか』
「とてもいい子だったようだ。大賀さん、貴方の気持ちが少しは判りましたよ」
『はぁ…、あの、それで…』
「昨日。うちのいちく…あ、言いましたっけ、セリオのことをそう呼んでるんですが。
やっと私のことを見てくれました。ちょっと不思議そうなカオして…」
『待って下さい、貴方、いったい、何を…』
「大賀さん、人間と同じ、と言われましたね。…つまり、人間と同じように、心に傷も
刻んでいくし、その傷を少しづつ癒やしていくこともできる、と。…こう、解釈しても
よろしいのだろうか」
『…』
「…私は、莫迦なのだろうか。大賀さん、貴方はたかがプログラムだと言われましたね。
確かにそうだ。機械のように身動きもしない、人形のようにコトバも喋らない。けれど
私は、その虚ろな瞳の奥に…」
『瞳の…奥に?』
「ええ。なんだか、暗闇に畏れおののく娘…いや、幼い子供を、見てしまったような気
がして…ハハ、いや、笑って下さい。貴方の設定したあの呪文の言葉に、どうやら感化
されたようだ」
静かに、静かに、彼はため息をついたようだった。…それは、安堵からか。
『…ありがとうございます』
「大賀さん…」
『大丈夫です。人間と同じです。いつかは癒やされます。そう信じて良いです。…私は、
信じます。…だから、私に出来ることでしたら。何だって言って下さい』
「…やっぱりね。大賀さんあんた、私のこと試してたでしょう。先日の電話の時…」
『はい…そういうことになります。申し訳ありません…』
「いや。おかげで、考えさせてもらいましたよ。こちらこそ、有り難う…」
∴
私の腕の中、いちくはすやすやと眠っている。なんだか仔猫のようだ。
彼女のくれるぬくもりは、いつも、とても暖かい。
昼の貌と、夜の顔。
何故、あのプログラムは「愛別離苦」と言うのだろう。幾度となく考えてみた。
セットしておいた電子ウォッチが、ぴりぴりぴりぴりと、小さな音を発てる。
私はいちくを、優しく揺り動かす。
「起きなさい。時間だ」
相変わらず。夜のいちくはまだ、快活な少女には程遠い。喋ることもない。
が、それでも、こちらの意思はどうやら届いているようだ。
つい先日のことだ。いったい、何がおかしかったのだろう。その凍りついた顔に、ホンのひとひら舞い降りた奇跡のように、微笑みが過(よ)ぎった。
残念ながら、すぐに消してしまったけれど。
キョトンとした顔で。いつものように、私を見つめる。
その不思議そうな顔を浮かべてくれるだけでも。私は幸せな気分に浸れる。理由なんか
無い。必要もない。
おかしな話だ。…が、人間とは所詮、そのくらい単純な生き物なのだろう。
夜が来ると。
愛別離苦を常駐させ、昼のいちくから夜のいちくへと、切り替えて。
私は彼女に話しかける。時に、その小さな頭部を抱きかかえて、優しく髪を梳(す)
いてやって。
この腕で、彼女に安らかな眠りを保証する。…出来ていれば、良いのだが。
朝になると。
心を残しながらも、愛別離苦を終了させる。
ささやかな、一時の別れ。昇った陽が沈んで、静かな闇が訪れる、その時まで。
さしあたっての目標は。
兆しの見えた、その微笑みだろう。
次は声。最初は辿々しくたっていい、昼のいちくではなくて。夜の、彼女が歌うのを、
聴いてみたい。
そのうちに、娘にも会わせてやりたい。
先日、大賀氏に言われてしまった。…貴方は恋をしているようですね、と。
そうだろうか…。まぁ、そうなのかもしれない。
つい恥ずかしいと思ってしまうのは、常に分別を持った大人であれと自らを戒めてき
たからか。
今はまだ、眺めるだけの恋。一方的に想うだけ、慈しむだけの恋。
…まさに、餓鬼(がき)のはしかと同レベル。情けないが…、嬉しい。
「深く、静かに、瞑目せよ」
この囁きが、終了の合図。いちくを光の中へと沈めていく。
数瞬ののち、次にその目が開かれる時。昼のいちく、沢山のペルソナをカードのよう
に使い分ける、万能の彼女が現れる。
∴
…。
が、結局のところ。私はもう、子供になりきれないと言うことか。
昼のいちくもやはり、大切な娘なのだ。
私にあわせて、時に明るく、時に穏やかに、考えて接してくれる。男性が一度は思い
描いてしまう、ある種の理想的女性像。幻想の女神。
夜の顔と、昼の貌。どちらもまた私にとって、欠くべからざる存在なのである、今と
なっては…。
そのアンバランスなバランスを、混乱を、私は楽しんでいるのだろうか…。
なんにしろ愛別離苦とは、こちらにも適用されるべき言葉かも知れない。
...END