〜4月20日(日)〜 眠れる機械群の少女
「はあ、はあ、はあ」
研究所に着いた頃にはもう日付が変わってしまっていた。
しかしここは電脳世界の中枢。眠ることのない機械制御の建物。
僕はパスで電磁ロックを開けると、中へと突入する。
さすがに深夜ともなれば、すべての電気が煌々とついているわけではない。非
常灯の淡い緑色の光だけが照らす廊下を、僕は全速力で走っていった。
「はあ、はあ、はあっ」
どれだけの距離の廊下を駆け抜け、いくつの角を曲がっただろう。僕は頭では
なく、体で憶えた道順を進み、とうとう、目的の部屋の前まで辿り着いたので
あった。
部屋のプレートには『プロジェクト13』の文字。
「はあ、はあ、はあ、はあっ」
電子ロックにパスカードを差し込む。
プーッ
開かない。
もう一度!
プーッ
「くそっ!」
僕は思いきりドアを蹴り付けた!
トカッ
ここまでのマラソンで力を失った脚では、情けない音を立てるだけだった。
体はもはや疲労をこえて感覚がない。自分自身、一体どのくらいの距離を走っ
たかなんて頭にない状態だ。
「はあ、はあ、はあっ」
僕はとにかく呼吸を落ち着かせようと、その場に座り込んだ。
……とその時、目の前の扉が機械音とともに、なんなく開いた。
「……祐介くん、あなた一体……」
前には厳しい表情の相田主任が立っていた。
「セリオは何処ですか?」
「あなたね、今いったい…」
「どこかって訊いているんですっ!」
僕の怒鳴り声に、主任の言葉が詰まった。
「…………」
「セリオに会わせてください。そうすれば……おとなしく帰りますから……」
「………………」
重い沈黙が二人の間に流れた。
「………セリオの試験期間が8日間って事は知っているわね」
「……はい」
「その最終日が今日。つまり、彼女はその役割を終えたの…」
「……どういうことですか…」
「彼女はデータを採取され、本社の大型コンピューターに移されるわ。そこか
らまた別の場所に移動されて、保管されるの。ボディの方は、また新しい『セ
リオ』が入って試験を続けるか、それともサンプルとして保管の方にまわされ
るか、それはまだ分からないわね」
「ちょっと……それって…」
「……そう。………そういうことよ…」
僕も主任さんも、互いの目を嫌なくらい真剣に見た。
嘘とか冗談とかは、論外のようだ。
「…………」
目線を逸らしたのは僕の方だった。
そして相田主任の横を通り過ぎると、奥の部屋へと入ろうとする。
「!? ちょっと待ちなさいっ、祐介くん!」
「嫌です。セリオに会います」
主任の腕を振り切って、中に入ろうとする。
「セリオが死んでしまうかもしれないっていうのに、何で会っちゃいけないん
ですかっ!」
「セリオは別に死ぬって訳じゃないわ! ただ眠るだけなのよっ!」
――ただ眠るだけ――
その言葉は、僕の中の『何か』に触れた。
世界が……ぐにゃり…と歪んだような気がした。
チリチリチリ…という音が頭の中を……。
「会わせてあげたら良いじゃないか」
「長瀬主任!?」
「…………叔父さん……?」
突然投げ掛けられた叔父の声が、僕を正気へと戻した。
同時に頭にズキズキするような痛みを覚える。
「長瀬主任! 勝手なことを言わないで下さいっ! セリオに関しては全責任
を私が任されているんです。だいたいっ、マルチの方の最終チェックはどうし
たんですか!?」
「いやねぇ、やっぱり娘っていうのは、父親よりも好きな男と一緒にいたいら
しいんだよ」
「は?」
そう言うと、叔父はちょっと肩をすくませてみせた。
「だいたい君だって、二人に最後の思い出を作らせてあげたかったから、わざ
わざ課長に頭を下げて時間を引き延ばしたんだろ?」
「……………」
そう言われると、相田主任は途端に黙ってしまった。
「……長瀬主任、裏方は裏方に徹しきってこそ、初めて裏方足り得るんですよ」
「なんですか、それは?」
しらっとうそぶく叔父に、相田主任は『はぁ〜』と深いため息を吐いて、
「……10分だけよ」
と僕に言った。
「それ以上は…ダメ。かえって、別れが辛くなるから…」
僕は黙って、ぺこりと一回お辞儀をすると、中へと入っていった……。
「……ったく。綺麗な記憶のまま、別れさせてあげたかったのに……」
「……そういうことは、本人同士が決めることですよ……」
「………セリオ」
その光景に、僕は半ば愕然とした。
埋め尽くされた機械群。その中央部分に設置されたメンテナンスシートの上に、
少女は仰向けに横たわっていた。
素肌が露になっている。
「…………」
……だが、それよりも僕を動揺させたのは、その下からのぞくメタリックな機
械部品の数々であった。
その分解途中のセリオの体は、腰から下の部分がなく、右腕も取り外されてい
た。わずかに残った上半身と左腕、そこからもさまざまなコードが生え、周り
にある機械へと繋がっていた。
「セリオ」
僕は彼女の側に近寄り、残った左手を握る。
『まって。今、電源を入れるわ』
部屋の隅にあるスピーカーから主任さんの声が聞こえてきた。
ぶうぅぅん…。
『いい、きっかり10分間よ。その間は、部屋のカメラもマイクも全て切るわ。
誰もあなたたちのことを覗かない。でも、10分経ったら、すぐさまセリオの
電源を落とすわよ』
「…わかりました」
そう言うと、プツッとスピーカーの切れる音がした。
僕はセリオの顔を覗き込み、そっと囁き掛けた。
「セリオ」
「――……祐介さん」
彼女はあの澄みきった瞳を、僕に向けてきた。
ぎゅっと握る手に力がこもる…。
「――申し訳ありませんでした」
「なにが?」
謝る彼女に僕は微笑んで訊いた。
「――今日でお別れのことを、祐介さんに言いませんでした」
「いいんだよ、もう。こうしてまた会えたんだから…」
――彼女には会えなかった――
僕の胸がチクリと痛んだ。
「――……言えませんでした」
「………」
「――プログラムでは言うよう命令を出していたのに、言えなかったのです」
ジッと僕を見る。
「――言おうとして、祐介さんの顔を見ると、その命令がクリアされてしまう
んです」
「……そう」
僕は短く、そして彼女の手を握ることで、その言葉に応えた。
「……………」
「――………」
そのまま、沈黙の時間が続いた。
……僕は、セリオに会って、いったい何がしたかったんだろう…。
何か言いたいことが、大切なことを言わなくっちゃいけないはずなのに、言葉
が出てこない……。
貴重な時間だけが、無意味に過ぎていく……。
僕はただ、セリオの手を握って、その顔を見ていてやることしかできなかった。
そして、10分という短い時間が、もう終わろうかとしたその時、セリオの方
が口を開いた。
「――祐介さん。一つだけ、お聞きしたいことがあります」
「……ん…なに…?」
「――私、キレイですか?」
メタリックな部分を露出させた少女は、濁りのない瞳をこちらに向けて、そう
訊いてきた。
「……………」
「――………」
「………ああ。セリオは僕が今まで出会った女の子の中で、一番…綺麗だよ」
「――………良かった……」
セリオが安心したように呟くと、静かに目を閉じた。
……その瞬間、僕は、自分が何を言いたかったのかを悟った。
ぐっと手を強く握る。
「……もうすぐ、お別れだ」
「――はい。祐介さんには本当にお世話になりました」
セリオの表情には相変わらず変化がない。でも、僕はその鉄と人工皮膚との顔
の中に、微笑みを見たような気がした。
「ああ…」
手に入れた力を抜く。
絡み合う糸が解けていくように、手が、指が離れていく中、最後に残った左小
指を、セリオの白いそれにしっかりと絡めた。
「………おやすみ……セリオ……」
ぶうぅぅん…。
その瞬間、セリオの電源が落ちた…。
小指が離れ、セリオの左腕がゆっくりと下に、落ちていく……。
「………」
僕はそのまま、動かなかった。
背中に、ぽん…と、大きな手が乗った。
僕はゆっくりと顔を上げ、セリオの顔を見た。
もはや完全に何も映さなくなった冷たい瞳――
僕は…その頬をそっ…と撫でた。
「………叔父さん」
「………なんだ?」
「………セリオの目からさ、青い光が漏れ出していたんだ。……普通の光には
負けてしまう、弱い、綺麗な光……」
「…………………」
「あれって……僕の…目の錯覚だったのかなぁ…?」
僕はセリオの頬を撫でながら、震える声でそう呟いた。
「………おそらく、内部のコンピューターか何かがエラーを起こして、瞳にあ
る光スコープの光調節機能を誤作動させたのだろう」
「…誤作動?」
「ああ。情報伝達回路の混乱。人間で言う感情の高ぶり。つまり……」
「――涙――だ」
ピキ――ン
瞳からこぼれた雫が、少女の頬に落ちて……散った……。